小説:―Legurus―
1章 これが日常。普通の生活。
「ぶえっくしょい!!」
盛大なくしゃみを一発。
朝。春の陽気が漂う、気持ちのいい朝の空気が入る部屋で、一人の少年が飛び起きた。
起きたばかりだからか髪の毛はぼさぼさではある。切れ長の瞳を持ち、簡単に言えば多少威圧感のある顔をしている。
寝てたら寒いってことは、毛布でも蹴っ飛ばしたかな?
そう思った少年は寝ぼけ眼とくしゃみで若干痛くなったのどを気にしながら、今の今まで眠っていたベットを見つめた。
そこで見つけたのは予想通りの崩れた布団と床に大部分が落ちてしまっている毛布。
そりゃ寒いよ、とか呟きながら少年は落ちていた毛布を引っ張り布団を自らの体にかけた。
もにゅ……
「んあ?」
生暖かく、恐ろしいぐらいにすべすべとした柔らかい物体。いつまでも触っていたくなるような、そんな心地よい感触。
布団をかけ直した少年の手を、そんな不思議な感触が襲った。
とりあえずその感触が何処から来るのか、それを確かめる為に手の先を見る。
「んみゅぅ……けーいやー……」
少年の手の先。まあつまり手の平には普通の男子では色々な所で夢見ること間違いなしの代物が。
そして、そのさらに先。胸から首、首に巻かれた赤い質素なチョーカーの上。視線をゆっくりと動かして見えたのは少しつやつやとした感じのする寝顔の少女の顔。
もにゅもにゅ
「んぁ……! そ、そこはだめぇ……」
なぜこんなときに限って少年の手は動いてしまったのか。
少年の手によって胸を揉まれた少女は、そんなつやっぽい声を漏らしてしまう。
その声を聞き、きっかり10秒固まった少年は叫んだ。
「どわああぁぁぁ!!!」
素っ頓狂な叫び声を上げた少年は、見事にベットから転げ落ちる。
「な、なんで一乃(かずの)が俺のベットで寝てるんだよ!」
ベットの上にいる人物を指差しながら、少年はわなわなと震えだす。
そんな少年の事など露知らず、朝の気持ちのいい微睡の時間を叫び声によって起こされた少女は少年の方をゆっくりと向く。
「んー? あー、圭椰(けいや)おはよー」
「おはよー、じゃない!」
ギリギリギリギリ…!
「いひゃいいひゃいいひゃいいひゃい!」
にへーっとだらしない顔で笑う少女の頬を、少年は思いっきりつねる。
とりあえずつねる。千切れんばかりに。
寝起きに思いっきり頬をつねられた為に、少女は思いっきり飛び上がった。そして、頬をしっかりとつねっていた少年の手をどかしながら少女は抗議する。
「ちょっ! 圭椰! 痛いってば!」
「なんで俺のベットで寝ていたのかと俺は聞いている!」
「えーっと、それは……」
「ほう……もう一回やってほしいと言っているのかな? 我が姉は」
「すいませんごめんなさいもうしませんから許してください」
目の前で綺麗な土下座を決める少女は、少年の双子の姉、帷(とばり)一乃。右の目元の下と口元の左下にある二つのほくろと、少年とよく似た切れ長の瞳が印象的な少女だ。
そして、この部屋の主である少年、帷 圭椰は朝から土下座をしている自分とよく似た顔を持つ姉を見ながら、軽くため息を吐いた。
「はぁ…一乃、そんな事言っても無駄。なんどもなんどもなんどもなんどもなんども潜り込んでくるくせに」
「うっ…」
罰が悪そうに顔を歪めて圭椰の言葉に反応する一乃。
この双子の姉弟、どちらが上か分からない。
「まあ、とりあえず朝飯にしようか。リクエストは何かあるか?」
「圭椰!」
「………」
「いやごめんなさい私が調子に乗ったのが悪いんですだからでこピンはやめてください」
指をプルプルと震わせながら額を狙う圭椰の指に、再度土下座を行う一乃。
平謝りに近かった先ほどとは打って変わり、今回は真剣に止めてほしいと望んでいるようで額が完全に床に擦れてしまっている。
そんな姉の威厳まるでなしの行為を見下ろしながら、圭椰は薄く息を吐く。
「ったく、なら今日の味噌汁はノーマルだな」
「そ、それだけはご勘弁を!」
「なら、なにがいいんだよ?」
一乃にとっての朝の人質を振りかざした圭椰に、どこぞの時代劇のように泣きつく一乃。
その一乃の姿をニヤニヤとした笑顔で見つめながら、圭椰は一乃に質問する。傍から見れば、その笑顔の奥にはきっと悪魔の尻尾と翼が見えていただろう。
「味噌汁サツマイモ入りバージョン!」
「……その言い方だどっかの機械のアタッチメントを付け替えた時の名前みたいだな」
「サツマイモ入り味噌汁、圭椰の愛をこめて♪」
「……どうして懲りないのかなこの姉は? ん? ここに思いっきりぶちこんでほしいのか? 俺の指を」
とても真っ黒ないい笑顔で一乃の額を小突き始める圭椰。
涙目になりながら額を小突かれ続けている一乃は、『あぅ』とか『えぅ』とかの言葉しか出てこない。
土下座したくても圭椰の指が嫌と言うほどに額を小突いてくるために頭を下げられないのだ。
そして、それは安易にこう示してもいる。3度目はないと。
「……ま、いいか。ってか、こんなことしてたら学園に遅れちまう。ほら、一乃は部屋に戻って制服に着替える。俺は朝飯用意するから」
「サー、イエッサー!」
ビシッと音が鳴るほどに綺麗な敬礼を決めた一乃は、これ幸いとかなりのスピードで圭椰の部屋から離脱する。
一瞬、台所に現れる黒い生命体に見えなくもない動きを目にした圭椰は頭を痛めるが、それでもその幻想を振り払い制服に着替えるためにかかっているハンガーに手を伸ばす。
さっと紺色のジャケットの袖に腕を通し、ズボンをはいてベルトを締め、赤色に金の刺繍が施されたネクタイをつける。きちんと着ているそぶりはないが、家の中なのでラフなのだろう。そして、1階にあるキッチンへと向かう圭椰。
帷家の家事は主に圭椰が行っている。ずぼらな姉を見て育った圭椰としては、自分がしっかりしなければ一乃はおろか自分も生きていけなくなると幼い頃に決心したからである。
そのため、圭椰の家事スキルは非常に高く、今の西暦2047年のほぼ全自動化された一般的な家事においてもその能力をいかんなく発揮していた。
代表格として挙げられるのが、料理だ。
「えーっと、味噌汁か……って、時間あんまりないじゃん。くっそ、ならインスタントで誤魔化すか。ご飯はあるからそれを後から出して……サツマイモはこれ位に細切りにして入れておけばいいだろ」
何とも綺麗で見事な手際である。
つい2年前に開発された全自動料理ロボットを使うご家庭も多い中、圭椰の家に限ってはそれはない。
骨董品とも呼ばれ始めている約30年前近くまでは現役で稼働していたオーブンやコンロ。それらを巧みに扱う圭椰がいれば、高い金を出してロボットを買う必要はないのだ。
だが、今は時間がない。悠長に構えていては通う学園の始業のチャイムに間に合わなくなるからである。
「新学期初日から遅刻は痛いもんな……お、出来たし降りてきたな」
ドタドタと階段を駆け下りてくる音を聞き届けた圭椰は、朝食をテーブルへと並べテレビをつけていつもの朝食風景を再現する。
だが、その朝食風景には似つかわしくないものがリビングに至る扉を開けて入って来た。
「圭椰! ボタンが閉められないから手伝って!」
「ぶふぉ!!」
半裸。そう言ってもなんの問題もないような格好で一乃がリビングに突貫してくる。
一乃が叫ぶ通り、制服であるワイシャツのボタンは一切付けられておらず胸元にあるはずのリボンも結ばれていない。スカートもぐちゃぐちゃで見るに堪えない光景だ。そして、なぜかワイシャツの下には何もつけていなかった。
そして一番目立つ部分、それは家族のひいき目で見ても十分にご立派な双丘がワイシャツを押し上げており、おいここから出せよと主張しているのだ。
姉の見事な肢体を間近で見てしまった圭椰は、思いっきり吹き出してしまう。
「ねえ圭椰、手伝ってよ! このままだと学園に遅れちゃう!」
「手伝ってよじゃねーよこのアホ姉! なんで肌着って言うか下着つけてないんだよ!」
「だって暑い……」
「一乃が暑くても俺は熱くない! だから下着をつけてきなさい! ボタン云々はその後!」
「わきゃぁ!」
顔を真っ赤にしながら家族の痴態を隠すように圭椰は一乃をリビングから締め出す。
高速で回れ右をさせられ、リビングから綺麗に放り出された一乃は短い悲鳴を上げながら倒れ込む。
だが、そんな姿を扉を閉めてしまっている圭椰は見てはいない。渋々と言った様子で一乃は下着をつけに向かうために自らの部屋へと戻った。
「……ったく、あの姉のあの感じはいつまで続くんだろうか」
愚痴りながら、圭椰は食卓のテーブルに並べられた食事たちを眺める。
1人愚痴っていてもは今らないものは始まらない。だが、愚痴りたくもなると言うのが今の圭椰の心境だった。
彼の友人曰く、「俺様にもその女っ気をよこせ! なんでお前ら二人だけ! 俺様の筋肉の方がよっぽど良いと言うのが世の女どもにはなぜわからないんだ!」とか。「羨ましいね、うん。でも、僕にはその苦労が分かってあげられるよ。だって、僕と圭椰君の仲じゃないか」など。
その愚痴にはそのような答えが返ってくるのだろうが、それこれもいつも通りの日常である。
「圭椰! 今度はリボン!」
「なら先に朝食! サツマイモは入れてあるから安心しろ」
「おお、さすが圭椰! ではでは早速―――」
「てい」
「あたっ!」
味噌汁の入ったお椀に手を伸ばそうとしていた一乃を、チョップすることで止める圭椰。
「何するの圭椰!」
「そりゃこっちの台詞。いただきますはどうした」
「あ」
自らの胸の前で手を合わせてみる圭椰。
それを見た一乃は、口をあんぐりと開けて自らの過ちを認めた。
そして、圭椰に習い自らも胸の前で手を合わせる。
「「いただきます」」
食事の前のあいさつをきちんと交わした2人は朝食を取り始める。
最初の方はお互い無言。必要性がなければ食事中は喋らない。これが帷家の暗黙のルールだ。
だが、それを耐えきれるのは10代の若さではない。まずは一乃が口を開いた。
「そういえばあたしたちも今日から高校二年生なんだよねー」
「ああ、対して何にも変わらないけどな。俺は今まで通り普通に過ごすさ」
「えー、圭椰もせっかく練武科(レジスタ)にいるんだから頑張らないと!」
「いや、俺が使ったらなぜか壊れるんだから仕方ないじゃん」
「ほんとだよねー」
「そこは納得する所じゃないだろ……」
味噌汁をすすりながら、圭椰は一乃の納得っぷりに呆れかえる。
自ら話を振ったと言うのに、終わり方はとことん雑。なかなかに面倒な性格をしている一乃だ。
「あ、圭椰は1週間後の国際試合出るの?」
「俺が出れるわけないじゃん。専用のレグルスもないし、俺が使えば壊れるから教師からは『壊し屋(グラップラー)』何て呼ばれてるんだぞ?」
「おお、なんかかっこいい二つ名を聞いた!」
「恥ずかしいだけだよこっちは!」
箸を握り締めながら目を輝かせる一乃に、圭椰はお椀をテーブルに荒く置きながら抗議する。
そして、圭椰はふと壁にかかった時計を見る。見てしまった。
固まってしまった圭椰を見て、一乃もその固まってしまった原因である時計を見る。
その時計の針が指していた時間、それは8時25分。無情にも始業のタイムまで10分と言う箇所を針は指していた。
帷家から学園までは歩いて15分ほど。それはつまり、歩いていては絶対に間に合わない時間と言う事。
れっきとした事実としてその現実を受け入れるまでに時間のかかった姉弟は、お互いに顔を見合わせて叫んだ。
「「遅刻だーーー!!!」」
朝食は片づけられていたために、2人はテーブルに食器を置いたまま自らの部屋へと駆け戻る。
そして、学園で使う教材その他諸々が入ったカバンを抱えて家を飛び出した。
ダダダダダ……!
圭椰と一乃は全力で走る。脇目も振らず、一心不乱に。
走りながら纏められた一乃のツインテールが揺れ、圭椰の持っているカバンが重さのために暴れる。
双子とは言っても頭一つ分ほどの身長差のある2人では歩幅が完全に違うために、若干、圭椰の方がスピードが速かった。
曲がり角を急角度で曲がり、通る必要のない細い路地を信号から回避するために使う。
完全AI制御になってしまった車社会では車からの信号無視は絶対にない事だが、人からの信号無視は必ず起きる。それを考えての路地の使用である。
道中にある障害を難なく突破し、2人が通う国立エーリア学園の校門まで、あと数百メートル。
「あーん、待ってよ圭椰ー」
「待たん! つか走れ! ほんとに間に合わなくなる!」
朝っぱらからの全力疾走。しかも朝食を腹に入れたばかり。そんな悪魔の2連コンボが決まっている一乃にとって、圭椰の頼みは聞けないものだった。
体力の限界、それが迫っていたのだ。
「も、無理……お姉ちゃん、先に待ってるね?」
「あーもうどうでも良いフラグ立てんじゃねー! だが、回収ぐらいはしてやるよ!」
ガシッ
「へ?」
「先に校門で待ってろやぁぁーー!!」
ブォン!
「うきゃぁぁぁーーー!!!」
走っていた圭椰は、一乃の肩を唐突に掴むとそのままそこを軸に一乃の体をぶん投げた。
普通に考えたら絶対に出来ない行為。膂力が人外でないと不可能なのだが、それが出来る秘密を一乃は持っていた。
ぶん投げられた一乃は、重力など一切感じさせない錐揉み飛行で真っ直ぐに校門へと向かう。だが、校門までの数百メートルをそれで突っ切り、校門さえもその状態で突っ切ってしまう一乃。
「くっ、圭椰のバカァァ!」
恨み言を叫びながら飛ぶ一乃。そして、その先には学園の校舎の壁が。
誰しもがぶつかると覚悟したその瞬間、一乃の体が一瞬光輝く。
《starting go by Legurus setup》
機械的な音声と光が輝いたと思った瞬間、一乃の体は空中で静止していた。
「っ、ゴーーール!!!」
キーンコーンカーンコーン……
チャイムが鳴ると同時に、圭椰は体を滑り込ませるようにして校門をくぐる。
綺麗なヘッドスライディングとまでは言わないが、それを見事に決めて見せた圭椰のもとに、頭上から声がかかった。
「もう、圭椰! 学園内に入ったからよかったけど、あんな事しないでよ! 怖かったんだからね!」
「わり。でも、間に合っただろ? 一乃だから出来た離れ業。これさえあれば遅刻はないな!」
「笑顔でそんなこと言うの禁止ー!」
プンスカと怒る一乃。
その一乃の背中には、赤を基調とした金属の大きな翼が。静かだがしっかりと聞こえる空気が圧縮され排出される音を聞きながら、圭椰は目の前で浮かぶ一乃の手を取った。
「怒るなって。ほら、教室行かないと。2年生棟に変わっただけだから対して変化はないはずだぜ? 早くしないとほんとに遅刻になっちまう」
「分かってるよぅ」
圭椰に手を取られた一乃は、引かれるように浮いていた体を地面へと降ろし、小さくつぶやいた。
「レグルス、チェインアウト」
その呟かれた言葉に反応するように、一乃の背中に生えるようにしてついていた赤い金属の翼が量子化されて消える。
量子化された証である薄緑色の光の残滓の尾を引きながら、一乃は圭椰に手を引かれながら自らの新たな教室に向かっていった。
「ほんと、便利になったよな世の中さ」
一乃の手を引きながら階段を上がっていると、圭椰が唐突にそんな事を呟いた。
「便利に?」
「ああ。さっきのだってそうだ。歴史の授業で習うけどさ、量子格納技術の開発で俺たちの生活はより便利になった。今まで持ち運ぶ事が出来なかったものが、簡単に持ち運べたりさ」
そう言いながら、圭椰はポケットに突っ込んでいた薄型の携帯端末を取り出す。
今の時代では誰しもが持っている小型量子格納機である。
パチンと音を響かせながら圭椰はそれを操作し、投影されたビジョンに現れている画像を一乃に見せた。
「俺たちが生まれる前じゃこんなのはしっかりと現像して持っておくものだったんだから。今じゃこうやってデータのみで良い。重いって思わなくても済むし、何より汚れる事も色褪せる事もないからさ」
階段の踊り場で立ち止まり、一乃に見せた画像を見つめる圭椰。
その画像に映っていたのは腕白そうな一組の少年と少女と妙齢の女性の姿。一組の少年少女とはもちろん圭椰と一乃である。
では、その隣で微笑んでいる妙齢の女性は誰か。
一乃はその答えを言うように呟いた。
「おかーさんの写真……それしか残ってないんだよね?」
「ああ、考古学の研究で海外で亡くなったんだっけか。俺たち2人だけじゃ海外に行けなかったから、骨とかは見てないけどな」
階段の踊り場で2人立ち竦みながら、圭椰と一乃は昔の事に思いをはせる。
2人の両親は物心ついた時から、母親である帷 真弓(まゆみ)1人だった。
父親は二人が生まれてすぐに他界したと真弓に聞かされていたため、不思議と母親だけしかいない状況に違和感は感じず育った。
女手一つで育ててくれた真弓には感謝してもしきれない。
生きてさえいれば。
「うん。5年も前の事だから、仕方ないよ」
「母さんが見つけたスペルクォーツ。それを使った兵器が開発されてるって聞いたときはイラついたけどな」
「でも、圭椰がさっき言った量子格納技術の開発による技術転用のおかげでそれはなくなったじゃん」
「そりゃそうなんだけどな」
展開させていた携帯端末を片付けながら、圭椰は唇をかみしめる。
「スペルクォーツは俺たちにとって母さんの形見みたいなもんだ。それを人を傷つけるための道具の材料にされてたまるかよ」
「だから圭椰もあたしもこの学園への進学を決めたんじゃない。実態を知らないと、何も対処は出来ないから」
「……ああ。ま、適性があったのは一乃だけだったみたいだけどな」
自嘲気味に笑いながら圭椰は再び歩き出す。
階段を一段一段踏みしめるように歩く圭椰を見て、一乃は思わず圭椰の制服の裾を掴んだ。
その背中に、何とも言えない暗い感情を感じたから。
「そんなこと言わないでよ……2人で頑張るって言ったじゃん」
「分かってる。ま、このままいけば表舞台に立つのは一乃だ。俺は裏方で奔走するさ」
制服の裾を固く握りしめている一乃の手を、圭椰は優しく包み込む。
一本一本指を外しながら圭椰は言う。
「なんだ、一乃は一乃のやりたいようにやってくれ。俺はしっかりとそれをフォローするからさ」
完全に指が外れ、圭椰は一瞬一乃の手を強く握ると手を離した。
だが、直ぐにその手は取られ逆に握り返されてしまう。
「……圭椰は? 圭椰自身はどうしたいの?」
「俺? 俺は今まで通りさ。誰かのために何かが出来るのなら、俺は喜んでやる。俺の事なんてどうだっていいさ。あ、本気で教室行かないとやばいぞ!」
乾いた笑いを浮かべた後、圭椰は腕時計を見て声を荒げる。
先ほど遅刻ギリギリで校門に滑り込んだばかりなのだ。悠長に構えていられる時間はない。
握られたままなのを良い事に、圭椰は一乃を腕ごと引っ張る。
「きゃっ!」
「急ぐぞ一乃!」
階段を駆け上がり、圭椰と一乃は自らの教室へと続く扉を開けた。
盛大なくしゃみを一発。
朝。春の陽気が漂う、気持ちのいい朝の空気が入る部屋で、一人の少年が飛び起きた。
起きたばかりだからか髪の毛はぼさぼさではある。切れ長の瞳を持ち、簡単に言えば多少威圧感のある顔をしている。
寝てたら寒いってことは、毛布でも蹴っ飛ばしたかな?
そう思った少年は寝ぼけ眼とくしゃみで若干痛くなったのどを気にしながら、今の今まで眠っていたベットを見つめた。
そこで見つけたのは予想通りの崩れた布団と床に大部分が落ちてしまっている毛布。
そりゃ寒いよ、とか呟きながら少年は落ちていた毛布を引っ張り布団を自らの体にかけた。
もにゅ……
「んあ?」
生暖かく、恐ろしいぐらいにすべすべとした柔らかい物体。いつまでも触っていたくなるような、そんな心地よい感触。
布団をかけ直した少年の手を、そんな不思議な感触が襲った。
とりあえずその感触が何処から来るのか、それを確かめる為に手の先を見る。
「んみゅぅ……けーいやー……」
少年の手の先。まあつまり手の平には普通の男子では色々な所で夢見ること間違いなしの代物が。
そして、そのさらに先。胸から首、首に巻かれた赤い質素なチョーカーの上。視線をゆっくりと動かして見えたのは少しつやつやとした感じのする寝顔の少女の顔。
もにゅもにゅ
「んぁ……! そ、そこはだめぇ……」
なぜこんなときに限って少年の手は動いてしまったのか。
少年の手によって胸を揉まれた少女は、そんなつやっぽい声を漏らしてしまう。
その声を聞き、きっかり10秒固まった少年は叫んだ。
「どわああぁぁぁ!!!」
素っ頓狂な叫び声を上げた少年は、見事にベットから転げ落ちる。
「な、なんで一乃(かずの)が俺のベットで寝てるんだよ!」
ベットの上にいる人物を指差しながら、少年はわなわなと震えだす。
そんな少年の事など露知らず、朝の気持ちのいい微睡の時間を叫び声によって起こされた少女は少年の方をゆっくりと向く。
「んー? あー、圭椰(けいや)おはよー」
「おはよー、じゃない!」
ギリギリギリギリ…!
「いひゃいいひゃいいひゃいいひゃい!」
にへーっとだらしない顔で笑う少女の頬を、少年は思いっきりつねる。
とりあえずつねる。千切れんばかりに。
寝起きに思いっきり頬をつねられた為に、少女は思いっきり飛び上がった。そして、頬をしっかりとつねっていた少年の手をどかしながら少女は抗議する。
「ちょっ! 圭椰! 痛いってば!」
「なんで俺のベットで寝ていたのかと俺は聞いている!」
「えーっと、それは……」
「ほう……もう一回やってほしいと言っているのかな? 我が姉は」
「すいませんごめんなさいもうしませんから許してください」
目の前で綺麗な土下座を決める少女は、少年の双子の姉、帷(とばり)一乃。右の目元の下と口元の左下にある二つのほくろと、少年とよく似た切れ長の瞳が印象的な少女だ。
そして、この部屋の主である少年、帷 圭椰は朝から土下座をしている自分とよく似た顔を持つ姉を見ながら、軽くため息を吐いた。
「はぁ…一乃、そんな事言っても無駄。なんどもなんどもなんどもなんどもなんども潜り込んでくるくせに」
「うっ…」
罰が悪そうに顔を歪めて圭椰の言葉に反応する一乃。
この双子の姉弟、どちらが上か分からない。
「まあ、とりあえず朝飯にしようか。リクエストは何かあるか?」
「圭椰!」
「………」
「いやごめんなさい私が調子に乗ったのが悪いんですだからでこピンはやめてください」
指をプルプルと震わせながら額を狙う圭椰の指に、再度土下座を行う一乃。
平謝りに近かった先ほどとは打って変わり、今回は真剣に止めてほしいと望んでいるようで額が完全に床に擦れてしまっている。
そんな姉の威厳まるでなしの行為を見下ろしながら、圭椰は薄く息を吐く。
「ったく、なら今日の味噌汁はノーマルだな」
「そ、それだけはご勘弁を!」
「なら、なにがいいんだよ?」
一乃にとっての朝の人質を振りかざした圭椰に、どこぞの時代劇のように泣きつく一乃。
その一乃の姿をニヤニヤとした笑顔で見つめながら、圭椰は一乃に質問する。傍から見れば、その笑顔の奥にはきっと悪魔の尻尾と翼が見えていただろう。
「味噌汁サツマイモ入りバージョン!」
「……その言い方だどっかの機械のアタッチメントを付け替えた時の名前みたいだな」
「サツマイモ入り味噌汁、圭椰の愛をこめて♪」
「……どうして懲りないのかなこの姉は? ん? ここに思いっきりぶちこんでほしいのか? 俺の指を」
とても真っ黒ないい笑顔で一乃の額を小突き始める圭椰。
涙目になりながら額を小突かれ続けている一乃は、『あぅ』とか『えぅ』とかの言葉しか出てこない。
土下座したくても圭椰の指が嫌と言うほどに額を小突いてくるために頭を下げられないのだ。
そして、それは安易にこう示してもいる。3度目はないと。
「……ま、いいか。ってか、こんなことしてたら学園に遅れちまう。ほら、一乃は部屋に戻って制服に着替える。俺は朝飯用意するから」
「サー、イエッサー!」
ビシッと音が鳴るほどに綺麗な敬礼を決めた一乃は、これ幸いとかなりのスピードで圭椰の部屋から離脱する。
一瞬、台所に現れる黒い生命体に見えなくもない動きを目にした圭椰は頭を痛めるが、それでもその幻想を振り払い制服に着替えるためにかかっているハンガーに手を伸ばす。
さっと紺色のジャケットの袖に腕を通し、ズボンをはいてベルトを締め、赤色に金の刺繍が施されたネクタイをつける。きちんと着ているそぶりはないが、家の中なのでラフなのだろう。そして、1階にあるキッチンへと向かう圭椰。
帷家の家事は主に圭椰が行っている。ずぼらな姉を見て育った圭椰としては、自分がしっかりしなければ一乃はおろか自分も生きていけなくなると幼い頃に決心したからである。
そのため、圭椰の家事スキルは非常に高く、今の西暦2047年のほぼ全自動化された一般的な家事においてもその能力をいかんなく発揮していた。
代表格として挙げられるのが、料理だ。
「えーっと、味噌汁か……って、時間あんまりないじゃん。くっそ、ならインスタントで誤魔化すか。ご飯はあるからそれを後から出して……サツマイモはこれ位に細切りにして入れておけばいいだろ」
何とも綺麗で見事な手際である。
つい2年前に開発された全自動料理ロボットを使うご家庭も多い中、圭椰の家に限ってはそれはない。
骨董品とも呼ばれ始めている約30年前近くまでは現役で稼働していたオーブンやコンロ。それらを巧みに扱う圭椰がいれば、高い金を出してロボットを買う必要はないのだ。
だが、今は時間がない。悠長に構えていては通う学園の始業のチャイムに間に合わなくなるからである。
「新学期初日から遅刻は痛いもんな……お、出来たし降りてきたな」
ドタドタと階段を駆け下りてくる音を聞き届けた圭椰は、朝食をテーブルへと並べテレビをつけていつもの朝食風景を再現する。
だが、その朝食風景には似つかわしくないものがリビングに至る扉を開けて入って来た。
「圭椰! ボタンが閉められないから手伝って!」
「ぶふぉ!!」
半裸。そう言ってもなんの問題もないような格好で一乃がリビングに突貫してくる。
一乃が叫ぶ通り、制服であるワイシャツのボタンは一切付けられておらず胸元にあるはずのリボンも結ばれていない。スカートもぐちゃぐちゃで見るに堪えない光景だ。そして、なぜかワイシャツの下には何もつけていなかった。
そして一番目立つ部分、それは家族のひいき目で見ても十分にご立派な双丘がワイシャツを押し上げており、おいここから出せよと主張しているのだ。
姉の見事な肢体を間近で見てしまった圭椰は、思いっきり吹き出してしまう。
「ねえ圭椰、手伝ってよ! このままだと学園に遅れちゃう!」
「手伝ってよじゃねーよこのアホ姉! なんで肌着って言うか下着つけてないんだよ!」
「だって暑い……」
「一乃が暑くても俺は熱くない! だから下着をつけてきなさい! ボタン云々はその後!」
「わきゃぁ!」
顔を真っ赤にしながら家族の痴態を隠すように圭椰は一乃をリビングから締め出す。
高速で回れ右をさせられ、リビングから綺麗に放り出された一乃は短い悲鳴を上げながら倒れ込む。
だが、そんな姿を扉を閉めてしまっている圭椰は見てはいない。渋々と言った様子で一乃は下着をつけに向かうために自らの部屋へと戻った。
「……ったく、あの姉のあの感じはいつまで続くんだろうか」
愚痴りながら、圭椰は食卓のテーブルに並べられた食事たちを眺める。
1人愚痴っていてもは今らないものは始まらない。だが、愚痴りたくもなると言うのが今の圭椰の心境だった。
彼の友人曰く、「俺様にもその女っ気をよこせ! なんでお前ら二人だけ! 俺様の筋肉の方がよっぽど良いと言うのが世の女どもにはなぜわからないんだ!」とか。「羨ましいね、うん。でも、僕にはその苦労が分かってあげられるよ。だって、僕と圭椰君の仲じゃないか」など。
その愚痴にはそのような答えが返ってくるのだろうが、それこれもいつも通りの日常である。
「圭椰! 今度はリボン!」
「なら先に朝食! サツマイモは入れてあるから安心しろ」
「おお、さすが圭椰! ではでは早速―――」
「てい」
「あたっ!」
味噌汁の入ったお椀に手を伸ばそうとしていた一乃を、チョップすることで止める圭椰。
「何するの圭椰!」
「そりゃこっちの台詞。いただきますはどうした」
「あ」
自らの胸の前で手を合わせてみる圭椰。
それを見た一乃は、口をあんぐりと開けて自らの過ちを認めた。
そして、圭椰に習い自らも胸の前で手を合わせる。
「「いただきます」」
食事の前のあいさつをきちんと交わした2人は朝食を取り始める。
最初の方はお互い無言。必要性がなければ食事中は喋らない。これが帷家の暗黙のルールだ。
だが、それを耐えきれるのは10代の若さではない。まずは一乃が口を開いた。
「そういえばあたしたちも今日から高校二年生なんだよねー」
「ああ、対して何にも変わらないけどな。俺は今まで通り普通に過ごすさ」
「えー、圭椰もせっかく練武科(レジスタ)にいるんだから頑張らないと!」
「いや、俺が使ったらなぜか壊れるんだから仕方ないじゃん」
「ほんとだよねー」
「そこは納得する所じゃないだろ……」
味噌汁をすすりながら、圭椰は一乃の納得っぷりに呆れかえる。
自ら話を振ったと言うのに、終わり方はとことん雑。なかなかに面倒な性格をしている一乃だ。
「あ、圭椰は1週間後の国際試合出るの?」
「俺が出れるわけないじゃん。専用のレグルスもないし、俺が使えば壊れるから教師からは『壊し屋(グラップラー)』何て呼ばれてるんだぞ?」
「おお、なんかかっこいい二つ名を聞いた!」
「恥ずかしいだけだよこっちは!」
箸を握り締めながら目を輝かせる一乃に、圭椰はお椀をテーブルに荒く置きながら抗議する。
そして、圭椰はふと壁にかかった時計を見る。見てしまった。
固まってしまった圭椰を見て、一乃もその固まってしまった原因である時計を見る。
その時計の針が指していた時間、それは8時25分。無情にも始業のタイムまで10分と言う箇所を針は指していた。
帷家から学園までは歩いて15分ほど。それはつまり、歩いていては絶対に間に合わない時間と言う事。
れっきとした事実としてその現実を受け入れるまでに時間のかかった姉弟は、お互いに顔を見合わせて叫んだ。
「「遅刻だーーー!!!」」
朝食は片づけられていたために、2人はテーブルに食器を置いたまま自らの部屋へと駆け戻る。
そして、学園で使う教材その他諸々が入ったカバンを抱えて家を飛び出した。
ダダダダダ……!
圭椰と一乃は全力で走る。脇目も振らず、一心不乱に。
走りながら纏められた一乃のツインテールが揺れ、圭椰の持っているカバンが重さのために暴れる。
双子とは言っても頭一つ分ほどの身長差のある2人では歩幅が完全に違うために、若干、圭椰の方がスピードが速かった。
曲がり角を急角度で曲がり、通る必要のない細い路地を信号から回避するために使う。
完全AI制御になってしまった車社会では車からの信号無視は絶対にない事だが、人からの信号無視は必ず起きる。それを考えての路地の使用である。
道中にある障害を難なく突破し、2人が通う国立エーリア学園の校門まで、あと数百メートル。
「あーん、待ってよ圭椰ー」
「待たん! つか走れ! ほんとに間に合わなくなる!」
朝っぱらからの全力疾走。しかも朝食を腹に入れたばかり。そんな悪魔の2連コンボが決まっている一乃にとって、圭椰の頼みは聞けないものだった。
体力の限界、それが迫っていたのだ。
「も、無理……お姉ちゃん、先に待ってるね?」
「あーもうどうでも良いフラグ立てんじゃねー! だが、回収ぐらいはしてやるよ!」
ガシッ
「へ?」
「先に校門で待ってろやぁぁーー!!」
ブォン!
「うきゃぁぁぁーーー!!!」
走っていた圭椰は、一乃の肩を唐突に掴むとそのままそこを軸に一乃の体をぶん投げた。
普通に考えたら絶対に出来ない行為。膂力が人外でないと不可能なのだが、それが出来る秘密を一乃は持っていた。
ぶん投げられた一乃は、重力など一切感じさせない錐揉み飛行で真っ直ぐに校門へと向かう。だが、校門までの数百メートルをそれで突っ切り、校門さえもその状態で突っ切ってしまう一乃。
「くっ、圭椰のバカァァ!」
恨み言を叫びながら飛ぶ一乃。そして、その先には学園の校舎の壁が。
誰しもがぶつかると覚悟したその瞬間、一乃の体が一瞬光輝く。
《starting go by Legurus setup》
機械的な音声と光が輝いたと思った瞬間、一乃の体は空中で静止していた。
「っ、ゴーーール!!!」
キーンコーンカーンコーン……
チャイムが鳴ると同時に、圭椰は体を滑り込ませるようにして校門をくぐる。
綺麗なヘッドスライディングとまでは言わないが、それを見事に決めて見せた圭椰のもとに、頭上から声がかかった。
「もう、圭椰! 学園内に入ったからよかったけど、あんな事しないでよ! 怖かったんだからね!」
「わり。でも、間に合っただろ? 一乃だから出来た離れ業。これさえあれば遅刻はないな!」
「笑顔でそんなこと言うの禁止ー!」
プンスカと怒る一乃。
その一乃の背中には、赤を基調とした金属の大きな翼が。静かだがしっかりと聞こえる空気が圧縮され排出される音を聞きながら、圭椰は目の前で浮かぶ一乃の手を取った。
「怒るなって。ほら、教室行かないと。2年生棟に変わっただけだから対して変化はないはずだぜ? 早くしないとほんとに遅刻になっちまう」
「分かってるよぅ」
圭椰に手を取られた一乃は、引かれるように浮いていた体を地面へと降ろし、小さくつぶやいた。
「レグルス、チェインアウト」
その呟かれた言葉に反応するように、一乃の背中に生えるようにしてついていた赤い金属の翼が量子化されて消える。
量子化された証である薄緑色の光の残滓の尾を引きながら、一乃は圭椰に手を引かれながら自らの新たな教室に向かっていった。
「ほんと、便利になったよな世の中さ」
一乃の手を引きながら階段を上がっていると、圭椰が唐突にそんな事を呟いた。
「便利に?」
「ああ。さっきのだってそうだ。歴史の授業で習うけどさ、量子格納技術の開発で俺たちの生活はより便利になった。今まで持ち運ぶ事が出来なかったものが、簡単に持ち運べたりさ」
そう言いながら、圭椰はポケットに突っ込んでいた薄型の携帯端末を取り出す。
今の時代では誰しもが持っている小型量子格納機である。
パチンと音を響かせながら圭椰はそれを操作し、投影されたビジョンに現れている画像を一乃に見せた。
「俺たちが生まれる前じゃこんなのはしっかりと現像して持っておくものだったんだから。今じゃこうやってデータのみで良い。重いって思わなくても済むし、何より汚れる事も色褪せる事もないからさ」
階段の踊り場で立ち止まり、一乃に見せた画像を見つめる圭椰。
その画像に映っていたのは腕白そうな一組の少年と少女と妙齢の女性の姿。一組の少年少女とはもちろん圭椰と一乃である。
では、その隣で微笑んでいる妙齢の女性は誰か。
一乃はその答えを言うように呟いた。
「おかーさんの写真……それしか残ってないんだよね?」
「ああ、考古学の研究で海外で亡くなったんだっけか。俺たち2人だけじゃ海外に行けなかったから、骨とかは見てないけどな」
階段の踊り場で2人立ち竦みながら、圭椰と一乃は昔の事に思いをはせる。
2人の両親は物心ついた時から、母親である帷 真弓(まゆみ)1人だった。
父親は二人が生まれてすぐに他界したと真弓に聞かされていたため、不思議と母親だけしかいない状況に違和感は感じず育った。
女手一つで育ててくれた真弓には感謝してもしきれない。
生きてさえいれば。
「うん。5年も前の事だから、仕方ないよ」
「母さんが見つけたスペルクォーツ。それを使った兵器が開発されてるって聞いたときはイラついたけどな」
「でも、圭椰がさっき言った量子格納技術の開発による技術転用のおかげでそれはなくなったじゃん」
「そりゃそうなんだけどな」
展開させていた携帯端末を片付けながら、圭椰は唇をかみしめる。
「スペルクォーツは俺たちにとって母さんの形見みたいなもんだ。それを人を傷つけるための道具の材料にされてたまるかよ」
「だから圭椰もあたしもこの学園への進学を決めたんじゃない。実態を知らないと、何も対処は出来ないから」
「……ああ。ま、適性があったのは一乃だけだったみたいだけどな」
自嘲気味に笑いながら圭椰は再び歩き出す。
階段を一段一段踏みしめるように歩く圭椰を見て、一乃は思わず圭椰の制服の裾を掴んだ。
その背中に、何とも言えない暗い感情を感じたから。
「そんなこと言わないでよ……2人で頑張るって言ったじゃん」
「分かってる。ま、このままいけば表舞台に立つのは一乃だ。俺は裏方で奔走するさ」
制服の裾を固く握りしめている一乃の手を、圭椰は優しく包み込む。
一本一本指を外しながら圭椰は言う。
「なんだ、一乃は一乃のやりたいようにやってくれ。俺はしっかりとそれをフォローするからさ」
完全に指が外れ、圭椰は一瞬一乃の手を強く握ると手を離した。
だが、直ぐにその手は取られ逆に握り返されてしまう。
「……圭椰は? 圭椰自身はどうしたいの?」
「俺? 俺は今まで通りさ。誰かのために何かが出来るのなら、俺は喜んでやる。俺の事なんてどうだっていいさ。あ、本気で教室行かないとやばいぞ!」
乾いた笑いを浮かべた後、圭椰は腕時計を見て声を荒げる。
先ほど遅刻ギリギリで校門に滑り込んだばかりなのだ。悠長に構えていられる時間はない。
握られたままなのを良い事に、圭椰は一乃を腕ごと引っ張る。
「きゃっ!」
「急ぐぞ一乃!」
階段を駆け上がり、圭椰と一乃は自らの教室へと続く扉を開けた。
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