映画評論
2011年1月29日 16時56分53秒 (Sat)
宇宙戦争(2005)
※この記事は内容の一部にネタバレを含みます。
この映画は、近年のスピルバーグ監督作品のなかでも僕のかなり好きな映画です!見終わった時はほんと、興奮が治まりませんでしたよ(笑)
大まかな流れの組み方として原作とほとんど変わりませんでしたし、53年版の宇宙戦争(邦名は確か、新・宇宙戦争…だったかな?)より好きですね。
さて、映画論評などと言いながら、ここは是非とも原作の『宇宙戦争』 The War of the Worlds (1898)の著者である H. G. ウェルズに絡めて論を展開したいと思います。
ウェルズは1866年、イギリスのケント県に生まれ、服地屋の店員から身を起こし、ロンドンの理科師範学校で T. H.ハクスリーの教えを受けているのですが、
・『宇宙戦争』はこのハクスリーの影響を受けているのではないか?
などという疑問がふと浮かびました。
というのもこのハクスリー、生物学者や科学啓蒙家として活動し( L. オーウェンとの論争は有名ですね)、ダーウィンの進化論を擁護したり、孫がUNESCOの事務局長に就任するなどトンデモない一族なのですが、
「おや? 生物学? 」
と立ち止まってしまうのは僕だけでしょうか?
ウェルズが生物学を学んでいて、それに深く精通していたかどうかは知らないのですが、彼がイメージした火星人の姿は、頭は大きく身体は痩せ、手足の長いものでした。
この特徴は現代の僕らがイメージする宇宙人のルーツ(変な表現ですがご勘弁を)であるとも言われていて、これにはしっかりとした理由があり、十分に発達した科学技術の中にあってそれを操作する内、考えることが多く頭は大きくなり、肉体は弱体化し、様々な機器を操作する手足は伸びる、という生物学分野の進化論に基づくような想起なのです。
さて、先ほどハクスリーを紹介する際、『科学啓蒙家』であると付記したのには理由があって、この『科学啓蒙』こそ『宇宙戦争』のキーワードのひとつであると僕は考えるのです。
今これを読んでいる半分くらいの人は頭の中が大量の疑問符で埋め尽くされているでしょうが、ひとつ皆さんに質問を提起します。
Q.トム・クルーズ演ずる主人公、レイ・フェリエは何に追われていたでしょうか?
考えるまでもなく、宇宙人、あるいはトライポッドと答えるのが妥当ですし、事実僕もそう思います。
しかし、ここに前述した『科学啓蒙』という要素を主柱として考えると事態は一変して、漠然とした表現にはなりますが、彼は科学技術そのものに追われていることになるのです!!
またまた疑問符の沸き立つ音が耳に届くようなのでなるべく具体的に説明しますが、フェリエは本編で息子や娘にトライポッドのことについて問われ、頻繁に『奴ら』という言葉を用います。他の登場人物も『トライポッド』(どうして登場人物は皆、トライポッドという名前を知っていたのでしょうかね? もしくは、誰かの発言が広まったのでしょうか?)という言葉は用いますが、直接的な表現(『宇宙人』や『侵略者』)はなされず、やはり『奴ら』という言葉を用いていました。
確かに、直接的な表現を用いずとも、トライポッドに乗っているのは我々の知っているような地球人でないことは自明であるから、その『奴ら』が何であるかわざわざ説明しなくても全く問題ない訳ですが、さすがに一度も宇宙人ないしそれに準ずる表現が無いとなると疑いたくもなるものです。
つまり、
『奴ら』= 宇宙人
は本当に成り立つのかどうか?ということです。
トライポッドには触れた途端に人体を細かく分解する高熱線を発生する装置や、見えないバリアーなどわくわくする技術が豊富に駆使されており、まさに科学技術の権化と言えます。実際にレイはその科学技術の権化たるトライポッドから逃げているわけだがら、随分強引な解釈では彼は科学技術から逃げていることになるのです。
そう考えてみると、実に『科学啓蒙』的ではありませんか? そう言えばトライポッドを倒したのも、形式的には手榴弾やバズーカ砲などの科学技術でしたね。
トライポッドを倒した、と言えば、作中では地球上のある微生物が彼らに悪影響を及ぼし、彼らが地球外から持ち込んだ赤い蔦植物が枯れたり、彼ら自身をも蝕んでゆきますが、それってどうなのでしょう? 僕としては夢オチ並みに納得のいかない結末だったように思えてなりませんが、作品全体の雰囲気を考えると仕方がないのかな?
作品は一貫してレイ視点で描かれており、彼はただの一般人であるからひたすら逃げ回るだけです。そこにはインディペンデンス・デイのように、主人公達がいきなり戦闘機に乗り込んで宇宙人と直接闘うような爽快アクションなど微塵もありません。その分、宇宙人の強さが際立つわけですが、そうするとオチの付け方がどうにも難しくなってしまいます。
また、『科学啓蒙』という観点において、微細生物の偶発的な不適合によるという僅かな希望に掛けるしかないほど、科学技術に対抗する手段がないという皮肉も、そこには含まれていると思うのです。いずれにせよ、全体の作風といいこのオチといい、好き嫌いのはっきり別れる作品だったかと思います。ちなみに僕は、原作を読むまで細菌オチが分かりませんでしたが……。
この作品で僕が気に入ったのは、なんと言ってもカメラワークですね。レイがコンテナターミナルでクレーンを操作するシーンや地中からトライポッドが出現したときのあの仰り、ボストンでトライポッドが倒れてビルに激突するときの正面カメラへの素早い切り替えといい興奮ものでした。
が、一番はやはり、序盤でレイが子供二人を車に乗せて停止した他の車の間を爆走するシーンでしょう。ワンカットで走行中の車の進行方向左側からカメラを引き、その上空を跨いで右側に周り込む映像は一瞬『え!? 』と目を疑うほど巧妙であり大胆であり、スピルバーグだからこそ成し得た業なのでしょうね。
また、これはカメラワークというのかどうか分かりませんが、レイたちがレストランに入りテーブルに座ったときその窓越しに見えるシーンは見事なエゴの表現でした。
人々は異星人の侵略という極限した状況にあたって『自分さえ助かればいい』というエゴを露呈して他者を殺してまで排他し、助からないことを悟りながらも車を奪い合うシーンには僕も若干の嘔吐感を憶えるほどでした。
一方でレイ自身も今まで家族を顧みなかったエゴイストであり、そのことを子供に詰られる彼は、親権が無いとは言え子供たちを護りきったという点において、恐らくトライポッドに捕られたらであろう彼らとは違って生き残ることが出来たのでしょう。エゴで命を落とすとはまさに、身から出た錆ですね。
ここまで宇宙戦争の良いところばかり書き上げてきましたが、粗など探せばそれなりに出てきます。この作品において不可解なことの多くは、その設定にあります。
前述したようなトライポッドという名詞を皆が知っていること(アメリカ人はネーミングセンスが一緒? )や、通信が遮断されているのにヨーロッパや日本の情報が入ってくるなど、滅茶苦茶です。一番は、人類が誕生する前から『奴ら』がトライポッドを地中に埋めていたことですが、これを突き崩すのは構成自体に関わることであるから、百歩譲って触れないことにしましょう。
とは言え、人類を何万年も観察し続けていた『奴ら』が、トライポッドを埋めた当時にはいなかった微生物に死滅せしめられるというのはどうも納得がいきませんよね? 地球より遥かに最先端の科学を持ちながら当時の資料を鵜呑みにしたのは、
『今まではそういった事態が起こらなかったから』
という『奴ら』の油断なのかもしれません。あるいはその細菌を観測できなかったとしても、幼体のためにわざわざ人間を絞らなければならないほどの、ある意味で低い科学力しかなかったことを考慮すれば合点がいきますが、尊敬するスピルバーグにはそんなコジツケには乗って貰いたくありませんね。
不可解と言えば、川を渡った先でのトライポッドと軍の衝突でレイの息子ロビーが『奴ら』に一矢報いようとレイの下を離れ、ラストシーンでボストンの母親の下に着いているという事態は不可解そのものです。
僕はてっきり彼も死んだものと数えたのですが、皆さんはどう感じましたか? あそこまで無謀な人間は地下室で一夜を共にしたハーラン・オグルビーのように、『奴ら』より寧ろ他の人間に殺されてしまうような結末を迎える運命にあるものだとばかり思っていましたが、メイキングでスピルバーグが「テロを連想させるよう撮った(飛行機の墜落残骸や行方不明者を捜すポスターなどを参照のこと)」と公言している以上、離れ離れになった元家族が抱き合うシーンを撮りたかったのかも知れません。
あれ? この作品の悪いとこを書くつもりだったのが、コレを書いている内に方向性が間逆に転じてしまいましたね。我ながら不覚です(笑)
最後に、作品に登場する大阪人の情報についてですが、大阪人がトライポッドを倒せた理由についてスピルバーグは、日本人はゴジラに代表されるような怪獣やロボットに詳しいからだという主旨を述べていて、これは『ゴジラ』好きのスピルバーグならではだと素直に頷けるところです。僕はこれを知るまで、「大阪のおばちゃんは強いから」だと真剣に思っていました。大阪のおばちゃんたち、ごめんなさい(苦笑)
そんな浅はかな僕とは違い、しっかりとした作製理念のあるスピルバーグには今後も期待が多く集まることでしょうね。これからも彼の作品が楽しみです。
以上。プロフィール
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- 血液検査未経験
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- ひみつ
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日本が大好きです。 - 職業
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ブロガー。 - 趣味
- 弓道。
映画鑑賞。
読書。
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