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戦国大名龍造寺隆信の居城佐賀龍造寺城の解明に向けて



 
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大坪芳典 2011 「戦国大名龍造寺隆信の居城「佐賀龍造寺城」の解明に向けて」『肥前史談叢』 肥前史談叢の会 

と引用・参考文献に明記して頂けますようお願い致します。

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戦国大名龍造寺隆信の居城「佐賀龍造寺城」の解明に向けて
 
 
                                        大坪 芳典

 1.はじめに
 戦国大名 龍造寺隆信といえば、佐賀県民ならびに歴史・考古ファンであれば、大変興味深い人物であろう。その龍造寺隆信をはじめ龍造寺氏の宗家居城であった「佐賀龍造寺佐嘉城」は、平安時代末期に藤原季喜が龍造寺村の領主になって土着し、その子が龍造寺氏と称して以降、慶長期に鍋島氏が近世佐賀城を普請(改修)するまで龍造寺氏の拠点であった。その中世の佐賀龍造寺城の所在地と実態については、不明な点が多い。今回、平成21・22年度に、佐賀市教育委員会によって発掘された結果をもとに、佐賀龍造寺城の実態の解明を試みたい。

 2.佐賀龍造寺城略史
 戦国時代の龍造寺氏の居城は、代々、佐賀市城内に所在したと言われる村中城(佐賀龍造寺城)であった。龍造寺氏は、平安時代末期の久寿元(1154)年、九州に下向した藤原季喜が佐賀郡小津郷龍造寺村の領主となった(5)。季喜は、佐賀郡で勢力がある高木季経の次男季家を養子に迎えた。藤原季家は、源範頼の平家追討に従軍した功績や神崎荘の住人海士重実が院の御領神崎荘への乱入を鎮圧した活躍により、文治2(1186)年、季家は、鎌倉幕府の御家人とする旨の下文を受ける。これにより小津東郷内龍造寺村田畑の地頭職任ぜられて、龍造寺氏を称する事になる(6)。しかし、南北朝時代、龍造寺氏は龍造寺村地頭職から外れ、代わって今川頼貞が知行したため、観応3(1352)年、龍造寺家政は、本領回復のため城郭を構えて龍造寺村に乱入した(7)。文和4(1355)年、一色範氏が、九州を去るとともに、ようやく龍造寺氏の旧領は回復され、天授2(1376)年、龍造寺家是(家定)は懐良親王から龍造寺村惣領分を返還されている(8)。延徳(1489~92)年間、龍造寺康家は、龍造寺村中城外の槇村に別館を構える。その子、家兼は龍造寺氏の中興の祖と言われ、後に、天文7(1538)年に出家して剛忠と称した。また、剛忠は龍造寺村中城外の槇村に水ヶ江城を築いた(川副2006)。ここに村中龍造寺家から水ヶ江龍造寺家が分かれる。享禄元(1528)年、大内義隆は、少弐資元らを討つために、筑前国守護代の杉興運を少弐氏の勢福寺城へ向けて派遣した。その際、家兼(後の剛忠)は少弐氏を助けて活躍した。この戦いを田手畷の合戦という。その後、剛忠は小弐氏からの信頼が厚くなり、馬場頼周をはじめ少弐家近臣の妬みをかった。頼周は少弐冬尚に讒言して、龍造寺氏の排除を策した。天文13(1544)年、策略により多くの龍造寺一族が討ち取られた。天文14(1545)年、水ヶ江城を開城し筑後国へ落ち延びた剛忠は、帰国して小田政光が城番をしていた水ヶ江城を奪還し、村中龍造寺家当主胤たねひで栄(胤たねみつ光)と共に馬場氏を打ち果した。しかし、その胤栄は少弐冬尚により村中城を退かさせられた(9)及び(川副2006)。天文15(1546)年、龍造寺胤栄は、筑前国にいたが「如何にもして本領に帰りいらむ」(9)と思い、筑前国守護代の杉隆満を頼り、大内義隆からの援助により佐賀の領地を回復して、少弐冬尚を誅伐すべく肥前守護代として村中城へ帰国した(10)。天文1 7 ( 1 5 4 8 )年、村中城当主胤栄の卒去により、村中龍造寺本家の断絶が危ぶまれたため、『北肥戰誌〔九州治乱記〕』(9)では、「水ヶ江の城主民部大輔胤信(後の隆信)を以って、胤栄の後室に娶せ、當とう家(村中)と水ヶ江両家を一つに合せて相続然るべきの由、衆議決定あり。頓って民部大輔を「佐嘉村中の城」へ請じて、彼の後室に婚禮を調へ、則ち胤栄の遺跡をも相続あり」と村中・水ヶ江家を合せて相続した旨が記されている。この村中と水ヶ江の城の名称について『北肥戰史〔九州治乱記〕』に「龍造寺に両流あり。総領を村中龍造寺と稱す。胤栄の一家なり。庶子を水ヶ江龍造寺という。剛忠の一家なり。」(9)とする定義により、龍造寺分家の水ヶ江城に対して龍造寺本家の居城を龍造寺村の中に在ることから「村中城」と呼んでいた。天文19(1550)年、龍造寺胤信は、大内義隆からの偏諱を受けて隆胤と改め、続いて龍造寺隆信と改めた(11)。しかし、翌年、隆信の相続を快く思わなかった家臣土橋栄益らが水ヶ江城及び村中城を包囲して、隆信は筑後へ退いた。天文22(1553)年、隆信は筑後国の蒲池氏の援助により川副郷の領主の力を得て、佐賀龍造寺城へ帰国を果す。隆信は土橋らにより水ヶ江家当主に立てられていた鑑兼を蟄居させた(9)。同年、隆信は剛忠の頃に一族を滅ぼされた恨みを果すため、少弐時尚(冬尚の改名)の居る勢福寺城を攻め落とした。永禄2(1559)年、時尚は千葉城より西に位置する晴気城で隆信と戦い破れ、再び勢福寺城へ戻り自害した(9)。また、この頃の情勢は、隆信が大内義隆から偏諱を受けた翌年の天文20(1551)年、中国地方では陶隆房の内乱により義隆が自刃したことを受けて、九州地方における大内氏の勢力が後退して行った。大友義鎮は、弟の義長を大内氏の後継者にした。そして、弘治3(1557)年、安芸国の毛利元就は陶氏を滅ぼした。北部九州の諸将は大友氏に組するものが多い中、同年、隆信は大内義隆より「隆」の字を偏諱を受けたほどの間柄であったため、義隆の跡を受けた毛利氏に通じた(5)。また、大友義鎮は永禄5(1562)年、出家して宗麟と号した。同年、宗麟は少弐氏の復興を画策し、有馬氏や松浦氏を始め西肥前の諸将もこれに応じていたが、翌年有馬勢を撃退した(9)。永禄8(1565)年、隆信は城の西に在りし少弐旧館(与賀城)に龍泰寺を建立した(5)。ここで言う城とは佐賀龍造寺城の事で、少弐旧館とは与賀城の事であろう。つまり、この事は旧来、少弐館があった与賀城は龍造寺氏が有していた事が判る。永禄12(1569)年、大友宗麟は、筑後国高良山の吉見岳城に本陣を置き、佐賀平野の北路から大軍を投じて進攻して佐賀龍造寺城の周辺は悉く焼かれ、城は窮地に追い込まれた。「隆信衆を集めて申されけるは、(中略)唯今當城に籠る所の軍兵僅かに三千を以て、大軍の敵を防」(9)ぎ、毛利の援軍を待ち籠城した。この時、「龍造寺軍、同時に道路や橋を修理して溝を深め、土手を高くして籠城の構えを厳重にした」(川副2006)事を記述している。隆信は、一度は大友と和平したが、元亀元(1570)年、再び宗麟は大軍で佐賀に攻めて来た。再度、窮地に追い込まれた龍造寺軍は佐賀龍造寺城に籠城した。龍造寺軍の鍋島信正(後の佐賀藩祖直茂)は今山の陣で大友軍の総大将の大友親貞を討ち取った(9)。その後、隆信は子鎮賢(後の政家)に家督を譲り、天正3(1575)年、隠居地とした白石町須古城を普請すると共に本城の「佐嘉龍造寺の城、四方の総構を築き、牛島敵操の土手の松を植う。其役成富甲斐守なり」(9)として守りを固めてる。これが中世佐賀龍造寺城の最終形態に近いと思われる。天正16(1588)年、その政家もその子高房に家督を譲り同市久保田町の太俣に隠居し、高房が佐賀龍造寺城を受け継いだ(9)。その後に、鍋島氏により慶長13(1608)年から16年をかけて近世佐賀城の総普請が行われている。龍造寺隆信は今山の合戦の勝利を契機に飛躍し、僅か14 年で肥前・筑後を中心に筑前・豊前・肥後を制圧し「5 州の太守」と称せられ、北部九州の龍造寺氏、東の大友氏、南の島津氏と並び立つ程の戦国大大名化を遂げた。16 世紀中頃から後半における龍造寺氏の急成長とともに、その居城であった龍造寺村の中の城に過ぎなかった「村中城」から強固な「佐賀龍造寺城」へと変化を遂げていったと思われる。この様に『北肥戰誌〔九州治乱記〕』(9) に記載されている龍造寺氏の居城の名称を辿れば、剛忠により分家していた龍造寺水ヶ江家の「水ヶ江城」と村中本家の「村中城」とを共に継いだ隆信の頃より、以降、鍋島直茂・勝茂が慶長13 年に整備拡張することで築城した佐賀城以前の龍造寺政家・高房までの城を「龍造寺城」や「佐嘉龍造寺城」、「佐嘉城」などと呼んだ。この『北肥戰誌〔九州治乱記〕』は江戸時代中期から後期にかけての歴史書であり、名称の根拠にするには弱い処もあるが、当時の資料としては慶長10 ~ 12(1605 ~ 1607) 年に高房( 実質的に鍋島直茂) が絵図元になり制作した「慶長年中肥前国絵図」の佐賀郡の場所を見ると、袋村( 佐賀市本庄町袋) の北の佐賀城跡の位置に「竜造寺城」と記されている。この位置において4 ・5 区の調査により確認した16 世紀中頃から後半の遺構がいかなる建物かという性格までは特定できないが、龍造寺氏居城の村中城( 佐賀龍造寺城) に関連する遺構であるのは間違いないと言えよう。

 3.佐賀平野における低平地城館と村中城(佐賀龍造寺城)について
 佐賀平野は標高5m以下に網の目の如く溝渠(クリーク)が張り巡らされた低平地である。今回調査で確認できた中世遺構については先述の通り、村中城(佐賀龍造寺城)内の関連遺構と考えられる。16世紀、佐賀平野における村中城(佐賀龍造寺城)周辺の主要な城館は当城の南東に隣接する龍造寺庶子の水ヶ江城、西に隣接する少弐氏の与賀城、さらに西に1kmも行かないところに八戸氏の八戸城が位置する。村中城(佐賀龍造寺城)周辺の何れの主要な城館も1km以内の狭い範囲に隣接・近接している。村中城(佐賀龍造寺城)は近世佐賀城によって1m程嵩上げされて覆い被さっているため発掘調査などに発見されない限り曲輪の配置や状況は不明であるが、その他の水ヶ江城・与賀城・八戸城は標高2~4mの低平地に溝で囲まれた浮島の集合体のような島状地の曲輪(12)で構成されている。村中城(佐賀龍造寺城)より西の千葉氏の高田城も低平地に溝で囲まれた浮島の集合体のような曲輪で構成する。村中城(佐賀龍造寺城)より北に高木城が位置しているが宅地化が進み旧地形の残りが悪いため、曲輪の構成や特徴は不明瞭であるが、発掘調査により標高4~5mから建物遺構や幾条かの溝が確認(13)されており、今回の調査との類似点も見られる。東の江上氏や少弐氏の勢福寺城周辺から南に走る城原川の右岸には北から順に横武氏の横武城、本告氏の本告牟田城、姉川氏の姉川城、直鳥氏の直鳥城、小田氏の小曲城があり、その南で九州一の大河の筑後川と合流する。これらの城も低平地に溝で囲まれた浮島の集合体のような曲輪によって構成されている。浮島状の曲輪の構成については宮武氏が分類を行っており、ほぼ同一規模の浮島状の小空間が密集しているもの(佐賀市兵庫町周辺の若宮集落、牟田集落や神埼市千代田町の大石集落等)と、その島群の中核位置に突出した面積を誇る空間を有するもの(神埼市姉川、佐賀市千代田町直鳥等の各集落)とに大別し、後者には、集落の中心エリアに「館」地名や城郭としての所伝を付帯するものが特徴的であり、領主層在村型の集落であった形跡を留めているものとしている(14)。後者の分類に入る本告牟田遺跡(本告牟田城)では10~30m程の約20個の島から構成され、その中央には館の内と呼ばれる地名が残っており南北120m、東西100m程の大型な島状地が見られる。発掘調査により、各々の島と中央の島には溝により幾つかの区画が行われていた(15)。
 国指定史跡の姉川城跡は幾つかの島の中央には南北110m、東西50m程の大型の主郭である島状地が見られる。その主郭では16世紀中頃から後半の大型建物が確認された。また、龍造寺氏家紋入りの瓦が出土しており、姉川氏以降に龍造寺氏の城となっていた事が窺える。この報告書で河野氏は神埼市の同規模の島が集まった城としての伝承が残っていない環濠集落(下六丁(16)・上六丁・莞牟田環濠集落等)と姉川城等のように伝承が残っているものとに分けて考察(17)している。氏は横武城跡の報告書の考察
で、姉川城で分類した前者をⅠ類、後者をⅡ類とした。この内、Ⅱ類をさらに分類してⅡ‐a ‐1類は環濠居館、例えば単純に居館のみを溝が囲むもの。Ⅱ‐a ‐2類はⅡ‐a ‐1類に複数の小規模な島が付くもの。Ⅱ‐b‐1類は横武城のように中心となる島は存在するが、ほぼ同規模の島が集り、その求心性は弱い平地式城館のもの。Ⅱ‐b‐2類は本告城のように求心性の高い島の配置をした平地式城館もの。Ⅱ‐c類は姉川城や直鳥城のように平地式城館に集落を取り込んだもの。Ⅲ類は本格的な城下町を形成するもので環濠集落の範疇では捉えられない段階と細分している(18)。つまり、河野氏は宮武氏が分類
(14)した前者がⅠ類に当たり、後者をⅡ‐b‐2類とⅡ‐c類に細分し、新たに横武城跡の事例からⅡ‐a‐1(横武城跡Ⅴ区)・2(柳郷城跡)類とⅡ‐b‐1類(横武城跡)とⅢ類(蓮池城跡)を追加している。さて、現況の村中城(佐賀龍造寺城)は近世佐賀城の普請により1m程嵩上げされて地中に埋まっており全貌が不明である。村中城(佐賀龍造寺城)の立地は北に脊振山地が東西の壁となり、南に干満の差が激しい有明海や沼状の江湖地が広がる。それを西の嘉瀬川・本庄江、東に八田江・巨勢川・城原川などの幾条もの河川により結ばれ、南東には大河川の筑後川が流れる。さらに周囲はクリーク網が張り巡らさ
れた要害な地である。近世文書によれば、慶長13(1608)年、近世佐賀城の普請について「龍造寺ノ御城ニ曲輪ヲ被相増、新ニ惣御普請アリ」(19)と、佐賀龍造寺城の曲輪を拡張整備する事が記されている。その位置は「竜造寺ノ城跡ハ今ノ北ノ御門ヨリ一町計り南ノ辺也」(19)と書かれ、現在の県立佐賀西高等学校や若楠会館付近にあたる。その曲輪の構成は「龍造寺本丸ハ今ノ諫早屋敷、二丸ハ多久屋敷也、泰長院ハ元ハ西ノ丸ニ在シ」(19)事が書かれている。ちなみに、5区の調査区の位置はこの諫早屋敷と二ノ丸の間に位置しており、換言するならば龍造寺氏館と泰長院との間に位置していたことになる。また、その館周辺の曲輪の配置については文献等では不明だが、近世佐賀城で見られるように本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸の他に約十箇所の家臣団といった多くの曲輪により構成する点や龍造寺分家の水ヶ江城もまた多くの曲輪により構成するような様相から、佐賀平野における低平地城館で大多数を占める浮島の集合体のような島状地の曲輪と同様に龍造寺館を中心として島状地の曲輪により構成されていた可能性が高い。そして、龍造寺高房が家督を継いだ翌年の天正19(1591)年、従来あった本荘町に加えて
「蛎久ヨリ佐嘉へ町御引移シノ時、六座町・伊勢屋町・中町・白山町ヲ始ニ御引ナサレ」とあるように、佐賀龍造寺城の最終段階にはその周囲に本格的な城下町が形成され始めている。水ヶ江城に対し呼称する「村中城」は16世紀後半の龍造寺氏の急成長に伴い、16世末には恐らく分家の水ヶ江城や廃城となっていた旧与賀城を吸収合併した「佐賀龍造寺城」は、その城下を形成しつつ巨大規模(20)化していった事が考えられる。以上の事から不明瞭な点も多々あるが宮武氏の後者の分類か、河野氏のⅡ‐c類かもしくはⅢ類の範疇に収まると思われる。

 4.佐賀龍造寺及び龍造氏館の所在地の推定~中世の佐賀龍造寺城から近世の佐賀鍋島城への移行期から読み解く~
 近世佐賀城は慶長12(1607)年の龍造寺高房の死去と、翌年、太俣で隠居していた政家の相次ぐ死去に伴い龍造寺本家が絶えることにより、変わって鍋島直茂・勝茂がそれぞれ鍋島佐賀藩の藩祖・初代藩主となり鍋島氏の新体制が始まった。そして、その新体制の下、慶長13(1608)年から慶長16(1611)年にかけて佐賀城の総普請が行われた(19)。総普請は、佐賀龍造寺城を東に拡張整備する形で周囲に幅40間の外堀を巡らせた。その外堀を掘った排土については「堀の土ヲ以テ御城惣家下ヲ高メサセラレ、又土
手ノ御構エニ成リシト也」(19)と、城内や土塁(土手)に1m程嵩上した事が記されている。つまり、平成19(2007)年に実施した佐賀城跡3区の土塁の調査では土塁を形成していたA層群の盛土の一部とその下層のB層群の整地層が慶長期の普請の際の遺構である。特にB層群には中世の遺物を含んでおり、慶長期に外堀を掘る以前にその場所に中世の遺物を包含する層か遺構があり、それを掘削することによりB層群の整地層に混入したと言える。また、今回調査の4・5区も整地層に明治以降の建物基礎や溝による撹乱
に伴って混入した近世遺物を除いたら中世の遺物を含んでおり、3区同様に外堀掘削以前にそこに存在していた遺物が整地層に含まれたと思われる。西堀について「西ノ御堀ハ鍋島傳兵衛祖先之堀之 西堀ノ上ハ 以前ハ小路屋敷数軒有之」(23)とある。この鍋島傳(伝)兵衛とは伊万里鍋島茂教の事で、その屋敷は江戸時代に入るとFig.63の西ノ丸の南西隣にあった。茂教は龍造寺隆信の三男であり後藤貴明の養子になった家信の子で隆信の孫にあたる。この史料は慶長期に堀を掘削する以前の佐賀龍造寺城の一
部の屋敷について書かれた貴重な記述である。この標高約3mまで嵩上げされた整地層上に、慶長年間の絵図の「佐嘉小城内絵図」によれば、城内は本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、武雄氏・多久氏・諫早氏・深堀氏・有田氏・松浦伊万里氏・(神代)川久保氏・須古氏・市佑氏・横岳氏・太田氏・姉川氏などの十近くの重臣屋敷が築かれた。城の外堀の外の城下に村田氏や白石氏を始めとした武家屋敷が城を取り囲み、その武家地の周囲にはさらに町人居住地を配して横町型の城下町を形成している。佐賀城はその城下の外に八田江・佐賀江、北の十間堀、西の本庄江といった惣堀を配して城下までも包括する広大な惣構えの城を築いた。


 5.まとめ
 4章で先述した通り、「龍造寺氏館」跡の所在地については近世文書の記載によれば、慶長13(1608)年、近世佐賀城の普請について「龍造寺ノ御城ニ曲輪ヲ被相増、新ニ惣御普請アリ」(19)と、佐賀龍造寺城の曲輪を拡張整備する事が記されている。その位置は「竜造寺ノ城跡ハ今ノ北ノ御門ヨリ一町計り南ノ辺也」(19)と書かれ、現在の県立佐賀西高等学校や若楠会館付近にあたる。その曲輪の構成は「龍造寺本丸ハ今ノ諫早屋敷、二丸ハ多久屋敷也、泰長院ハ元ハ西ノ丸ニ在シ」(19)事が書かれている。ちなみに、5区の調査区の位置はこの諫早屋敷と二ノ丸の間に位置しており、換言するならば龍造寺氏館と泰長院との間に位置していたことになる。つまり、この位置から導きだされる龍造寺氏館の推定地は、現在の若楠会館から佐賀県立佐賀西高等学校付近にかけてが考えられる。この両地は近世佐賀城の北西隅に位置し、近世に入り新たに設けられた本丸とは正反対の場所に位置する。この位置関係は、龍造寺氏と鍋島氏との距離感や遠慮などによる可能性もある。また、龍造氏館の推定地付近は、近世佐賀城の曲輪の中で若干西に張り出している。また、その張り出し部分は近世の諫早屋敷になった箇所である。その諫早屋敷跡の現況は、若楠会館と建物の南からその下にかけて庭園と築山が残存する。この庭園と一見すると土塁のようにも見える築山が、いつの頃もものであるかは不明だが、周辺住民からの聞き取り調査によれば、若楠会館を建設する際に、地主の方による庭は崩さないでほしいという要望により残っているようである。また、館の北には龍造寺という寺があったという説があり、若楠会館の北付近には墓石が残存する。近代以降のものでなければ、その寺に関連するものの可能性もある。本来、近世に入ると寺院関係は、佐賀城の外に移されているはずなので、この墓石は中世からなんらかの状況により残存していた可能性もある。一方の佐賀西高等学校はグランド付近にあたり、当時の面影は残っておらず、1m下の地中に眠っている可能性があろう。
 今回の調査により龍造寺城跡の一部が発見されたことに続き、今後、この若楠会館と佐賀西高校グランドにおいて、龍造寺氏館跡が発見されることを願いたい。

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龍造寺氏館跡推定地写真

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『佐賀市史』(村中城之図)より
 
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佐賀龍造寺城と龍造寺氏館跡推定図


 本文は、主に「大坪芳典 2010 「総括」『佐賀城跡‐4・5区‐』 佐賀市教育委員会」を基本として、さらに論を発展させて深く言及した。


【註釈】
(1) 佐賀県立図書館 1955 「龍造寺家純宝玉洞譲状『佐賀県史料集成』古文書編第一巻
(2) 佐賀県立図書館 1958 「龍造寺家文書文書」『佐賀県史料集成』古文書編第三巻の「末吉領家政所下文案」
(3) 東京堂出版 1971 「関東下文案」『鎌倉遺文』第一巻
(4) 総柱の建物構造と瓦1点の出土状況から、寺ではないかと言う説については宮武正登氏からご教示を受けた。
(5) 佐賀県立図書館 2007 「泰巖公御年譜」『佐賀県近世史料』第八編第三冊による。泰巖とは龍造寺隆信の法名(法雲院殿泰巖宗竜大居
士)である。『泰巖公御年譜』は漢文体年譜記録である。
(6) 佐賀県立博物館 1958 「龍造寺家文書文書」『佐賀県史料集成』古文書編第三巻の「大宰府庁下文案」
(7) 佐賀県立博物館 1958 「龍造寺家文書文書」『佐賀県史料集成』古文書編第三巻の「宗刑部丞施行状」
(8) 佐賀県立博物館 1958 「龍造寺家文書文書」『佐賀県史料集成』古文書編第三巻の「沙弥某書下」
(9)高野和人 1995 『北肥戰誌〔九州治乱記〕』 青潮社
  千住武次郎・高野和人 1973 『肥前叢書』第二輯 青潮社
  高野和人 1992 『歴代鎮西志』 青潮社
  上記書は江戸中期から後期にかけて執筆された馬渡俊継『北肥戰誌』・『(九州)治乱記』等を基に編纂している。
(10)佐賀県立博物館 1958 「龍造寺家文書文書」『佐賀県史料集成』古文書編第三巻の「大内義隆書状」・「官途吹挙状」
(11)佐賀県立博物館 1958 「龍造寺家文書文書」『佐賀県史料集成』古文書編第三巻の「大内義隆一字書出」
(12)宮武正登 2005 「佐賀県の城と館」『佐賀県の中近世城館』 佐賀県教育委員会文化課
(13)古賀章彦 1999 「小結」『長瀬一本杉遺跡 高木遺跡』 佐賀市教育委員会
(14)宮武正登 1995 「佐賀平野の村と館‐中世村落の成立と変化」『中世の風景を読む 第7巻 東シナ海を囲む中世世界』 新人物往来社
(15)神埼町教育委員会 1986 『本告牟田遺跡・的小淵遺跡』
  八尋実 1998 「まとめ」「本告牟田遺跡0・Ⅰ区」 神埼町教育委員会
(16)徳永貞紹 1996 「下六丁遺跡」『筑後川下流用水事業に係わる文化財調査報告書2』 佐賀県教育委員会
(17)河野知郎 1996 『姉川城跡』 神埼町教育委員会 宮武氏の分類方法(宮武1995)に習い神埼市域で分類している。 
(18)河野知郎 1997 「2.環濠集落の分類」『横武城跡』 神埼町教育委員会
  神埼町教育委員会 1993 『姉川城跡(ⅩⅡ区)』 神埼町教育委員会
(19)佐賀県立図書館 1993 「直茂公譜考補十」『佐賀県近世史料』第一編第一巻の「佐嘉御城普請」(『葉隠聞書六』)
(20)中村修身 2007 「筑前国秋月氏の城郭 巨大規模城郭とそれをささえた組織」『海路』 「海路」編集委員会
  氏は「龍造寺氏の居城(本城)に関する資料を持ち合わせていないが、今日の調査成果や立花城の例から北部九州の有力国人衆ないし
  戦国大名は、巨大規模城郭を造っていたと考えられる」ことを述べている。
  中村氏から調査中に遺構を実見して頂き巨大規模城郭と言って良いのではないかと言うご教示を賜った。
(21)佐賀市教育委員会 2007 『佐賀城跡‐2区・3区‐』とその内、島内浩輔氏の「まとめ」
(22)財団法人鍋島報效 2009 『御城下絵図に見る佐賀のまち』の「佐嘉小城内絵図」・「慶長御積絵図」
(23)佐賀県立図書館所蔵(鍋島家文庫) 「公儀御家多久家聞留書 」
(24)佐賀県立図書館 1996 「宗茂公御年譜巻五」『佐賀県近世史料』第一編第四巻
(25)佐賀県立図書館 1998 「泰國院様御年譜地取十二」『佐賀県近世史料』第一編第六巻
(26)佐賀県立図書館 2001 「泰國院様御年譜地取二十八」『佐賀県近世史料』第一編第九巻
(27)浦川和也 2002 「佐賀城跡の歴史的景観とその変遷」『佐賀県立名護屋城博物館研究紀要』第8集 佐賀県立名護屋城博物館

【引用・参考文献】
秋田裕輝 2002 『下駄 神のはきもの』ものと人間の文化史104 法政大学出版局
池田史郎 1981 「佐賀城」『九州の城』 小学館
池田史郎 1984 「佐賀城と佐賀城下町の成立」『九州近世史研究叢書』第七巻 九州と都市・農村 国書刊行会
勝俣鎮夫 1994 「15-16世紀の日本ー戦国の争乱」『岩波講座日本通史』第10巻中世4 岩波書店
大坪芳典 2010 『佐賀城跡‐4・5区‐』 佐賀市教育委員会
川副博 1942 「龍造寺隆信五州時代分限張 隆信公幕下着到」『肥前史談』第十六巻第二号 肥前史談会
川副博 1942 「龍造寺隆信五州時代分限張ー「隆信公幕下着到」(二)ー」『肥前史談』第十六巻第三号 肥前史談会
川副博 1977 「中世Ⅱ 一~四」『佐賀市史』第一巻
川副博・川副義敦 2006 『五州二島の太守 龍造寺隆信』 佐賀新聞社
川崎桃太 2003 「竜造寺隆信」『フロイスの見た戦国日本』 中央公論新社
北島万次 1983 「天正期における領主的結集の動向と大名権力ー肥前・筑後の場合ー」『九州大名の研究』戦国大名論集7 吉川弘館
木島孝之 2001 『城郭の縄張り構造と大名権力』 九州大学出版会
古賀利幸 1996 「佐賀城再現図録」『城郭史研究』 日本城郭史学会
小島道裕・千田嘉博 1994 「城と都市」『岩波講座日本通史』第10巻中世4 岩波書店
五島昌也 2005 「歴史資料調査」『佐賀城公園整備工事報告書』 佐賀県教育庁文化課
小宮睦之 1996 「築城」・「佐賀城の変遷」『佐賀城跡‐佐賀城本丸跡埋蔵文化財確認調査報告書‐』 佐賀市教育委員会
小宮睦之 2005 「佐賀城下、唐人町、唐人新町」『海路』第2号 「海路」編集委員会
小宮睦之 2009 「佐賀城の歴史」『海路』第7号 「海路」編集委員会
財団法人鍋島報效 2009 『御城下絵図に見る佐賀のまち』
佐賀県教育庁社会教育課 1964 「九、人面墨描土器出土遺跡」 佐賀県教育委員会
佐賀県教育庁文化課 2005 『佐賀城公園整備工事報告書』
佐賀県立博物館 1995 『戦国を駆ける武将たちー五州の太守 龍造寺隆信の時代ー』
佐賀市役所 1944 「龍造寺氏」『佐賀市史』上巻
佐賀市教育委員会 1996 『佐賀城跡‐佐賀城本丸跡埋蔵文化財確認調査報告書‐』
佐賀市教育委員会 2007 『佐賀城跡‐2区・3区‐』
下山正一 2008 「有明海が語るもの 縄文海進と佐賀平野…東名遺跡からわかる佐賀平野の形成…」『有明の海と縄文人ー東名遺跡が語
るものー』 佐賀市教育委員会
杉谷昭・佐田茂・宮島敬一・神山恒雄 1998 『佐賀県の歴史』 山川出版社
千田嘉博 1999 「中世城郭都市の形成」『国立歴史民俗博物館研究報告』第77集 国立歴史民俗博物館
千田嘉博 2000 『織豊系城郭の形成』 東京大学出版会
千田嘉博 2009 「姉川城と平地城館から考える中世」『神埼の城館跡と環濠集落‐水の里神埼・堀に刻まれた中世の風景‐』 神埼市教育
委員会
高島忠平・七田忠昭・高瀬哲朗・高山久美子・田平徳栄・多々良友博・東中川忠美 1980 「佐賀市・神埼郡・佐賀郡・小城郡」『日本城郭大系』
17長崎・佐賀 新人物往来社
谷澤仁 1999 「肥前国府周辺の地割について‐肥前国府域における地割と官道を基準とした施工計画について‐」『考古学ジャーナル』
449 
中世土器研究会編 1995 『概説 中世の土器・陶磁器』 平凡社
千代田町教育委員会 1999 『直鳥城跡』
中村修身 1995 「山城・館から近世城郭へ」『玄海幹線工事に係る文化財確認調査ー青山城跡ほか中世山城ー』 唐津市教育委員会
服部英雄 2007 「中世城郭の復元と史料学」『遺跡学研究』 日本遺跡学会 
東中川忠美 2002 「考察」『鍋島藩窯』 鍋島藩窯研究会編
日野尚志 1997 「肥前國佐嘉郡の条里について(その一)」『佐賀県地籍地図集成(四)肥前國 佐嘉郡一』 佐賀県教育委員会
日野尚志 1999 「肥前國佐嘉郡の条里について(その二)」『佐賀県地籍地図集成(五)肥前國 佐嘉郡二』 佐賀県教育委員会
日野尚志 2001 「肥前國佐嘉郡の条里について(その三)」『佐賀県地籍地図集成(六)肥前國 佐嘉郡三』 佐賀県教育委員会
日野尚志 2004 「肥前國佐嘉郡の条里について(その四)」『佐賀県地籍地図集成(七)肥前國 佐嘉郡四』 佐賀県教育委員会
福田義彦 1996 「佐賀城内埋蔵文化財確認調査一覧表」『佐賀城跡‐佐賀城本丸跡埋蔵文化財確認調査報告書‐』 佐賀市教育委員会
藤野保編 1981 『佐賀藩の総合研究ー藩制の成立と構造ー』 吉川弘文館
堀本一繁 1994 「龍造寺氏の二頭政治と代替り」『九州史学』第109号 九州史学研究会
三浦正幸 1999 『城の鑑賞基礎知識』 至文堂
宮武正登 2009 「北部九州の低平地城館と中世神崎」『神埼の城館跡と環濠集落‐水の里神埼・堀に刻まれた中世の風景‐』 神埼市教育
委員会
宮本雅明 1991 「城下町佐賀の形成」『城下町佐賀の環境遺産』Ⅰ 佐賀市教育委員会
三好不二雄 1977 「与賀本荘・与賀新荘」『佐賀市史』第一巻
山村亜希 2009 『中世都市の空間構造』 吉川弘文館

 

 



 

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