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2017年7月2日 9時30分50秒 (Sun)

人種差別か否かの境界について考える

基本的にリベラルの立場にたつ私は、人種差別には当然反対である。
そして差別された側が、相手に対して「お前は人種差別主義者だ。」と言うことは大きな武器となる。
しかしながらこのいわゆる人種カードが、マナーやモラル違反や犯罪を正当化するために濫用されるケースが多くなっているようだ。

例えばタバコを吸ってはいけない場所で、外国人がそれを注意されたときに、「自分が外国人だから差別しているのか」などと突っかかってきたり、家の前で難民たちがゴミをところかまわず捨てたり、大便をしたりしたことを注意したら、人種差別主義者よばわりされるといったことがあるのである。

このような人種カードの濫用があってはならないのは秩序維持の観点から当然である。また、このような濫用がなされると、余計にその人種のイメージを悪化させ、さらなる差別を招きかねない。従って濫用がなされないためにも、人種差別かそうでないかの境界となる基準というものは必要になるだろう。

では私が人種差別の境界に関して考えたものを参考までに紹介したい。

1 社会の公益に明らかに反する行為に対する注意は、「絶対的に」差別行為ではない。→堂々と外国人やマイノリティに対する注意ができる。

2 ある人種、民族が明らかに犯罪発生率が高いと認められる場合において、それに対する職務質問の頻度が高くなることや、防衛行為が強力になることは、十分な合理性がある。→これは差別ではなく、人間である警察官が犯罪抑止行為を行う以上避けられない合理的区別である。

3 恋愛や性の対象としてみた場合に、特定の人種がその対象にならないと個人的に考えることは差別ではない。これは完全に個人の嗜好の問題であり、強制することはできない。→例えば黒人男性の誘いをアジア人女性が断ったときに、人種差別と主張したケースがあったがこんなことで人種差別主義者よばわりされたらたまったものではない。

4 臭いや体格的威圧などから生理的に近づきたくない場合にこれを避けるのは差別ではない。→これも単なる個人の自由である。

5 差別にあたるのは、ある特定の人種や民族であることのみを根拠として、侮辱や不平等な取り扱いがなされた場合に限る。なお宗教に関するものは人種差別にはあたらず、その宗教の教義の実践が社会の公益に反するものになりかねないときには、その宗教を監視、警戒するのは十分な公益に基づく合理性が認められる。


このように差別か区別かをあらかじめはっきりさせておくことが、外国人やマイノリティにとっての幸福にはむしろつながっていくと考えている。

所有権の格差が問題の根源、でも格差は必要です。

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2016年1月1日 0時45分13秒 (Fri)

フランス型原理主義的自由主義を乗り越える

はっきり言って、フランス型の原理主義的自由主義には問題がある。彼らの表現の自由に対する考え方はあまりにも硬直的であり、頭にくる表現もかなりある。

例えば東日本大震災で原発から放射能がもれた際には、相撲取りの手が何本も生えている風刺画が掲載されたりした。これは放射能による奇形発生を風刺したのだろう。

このような風刺は全く面白くもなんともないし、センスのかけらもない。純粋な笑いのレベルとしても低レベルなのだが、彼らが言うには、これに対して抗議してくる日本人はユーモアのセンスがないなどとうそぶいたらしい。フランスの笑いのレベルはこの程度なのかと失笑してしまった。


表現の自由は確かに大事である。しかしながら、その表現が他者を傷つけるようなものは控えるべきであると思う。無用な不快感や争いを発生させることはないのだ。だがフランスの原理主義的自由主義者は、受け止める側が我慢するのは当然であるかのように思っているようだ。

人間は寛容であるべきだが、その寛容さにも容量ないし限度がある。限られた容量のものを壊さないように丁寧に扱っていく努力をしなければ、寛容な社会は逆に崩壊してしまうだろう。寛容さを守っていくためには、ある程度不寛容でなければならないのである。すなわち自由の敵に対する不寛容であったり、他者を無用に傷つける表現に対する不寛容である。

人間の寛容さには限界があるそして限界のある相手を思いやる必要がある。それが和の心である。幸いにして、日本人には和の心が当たり前のようにある。これは自由主義を完成させる決定的要素なのである。

私は自由主義者であるが、原理主義的ではない。すなわち、道教の融通無碍な考え方と、神道のいい意味でのいいかげんさをもつべきであるともっているのだ。

これこそが自由主義の完成形であると私は思っている。


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2015年12月29日 22時54分09秒 (Tue)

従軍慰安婦問題でどのように対応すべきか

安倍総理が従軍慰安婦問題について、最終的な妥結を韓国と行った。しかしながら、これが最終的な決着になるなどという保証はどこにもない。今回の妥結はトップ同士の約束事にすぎず、肝心の韓国の国民が納得したものでは必ずしもないからだ。

パククネ政権の間はともかくとして、政権が変われば時の政権は人気取りのために日本たたきを行い日本相手に政治的な成果を上げようと再び蒸し返しが起きることは目に見えている。

もちろん日本は過去に行った韓国国民への多大な苦しみを与えたことについては謝るべきである。慰安婦問題は存在しなかったなどというべきでもない。すなわち業者を通じたものであったとしても、その業者によって韓国の女性たちがだまされて連れてこられたかもしれず、女性たちの苦しみとの大筋における関わりあいまで否定すべきではないからだ。

日本は謝るべきははっきりと謝り、金銭の問題は解決済みであると主張すべきである。この点については安倍総理の今回の謝罪は良かったと思う。

だが、こんご日韓関係を良いものにしようと思うのであれば、慰安婦像の撤去などというものはけして主要なポイントではない。

結局のところは、日本に対する恨みをいつまでも持続させてしまうような教育を何とかしてもらわない限り、いくらでも蒸し返しが生じてくるおそれがある。そのためには、日本に対する恨みを増幅させないような教育をするよう要求するべきである。

すなわち日本の過去の蛮行はあった。しかしながら、それに対する賠償や援助や謝罪などを日本は行い、もう世代も代わっているので未来をみていつまでも恨み続けるべきではないという教育である。

日本が謝罪や賠償を様々な形で行っているにもかかわらず、それを国内向けには一切伝えてこなかったことが、韓国の反日感情がいつまでたっても消えない一因なのである。

この点を交渉では最重要ポイントとして臨むべきであったのだが、残念ながら慰安婦像撤去などという些末なことに重きをおきすぎていたのかもしれない。

過去にやってしまったことを覆いかくすのではなく、謝罪や賠償をいろいろな形で十分にしたことを韓国の国民に伝えてもらうことこそが真のポイントなのである。


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2014年6月7日 7時12分20秒 (Sat)

全体の視点では相殺はない

ある会社が20億円かけて2万本の材料の木を仕入れ、経費10億円をかけ10万個の木材を作り50億円で売ったとする。

このとき、確かに会社は20億円の利益を得ることができる。

50億円から20億円と10億円を引いて相殺することで、会社としては20億円を生み出したと考えることができる。

会社が単に20億円を生み出したと考えることができてしまうのである。

しかしながら、これはあくまでも特定の会社という経済系の一部分からみたから言える話にすぎない。

経済系全体でみたときに、このような相殺はけしてなされることはない。

すなわち会社の行為によって、生じた客観的な現象は、2万本の木が伐採され、10万個の木材が生産されたということである。

相殺によって、2万本の木の伐採はなかったことになり、20億円分の木材すなわち4万個の木材が無から生み出されたということにはけしてならない。

客観的現象としては、なにかを失い何かを得たという変化が生じたにすぎず、けして無から有が生じたわけではないのである。

よく経済に関する記事などで、いくらの価値を生み出したなどというが、これはまさに相殺の考え方をしてしまっている。

一会社の視点からはこのような考え方もありだかが、経済系全体で見た場合には、厳密には誤りである。

かけがえのない森林資源が持続性なく失われるといった現象が生じているのかもしれないのである。


現在においては、「価値」などという現実にはありもしない抽象的なものを生産し、社会が豊かになっていくなどと勘違いしている方が多いと思う。

社会が豊かになるのは、具体的な物やサービスなどの有用性が社会に増えていくからなのである。

現実に生産されているのは物やサービスである。「価値」などという抽象的なものが生産され、相殺によって何も失わずに右肩上がりに社会資源が増え、豊かになっていくわけではないのである。






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2014年1月29日 10時10分22秒 (Wed)

人命の価値とはなにか

今回も日経新聞の経済学コラムについて。既存経済学の考え方の問題点を感じさせる内容であった。

今回の日経新聞のコラムでは、「人命の価値はどれくらいか」というものであった。

私はそもそも「価値」という書き方があまりに不明瞭なので、単に「価値」という言葉は使いたくない。使うとすれば「交換価値」などと意味をはっきりさせるべきであると思っている。だが、今回はそれはおいておく。

人命が失われたとき、その人が働ける場合であれば、稼いだはずの金額の損失が人命の価値であるという考え方は明瞭である。

この考え方の場合、寝たきり老人などの働けない人の場合は、消費しかしないため、人命の価値はゼロないしマイナスということになる。

このような結論はあまりにひどいといえばそのとおりであろう。そのせいか、コラムでは人命の価値は失われた楽しみなどの精神的要素を含むとしている。このようにすれば、人命の価値がゼロやマイナスにはならない。

しかしながら、精神的要素は慰謝料の請求の根拠とするのはよいとしても、それを「価値」とするのは問題がある。

すなわち、「損害賠償請求」として、逸失利益と慰謝料を合算するのはよいとしても、逸失利益と、失われた楽しみを同じ「価値」として合算するのは明らかに問題がある。なぜなら、精神的要素は主観的なもので物質的な客観性がないからである。

例えば精神的要素が逸失利益と合算しうる同質のものとすると、精神的要素はだれにでもあるので、人命がありさえすればそれ自体で価値があることになる。とすれば人口が増えさえすれば、それがたとえ寝たきり老人であったとしても、国富は増えることになる。しかし残念ながらそんなことはない。精神的要素と逸失利益は異質なものなのである。

どんなに役に立たない人間でも、傷つけられれば損害賠償請求できる。しかし、それはその人に金銭的・物質的価値があるからではなく、人権として精神的な賠償請求が認められているからである。

このように書くと、私はものすごく冷たい人間のように思われるかもしれない。しかしながら、そもそも人命の価値を金銭的価値に無理矢理数値一元化しようとする考え方そのものに大きな問題があるのである。









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名前
野中 健太郎
性別
男性
血液型
AB型
生年月日
1月13日
現住所
世界某所
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