2023年12月 アーカイブ
2023年12月17日 13時18分29秒 (Sun)
変えられない運命(宿命)どう向き合うか?
【特集】変えられない運命(宿命)どう向き合うか?
生年月日から導き出す四柱推命の「命式」は当然、どんなにあがいても変えられないものです。先天運(自分の中にある、生まれ持った運気)を観るのが四柱推命なのですから変えられないのは当然なのです。但しその「命」を知ってどのように活かすかは本人次第です。(天命→宿命→立命→使命=運命)そこで私たちは変えられない運命(宿命)と常にどのように折り合いをつけていくかが大切になってきます。 しかしそのことがうまくできない場合、自身の運命に絶望して自ら命を絶ってしまうようなケースもあり得ることになります。
☐運命に勝つ(負ける)とは
運命論者というと、いまでは人気がないかもしれませんが、わたしはある意味、運命論者かもしれません。その意味は運命(絶対的存在)という存在を認める立場ということです。そしておそらく多数派だと思われる反運命論者は、運命という存在を認めない立場の人かと思います。 しかしそれは同時に絶対的なものの存在を認めない立場の人と言い換えることができるかと思います。よく聞く「運命に勝つ(負ける)」という表現を例に考えてみたいと思います。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《人生の諸段階》
「運命に勝つ」とか言う人は、運命を自分にとっての対象物と捉えているように思います。つまり自分が自分の運命を、距離をとって客観的に見たり、それをコントロールしてそれの方向や動きを変えられるものとして見ているということです。しかしこれは大きな誤りです。
「私の運命」は、私の対象物ではなく、それは「私そのもの(私の本体)」です。決して私から見られるものではなく、むしろ「意識としての私(自己意識)」は、「私の運命(私の本体)」と一体のものです。 もう一つは純粋に外的な出来事、それこそ天災が降りかかるといったようなその人の人生を左右するような影響力のある出来事はまさに運命的出来事と言っていいでしょう。自分自身の感情や衝動と外部から私に起こる出来事も合わせてその全体が「私の運命」であり、「私の本体」だと私は考えます。
その人の人生を左右したことだけを、運命的という傾向がありますが、実際には、きょうの晩御飯は、焼き肉ではなく焼き魚だったという小さなことでも、それもまたれっきとしたその人のその日の運命に違いないのです。たとえ髪の毛一本が抜けるのもそこには「私の運命」が統率していると考えます。
「運命としての私(命)」と「運命を受け入れる者としての私(自己意識)」
「私」という存在は「運命としての私」と「運命を受け入れる者としての私(自己意識)」の2つが相即的に構成しあいながら、ひとつの「私」として実際に存在しています。(※)
(※)「私の運命」と「自己(意識)」のどちらかが優先して存在しているということではなく、運命があれば、自己(意識)があり、自己(意識)があれば、私の運命がある、という仕方で両者が相伴いながらひとつのものとして存在していることを「相即的」という言葉で言い表しました。
そして「私の本体」すなわち「運命としての私」を自分ではコントロールできない、侵せないものとして、受け入れることこそ、まさに「私が私自身であること」(私が私自身と一つになること)になります。私自身も自己実現というときはいつも自分自身と一つになることを念頭に置いています。
「運命を切りひらく」という表現があります。もしこのような状態があるとすれば私は次のように解釈します。
「運命を切りひらく」とは、自分に起こる出来事を私の運命として無条件に受け入れて、その運命(によって与えられた境遇)を、何かのために「生かす」ことであると考えます。
したがって「運命に勝つ(負ける)」と云った言葉は非常にナンセンスと、私は思います。運命と戦うという状態がもしあるとすれば、それは「運命を受け入れる者としての私」と、「運命を受け入れられない私」との戦いなのであって、運命そのものを対象化してそれと戦うという話ではないのです。この意味で運命に勝つという表現は非常にナンセンスなのではないかと私は思っています。
次にとても参考になる吉田孝二氏による経営の神様と称される松下幸之助氏のエピソードを紹介します。
☐「自分に与えられた運命を積極的に受け入れる(「学歴がなかったおかげ」松下幸之助物語 吉田孝二著)
人は、逆境に立つと、必ず次のように言う。「どうして私ばかりこんな目に遭わなければならないのか」と。それは、自分に与えられた運命や境遇を受け入れられないことの表れである。

松下幸之助は、「嘆いて状況が好転するものであれば、嘆けばいい」と云います しかし、「嘆いても嘆いても、どうにもならないことは、嘆いてはならない」と教えます。大不況がきたとき、「どうしてこんなことになったのか。いつになったら好転するのか」と嘆いてみても、事態は何も変わりません。それどころか、嘆いている間に、ますます事態は悪化する。「困難よろしいな」、「不景気よろしいな」、「不景気のおかげで」、「不景気だからこそ」と考えることの大事さを、松下幸之助は教えました。生きる名人の秘伝ではないでしょうか。
前向きの発想、生きる名人になるための発想、そして秘伝を一言で表すならば、「それもまた良し、ホトトギス」。かつて松下政経塾で、塾生が質問したことがあります。「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス。この三つの江戸時代の狂歌、塾長はどれですか」と。そのときの答えが、「鳴かぬなら、それもまた良しホトトギスやな」。私は、まさに名人の発想法を教えられた気がしましたと。
鳴かないホトトギスは、自分にとっての逆境と思えばいい。普通は、殺してしまいたいし、何とかしたいものです。しかし、松下幸之助は、「鳴かないホトトギス、いいじゃないか受け入れてやれ」と云います。そのように考えると、どうやら、生き方名人は、自らにふりかかってくる境遇を、「それもまた良し」と受け入れる心を持った人ではないかと思います。 すべての運命を積極的に受け入れることが、生きる名人の秘伝であるとすれば、人生に無駄な経験など何もないことになります。「父さん、それもまた良しホトトギス。倒産したおかげで、初めて自分の甘さを知ることができた」となります。「落選、それもまた良しホトトギス。落選したおかげで、初めて日陰に立つ苦しみを知った」。すべての経験を生かす力、それが、生きる名人の力なのです。
「商売に浮き沈みはない」。そんな言葉を松下幸之助から教えられたことがあります。「商売というものは、本来、永遠に発展するものである。それを人は浮き沈みがあると言う。浮き沈みがあると考えたら、浮き沈みする。浮き沈みするのは商売ではない。人間の心である。 商売は、永遠に発展する。否、それだけではない。「商売が永遠に発展するのは、万物を生かそうと働いている宇宙根源の力によるものである。その力に素直に従えば、商売は永遠に発展する。発展するのは、宇宙の根源であると。」
☐「運命を受け入れる」のと「諦める」のは違う
・受け入れる=肯定する
「受け入れる」というのは、「存在を肯定する」「存在を認める」ことです。運命を肯定し、受け入れることで人生に希望が持てるようになる。「そんなもの存在しない!」とか「そんなものが存在するなんて認めない!」とか「つまんない!」「やっちゃダメ!」「嫌い」とか言われると、人の心の扉は閉じ、一気に希望が失われてしまいます。「運命を受け入れる」というのは、決して「諦める」とか「何もしない」ということではなく、逆で「運命を受け入れながら、より頑張る」というとらえ方が重要だと思います。
「自分の意志でどうにもならない大きなもの=運命」が、私の意志に反するような動きをしてくることも、確かにあります。その時は、それに歯向かうのでなく、それに道をゆずり、委ねて自分に出来る事を精一杯やること。「どちらにせよ、そこまで悪いことにはならないぞ」と気楽に構えて前向きに生きる。こうすると機嫌が良くなるし、冷静にもなるし、視野も広がるものです。
(補足)運命を受け入れるのを困難にさせるもの
それは、自己意識の持っている「価値(善悪)判断」の能力のことです。 人はある物事を、善いものと判断すれば、それを受け入れることができますが、悪いものと判断したら、それを受け入れることはできないでしょう。 身近な例では、人はその商品が価値ある善いものだと判断するから、それを買うのであって、その商品を粗悪品と判断していたら、それを決して買うことはないでしょう。この場合、買うという行為の前提にあるのが、その商品を善いものとして判断しているということです。ある物事を善いことと判断すること、それがその物事を「肯定する」ということであり、悪いことと判断することは、それを「拒否する」ということです。
更に言うと、肯定するとは、その物事が「あって(存在して)いい」と判断することであり、拒否するとは、その物事が「あって(存在して)はならない」と判断することなのです。 したがって、拒否する場合は、その物事を受け入れることは当然ありません。価値判断が自分に起きたこと(運命)に対しても適用されるとき、そして悪いこととして判断されるとき、人はそのことを受け入れることが出来なくなります。
誰かにむかついてしまう自分を受け入れられない理由

ある人が、誰のことも大切にやさしくしたいと思っているとします。しかし、実際には、生活の人間関係の中で、むかつく人が出てきて、それを苦にしています。ここでの「生身の私」の出来事とは、何でしょう。それは、ある人にむかついてしまっている事、このことです。
しかしこの「むかつく」という出来事が、その人にとって、誰のことも大切にやさしくしたいという理想・信条からは外れてしまうことだとすれば、その出来事は悪だと価値判断されてしまうので、そういう感情をいだいている私自身(生身の私)を受け入れられないという事態が起きるわけです。そこに苦が生まれます。 「自分の理想(あるべき自分)」と、「生身の自分」とのかい離が自己葛藤、人の苦の大元にあることなのです。
■人生を左右する出来事を受け入れられないことの本当の苦悩とは
運命的出来事を例にすると、ある人が火災事故に巻き込まれて自宅を焼かれてしまったとします。最初は、その人はその事故そのもの、あるいはその原因を悪しきものとするでしょう。しかし最終的その人にとって悪しきものとは、なんの非もないのに自分の財産や家族を失ってしまった、その「理不尽さ」であり、その理不尽さに巻き込まれてしまった自分の人生そのものなのです。そんな自分はあってはならないということです。そこに最も大きな苦悩があるのではないでしょうか。
生身の私であれ、外的出来事であれ、それを悪と価値判断することによって、それは受け入れ難いもの、受け入れたくないものとなります。そして上で述べたように運命的出来事の拒否も最終的には、自己拒否へと落ちて行ってしまうのです。自己拒否とは、自分があって(存在しては)はならないということであり、精神的葛藤(苦)の根にあるものです。したがって、本当は生きていく上で一番あってはならないものとは、自己拒否なのです。※
※「自己拒否」と「自己否定」の違いを正しく区別することが大切です。 「自己否定」とは自身の本然の良心的な心を再起するために自己中心的な思いを否定することですが、「自己拒否」は自身の存在そのものを認めないという厭世主義(絶対悲観主義)に近いものです。ここでは全く正反対の意味の言葉として用いています。
しかし意外と私たちは自分自身の何かをあってはならないものとして、拒否している場合があるのではないでしょうか。100%私が好きと云える自己肯定感が高い人が運命を完全に受け入れた人です。
☐運命を味方につける考え方
最初に古代ローマ皇帝であり、ストア学派哲学者マルクス・アウレリウス(121-180)の言葉を紹介します。 「自分に起こることのみ、運命の糸が自分に織りなしてくれることのみを愛せよ。それよりも君にふさわしいことがありえよか。」(『自省録』)

哲学者マルクス・アウレリウスは自分に起こる出来事をどう受け取るべきかついての、驚くべき賢い思考方法を提示してくれているように思われます。なぜならあなたに起こる出来事こそ、あなたにふさわしいのだから。
例えば、慢性の病気にかかってしまい、一生病院に通わなくてはならないとしましょう。その時、症状に苦しめられること、そして、今後通院を余儀なくされること、薬を飲み続けなければならないこと、食事制限がかかることなどが自分にふりかかる出来事としてあげられるかもしれません。
また、病気に対する不安・恐怖、病院に通い続けなければならないという面倒くささ、薬に対する嫌悪感、食事制限がかかることに対する不満なども、その人の内面で起こる出来事として考えられるかもしれません。 マルクス・アウレリウスは、これら全ての自分に起きる出来事を、運命があなたのために授けたものとして、あなたにふさわしいものとして受け取りなさいというのです。
マルクス・アウレリウスが自分に起きる出来事を愛せよというのは、人はそれができないと、心の一番の安らかな状態(自分を受け入れている状態)から離れていってしまう、というのを十分に理解していたからだと思います。(その離れた状態がいわゆる葛藤状態であり、これがストレス、神経症の根です)
病気にかかった自分は嫌だ、病院にずっと通わなくてはならない自分なんか嫌だ、病気を恐れている自分も臆病者みたいで嫌だし、好きなものを好きなだけ食べられない自分なんてつまらなくて嫌だ、といったように、自分に起こった出来事を受け入れないと、どんどん自分自身に対しても否定的になっていき、葛藤状態が強くなってしまうのです。
~ありのままの自分を受け入れ、肯定していく思考方法~
自分に起こる出来事を受け入れず否定することが、ひいては自分自身をも否定する原因になっているのだとすれば、自分に起きる全ての出来事を運命が自分に授けてくれたまさに自分にふさわしいものとしてみる見方は、ありのままの自分を受け入れ肯定していくための大きなヒントです。
四柱推命鑑定で自身の運命(「命」)を知っただけでは、すぐに開運にはつながりません。次にその命をそのまま受け入れること=自己肯定が大切です。そして自分の運勢を可愛がってあげる事(愛すること)がとても重要になります。近年いじめが社会問題になっています。いじめとは様々な暴力的な言動によって、相手の身体(からだ)や感情・気持ちを傷つける行為ですが、実は自分の運勢を受け入れないことは自分自身を拒否、否定しいじめる事となっていることに気づいている人は稀です。自分を自分がいじめることです。
自分を好きになることで自己肯定感が上がり、人生に希望を持つことが可能になるのだと私は考えます。
生年月日から導き出す四柱推命の「命式」は当然、どんなにあがいても変えられないものです。先天運(自分の中にある、生まれ持った運気)を観るのが四柱推命なのですから変えられないのは当然なのです。但しその「命」を知ってどのように活かすかは本人次第です。(天命→宿命→立命→使命=運命)そこで私たちは変えられない運命(宿命)と常にどのように折り合いをつけていくかが大切になってきます。 しかしそのことがうまくできない場合、自身の運命に絶望して自ら命を絶ってしまうようなケースもあり得ることになります。
☐運命に勝つ(負ける)とは
運命論者というと、いまでは人気がないかもしれませんが、わたしはある意味、運命論者かもしれません。その意味は運命(絶対的存在)という存在を認める立場ということです。そしておそらく多数派だと思われる反運命論者は、運命という存在を認めない立場の人かと思います。 しかしそれは同時に絶対的なものの存在を認めない立場の人と言い換えることができるかと思います。よく聞く「運命に勝つ(負ける)」という表現を例に考えてみたいと思います。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《人生の諸段階》
「運命に勝つ」とか言う人は、運命を自分にとっての対象物と捉えているように思います。つまり自分が自分の運命を、距離をとって客観的に見たり、それをコントロールしてそれの方向や動きを変えられるものとして見ているということです。しかしこれは大きな誤りです。
「私の運命」は、私の対象物ではなく、それは「私そのもの(私の本体)」です。決して私から見られるものではなく、むしろ「意識としての私(自己意識)」は、「私の運命(私の本体)」と一体のものです。 もう一つは純粋に外的な出来事、それこそ天災が降りかかるといったようなその人の人生を左右するような影響力のある出来事はまさに運命的出来事と言っていいでしょう。自分自身の感情や衝動と外部から私に起こる出来事も合わせてその全体が「私の運命」であり、「私の本体」だと私は考えます。
その人の人生を左右したことだけを、運命的という傾向がありますが、実際には、きょうの晩御飯は、焼き肉ではなく焼き魚だったという小さなことでも、それもまたれっきとしたその人のその日の運命に違いないのです。たとえ髪の毛一本が抜けるのもそこには「私の運命」が統率していると考えます。
「運命としての私(命)」と「運命を受け入れる者としての私(自己意識)」
「私」という存在は「運命としての私」と「運命を受け入れる者としての私(自己意識)」の2つが相即的に構成しあいながら、ひとつの「私」として実際に存在しています。(※)
(※)「私の運命」と「自己(意識)」のどちらかが優先して存在しているということではなく、運命があれば、自己(意識)があり、自己(意識)があれば、私の運命がある、という仕方で両者が相伴いながらひとつのものとして存在していることを「相即的」という言葉で言い表しました。
そして「私の本体」すなわち「運命としての私」を自分ではコントロールできない、侵せないものとして、受け入れることこそ、まさに「私が私自身であること」(私が私自身と一つになること)になります。私自身も自己実現というときはいつも自分自身と一つになることを念頭に置いています。
「運命を切りひらく」という表現があります。もしこのような状態があるとすれば私は次のように解釈します。
「運命を切りひらく」とは、自分に起こる出来事を私の運命として無条件に受け入れて、その運命(によって与えられた境遇)を、何かのために「生かす」ことであると考えます。
したがって「運命に勝つ(負ける)」と云った言葉は非常にナンセンスと、私は思います。運命と戦うという状態がもしあるとすれば、それは「運命を受け入れる者としての私」と、「運命を受け入れられない私」との戦いなのであって、運命そのものを対象化してそれと戦うという話ではないのです。この意味で運命に勝つという表現は非常にナンセンスなのではないかと私は思っています。
次にとても参考になる吉田孝二氏による経営の神様と称される松下幸之助氏のエピソードを紹介します。
☐「自分に与えられた運命を積極的に受け入れる(「学歴がなかったおかげ」松下幸之助物語 吉田孝二著)
人は、逆境に立つと、必ず次のように言う。「どうして私ばかりこんな目に遭わなければならないのか」と。それは、自分に与えられた運命や境遇を受け入れられないことの表れである。

松下幸之助は、「嘆いて状況が好転するものであれば、嘆けばいい」と云います しかし、「嘆いても嘆いても、どうにもならないことは、嘆いてはならない」と教えます。大不況がきたとき、「どうしてこんなことになったのか。いつになったら好転するのか」と嘆いてみても、事態は何も変わりません。それどころか、嘆いている間に、ますます事態は悪化する。「困難よろしいな」、「不景気よろしいな」、「不景気のおかげで」、「不景気だからこそ」と考えることの大事さを、松下幸之助は教えました。生きる名人の秘伝ではないでしょうか。
前向きの発想、生きる名人になるための発想、そして秘伝を一言で表すならば、「それもまた良し、ホトトギス」。かつて松下政経塾で、塾生が質問したことがあります。「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス。この三つの江戸時代の狂歌、塾長はどれですか」と。そのときの答えが、「鳴かぬなら、それもまた良しホトトギスやな」。私は、まさに名人の発想法を教えられた気がしましたと。
鳴かないホトトギスは、自分にとっての逆境と思えばいい。普通は、殺してしまいたいし、何とかしたいものです。しかし、松下幸之助は、「鳴かないホトトギス、いいじゃないか受け入れてやれ」と云います。そのように考えると、どうやら、生き方名人は、自らにふりかかってくる境遇を、「それもまた良し」と受け入れる心を持った人ではないかと思います。 すべての運命を積極的に受け入れることが、生きる名人の秘伝であるとすれば、人生に無駄な経験など何もないことになります。「父さん、それもまた良しホトトギス。倒産したおかげで、初めて自分の甘さを知ることができた」となります。「落選、それもまた良しホトトギス。落選したおかげで、初めて日陰に立つ苦しみを知った」。すべての経験を生かす力、それが、生きる名人の力なのです。
「商売に浮き沈みはない」。そんな言葉を松下幸之助から教えられたことがあります。「商売というものは、本来、永遠に発展するものである。それを人は浮き沈みがあると言う。浮き沈みがあると考えたら、浮き沈みする。浮き沈みするのは商売ではない。人間の心である。 商売は、永遠に発展する。否、それだけではない。「商売が永遠に発展するのは、万物を生かそうと働いている宇宙根源の力によるものである。その力に素直に従えば、商売は永遠に発展する。発展するのは、宇宙の根源であると。」
☐「運命を受け入れる」のと「諦める」のは違う
・受け入れる=肯定する
「受け入れる」というのは、「存在を肯定する」「存在を認める」ことです。運命を肯定し、受け入れることで人生に希望が持てるようになる。「そんなもの存在しない!」とか「そんなものが存在するなんて認めない!」とか「つまんない!」「やっちゃダメ!」「嫌い」とか言われると、人の心の扉は閉じ、一気に希望が失われてしまいます。「運命を受け入れる」というのは、決して「諦める」とか「何もしない」ということではなく、逆で「運命を受け入れながら、より頑張る」というとらえ方が重要だと思います。
「自分の意志でどうにもならない大きなもの=運命」が、私の意志に反するような動きをしてくることも、確かにあります。その時は、それに歯向かうのでなく、それに道をゆずり、委ねて自分に出来る事を精一杯やること。「どちらにせよ、そこまで悪いことにはならないぞ」と気楽に構えて前向きに生きる。こうすると機嫌が良くなるし、冷静にもなるし、視野も広がるものです。
(補足)運命を受け入れるのを困難にさせるもの
それは、自己意識の持っている「価値(善悪)判断」の能力のことです。 人はある物事を、善いものと判断すれば、それを受け入れることができますが、悪いものと判断したら、それを受け入れることはできないでしょう。 身近な例では、人はその商品が価値ある善いものだと判断するから、それを買うのであって、その商品を粗悪品と判断していたら、それを決して買うことはないでしょう。この場合、買うという行為の前提にあるのが、その商品を善いものとして判断しているということです。ある物事を善いことと判断すること、それがその物事を「肯定する」ということであり、悪いことと判断することは、それを「拒否する」ということです。
更に言うと、肯定するとは、その物事が「あって(存在して)いい」と判断することであり、拒否するとは、その物事が「あって(存在して)はならない」と判断することなのです。 したがって、拒否する場合は、その物事を受け入れることは当然ありません。価値判断が自分に起きたこと(運命)に対しても適用されるとき、そして悪いこととして判断されるとき、人はそのことを受け入れることが出来なくなります。
誰かにむかついてしまう自分を受け入れられない理由

ある人が、誰のことも大切にやさしくしたいと思っているとします。しかし、実際には、生活の人間関係の中で、むかつく人が出てきて、それを苦にしています。ここでの「生身の私」の出来事とは、何でしょう。それは、ある人にむかついてしまっている事、このことです。
しかしこの「むかつく」という出来事が、その人にとって、誰のことも大切にやさしくしたいという理想・信条からは外れてしまうことだとすれば、その出来事は悪だと価値判断されてしまうので、そういう感情をいだいている私自身(生身の私)を受け入れられないという事態が起きるわけです。そこに苦が生まれます。 「自分の理想(あるべき自分)」と、「生身の自分」とのかい離が自己葛藤、人の苦の大元にあることなのです。
■人生を左右する出来事を受け入れられないことの本当の苦悩とは
運命的出来事を例にすると、ある人が火災事故に巻き込まれて自宅を焼かれてしまったとします。最初は、その人はその事故そのもの、あるいはその原因を悪しきものとするでしょう。しかし最終的その人にとって悪しきものとは、なんの非もないのに自分の財産や家族を失ってしまった、その「理不尽さ」であり、その理不尽さに巻き込まれてしまった自分の人生そのものなのです。そんな自分はあってはならないということです。そこに最も大きな苦悩があるのではないでしょうか。
生身の私であれ、外的出来事であれ、それを悪と価値判断することによって、それは受け入れ難いもの、受け入れたくないものとなります。そして上で述べたように運命的出来事の拒否も最終的には、自己拒否へと落ちて行ってしまうのです。自己拒否とは、自分があって(存在しては)はならないということであり、精神的葛藤(苦)の根にあるものです。したがって、本当は生きていく上で一番あってはならないものとは、自己拒否なのです。※
※「自己拒否」と「自己否定」の違いを正しく区別することが大切です。 「自己否定」とは自身の本然の良心的な心を再起するために自己中心的な思いを否定することですが、「自己拒否」は自身の存在そのものを認めないという厭世主義(絶対悲観主義)に近いものです。ここでは全く正反対の意味の言葉として用いています。
しかし意外と私たちは自分自身の何かをあってはならないものとして、拒否している場合があるのではないでしょうか。100%私が好きと云える自己肯定感が高い人が運命を完全に受け入れた人です。
☐運命を味方につける考え方
最初に古代ローマ皇帝であり、ストア学派哲学者マルクス・アウレリウス(121-180)の言葉を紹介します。 「自分に起こることのみ、運命の糸が自分に織りなしてくれることのみを愛せよ。それよりも君にふさわしいことがありえよか。」(『自省録』)

哲学者マルクス・アウレリウスは自分に起こる出来事をどう受け取るべきかついての、驚くべき賢い思考方法を提示してくれているように思われます。なぜならあなたに起こる出来事こそ、あなたにふさわしいのだから。
例えば、慢性の病気にかかってしまい、一生病院に通わなくてはならないとしましょう。その時、症状に苦しめられること、そして、今後通院を余儀なくされること、薬を飲み続けなければならないこと、食事制限がかかることなどが自分にふりかかる出来事としてあげられるかもしれません。
また、病気に対する不安・恐怖、病院に通い続けなければならないという面倒くささ、薬に対する嫌悪感、食事制限がかかることに対する不満なども、その人の内面で起こる出来事として考えられるかもしれません。 マルクス・アウレリウスは、これら全ての自分に起きる出来事を、運命があなたのために授けたものとして、あなたにふさわしいものとして受け取りなさいというのです。
マルクス・アウレリウスが自分に起きる出来事を愛せよというのは、人はそれができないと、心の一番の安らかな状態(自分を受け入れている状態)から離れていってしまう、というのを十分に理解していたからだと思います。(その離れた状態がいわゆる葛藤状態であり、これがストレス、神経症の根です)
病気にかかった自分は嫌だ、病院にずっと通わなくてはならない自分なんか嫌だ、病気を恐れている自分も臆病者みたいで嫌だし、好きなものを好きなだけ食べられない自分なんてつまらなくて嫌だ、といったように、自分に起こった出来事を受け入れないと、どんどん自分自身に対しても否定的になっていき、葛藤状態が強くなってしまうのです。
~ありのままの自分を受け入れ、肯定していく思考方法~
自分に起こる出来事を受け入れず否定することが、ひいては自分自身をも否定する原因になっているのだとすれば、自分に起きる全ての出来事を運命が自分に授けてくれたまさに自分にふさわしいものとしてみる見方は、ありのままの自分を受け入れ肯定していくための大きなヒントです。
四柱推命鑑定で自身の運命(「命」)を知っただけでは、すぐに開運にはつながりません。次にその命をそのまま受け入れること=自己肯定が大切です。そして自分の運勢を可愛がってあげる事(愛すること)がとても重要になります。近年いじめが社会問題になっています。いじめとは様々な暴力的な言動によって、相手の身体(からだ)や感情・気持ちを傷つける行為ですが、実は自分の運勢を受け入れないことは自分自身を拒否、否定しいじめる事となっていることに気づいている人は稀です。自分を自分がいじめることです。
自分を好きになることで自己肯定感が上がり、人生に希望を持つことが可能になるのだと私は考えます。
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