小論集
治安維持法と山口県特高課
山口県本部会長 林洋武
治安維持法と山口県特高課下関出張所
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 山口県本部会長 林洋武
この小論は治安維持法国賠同盟の機関紙「不屈」山口県版で一四回にわたって連載したものです。その後、補足や訂正などして、このほどまとめてパンフにしました。 参考文献として「山口県警察史」「山口県政史」「下関市史」「風雪五〇年」(山本操著)「不屈の人山本利平」(文理閣=尾崎勇喜・杉浦敏明編著)「特高月報」「日本共産党の七〇年」などです。
第一回 東京、大阪についで重視された山口県特高課
戦前の山口県特高課は、全国の特高課の中でも独自の役割を与えられていました。それは、山口県が、下関と朝鮮の釜山を結ぶ関釜連絡船を通じて、朝鮮や中国など大陸の窓口だからでした。アジアの植民地支配にとって最重要な拠点でした。「不屈」山口版でその役割と姿を連載で掲載します。
関釜連絡船は日露戦争が終わった翌年、明治三八年(一九〇五年)に就航が始まりますが、山口県警察部は、大陸への玄関口として「外事警察の面」で特別重要視されました。山口県警察部には明治二三年(一八九〇年)には、高等警察主任警部が配置され、治安維持法の前払いといわれた「治安警察法」に基づく取締が始まりました。大正二年(一九一三年)には山口県警には「高等警察係」がおかれ政治・思想・社会問題に関する事項やスパイ対策などの任務が与えられていました。さらに大正八年(一九一九年)には課に昇格して、「高等警察課」が設けられています。高等警察課とは、治安維持法がなかった当時治安警察法に基づく政治警察でした。さらに難波事件(後述)を経て、全国に先駆けて「特別高等課」を置くことになりました。(治安維持法が施行される以前に設置されている)
外事警察として特高課の役割
治安維持法が施行されたのは大正一四年(一九二五年)に制定施行されます。山口県警察に、特別高等警察課(「特高」)がおかれるのは、特別高等課を廃止して、大正一五年(一九二六年)一月でした。東京、大阪に続いて、八つの府県に特高課がおかれたときでした。それは特高課が全府県におかれるより、先んじていたことも特徴でした。当初から、山口県特高課下関出張所というのがおかれました。課員は、全員で三七名でしたが、うち二五名が下関出張所に配置されました。これとは別に、通訳四名がいました。通訳は英語三名、露語一名でしたが、配置された巡査には朝鮮から出向の形で朝鮮人巡査が二名含まれていました。彼らは通訳ではなく警察官でしたが、朝鮮人の通訳もかねて同時に、特高課員の役割を果たしていました。朝鮮には朝鮮人警察官は大量におりましたが、内地において朝鮮人警察官をおいたのは下関だけだったといわれています。
下関出張所は、昭和一三年より二年間ほど、海港警備課と名称を変えたことがありますが、特高課であることには間違いありません。また、これも全国的には珍しい下関水上署がおかれ高速艇(大小六隻)が用意されて、密航などに備えました。海港警備課は、戦争中には人が足りなくなり再び出張所に戻りました。下関の特高課出張所は最盛時期には、七十八名(定員一一三名)を数え、東京、大阪に次ぐ大特高課でした。(以上山口県警史より)
虎の門事件(難波事件)の影
山口警察には外事警察とともに虎の門事件(別名「難波事件」)の影がありました。「山口県政史」には「全国に先がけて特別高等課をおいたがこの事件と無関係ではなかった。」と記されています。難波事件というのは、大正一二年(一九二三年)一二月二七日、難波大助という男が、昭和天皇が摂政宮の時期に国会に出向くところを仕込銃で、襲撃した事件です。一般的には襲撃した場所をとって「虎の門事件」ともいいます。襲撃した難波大助は、山口県立野村(現光市)に住み、当時現職の代議士の三男でした。難波大助は翌年の一九二四年十一月に死刑に処せられます。難波事件では、摂政宮を襲撃した事件ということで、内閣は総辞職、知事は罷免、難波大助の立野村(現光市)駐在員巡査まで処分を受けました。難波事件によって、山口県の県政、とくに司法と教育界は、急速に反動化していきます。また、警察の体制も一段と強化されます。難波大助の父親は、家に竹ぶすまをして謹慎生活を送り、食も取らず餓死したと伝えられています。また、難波姓を改姓して以後「黒川」を名乗りました。別の時期に触れたいと思います。
第二回 関釜連絡船と船名 大陸への進出の思惑を載せて
前回、関釜連絡船を窓口として、山口県特高課が重視されたことを述べました。その関釜連絡船は一九〇五年日露戦争が終了したその年に、就航を開始しました。この年は、日韓保護条約(乙巳日韓条約・第二次日韓協約)を押しつけて、いわば韓国の全面占領が完成した年でした。日本政府が、大陸への支配を露骨に示した年でもあり、韓国を日本の領土と考えはじめた年でもあります。関釜連絡船の最初の船名は壱岐丸、対馬丸でした。(千屯クラス)。大正期には三千トンクラスの連絡船でした。船名が新羅丸、高麗丸、慶福丸、昌慶丸、徳寿丸と命名されました。この名前はいかにも韓国風な地名がつけられていることに注目してください。ところが日本と朝鮮の往来が激しくなり三千トンクラスではさばききれなくなります。昭和期には、七千トンクラス以上の船(乗船定員約二千名)が増発され、就航することになりました。船名は金剛丸、興安丸、天山丸、崑崙丸(こんろんまる)となりました。昭和期になってつけられた船名は、金剛丸は朝鮮の名山金剛山ですが、興安丸は中国東北地方(満州の山脈興安嶺)、天山丸(ロシア国境の山脈)、崑崙丸(チベット北部の山脈)など中国の奥深い地名の名前が付けられています。これは、当時の日本政府が、関釜連絡船は単なる朝鮮と日本との連絡だけでなく、大陸侵略への通行路にしようとしていたことを示します。関釜連絡船は、最盛期は一日三便片道約八時間かけて釜山・下関を往復します。崑崙丸は昭和一八年米軍潜水艦によって沈められ、五八三名の犠牲者を出します。また、天山丸も機雷で座礁して廃船になります。興安丸は戦後も生き延びて、海外の在留邦人の帰国のために活躍しました。昭和一七年に関門トンネルが開通して下関駅が現在の位置にかわるまで、国鉄下関駅は、現在の下関警察署などのあるあたり(細江町)にあり、関釜連絡船の埠頭もありました。
この他に関麗(かんれい)連絡船がありました。釜山の西方二〇〇キロのところにある麗水(ヨス)と下関とを日に一便往復していました。ついでにふれると、済州島との間には「君が代丸」という船が兵庫県尼崎との間に週一回往復していました。このため、現在も尼崎や大阪には在日朝鮮人が多く、そのうち済州島出身者が多数を占めるという歴史的経過があります。また、台湾と日本の連絡船は、台湾の基隆(キールン)から門司により大阪にいく定期船と、キールンと横浜を結ぶ定期船が運航していました。
第三回 関釜連絡船監視と「百発百中」
山口県特高課下関出張所の任務は何だったでしょうか。ここにその任務を示す回顧録があります。「関釜連絡船が下関に着くと、(乗客達は=筆者注)一列に出口、もしくは、列車乗車口に行くことになっている。その左右に老練警察官が五,六人、その乗客を監視していて、移動警察官から連絡のあった人物は勿論、その直感で、怪しいとにらめば、呼び止めて取調室に直行するのであるが、それは百発百中で機械のように、正確で狂いのないのに私は驚いた。警察官の職務質問が問題になる今の時代では、想像できないことであった。」
昭和一八年に関門トンネルが開通して下関駅が現在の位置にかわるまで、下関駅は、現在の下関警察署や市民会館のあるあたりにあり、関釜連絡船の埠頭もありました.戦前、全国各地の内務官僚、台湾の保安課長をへて、昭和十三年当時山口県特高課長になった山本暲の回顧録「歩いて来たみち」の一節です。ちなみに彼は戦後、公職追放を受けたあと公選制で郷里の高知市長を一期勤めています。ここにある「百発百中」こそ朝鮮から内地に渡ってきた朝鮮人たちにとって恐怖のまとでした。「下関で特高ににらまれたら最後、犯罪人にされてしまう」という恐怖でした。(後に出てくる山本操著「風雪五十年」の孫引きです。)日韓「併合」で朝鮮人も日本人扱いがされたかというと実際はそうはいきませんでした。大正時代は、大量な朝鮮人が日本に流入すると朝鮮人の日本への渡航を制限しました。朝鮮人の留学生が多かった時代でしたが、留学生であれ労働者であれ、そのころは朝鮮総督府の許可証を持つことが義務づけられました。また、昭和になっても在住する地域の警察の通行証が必要でした。釜山の乗船口は日本人と朝鮮人とは別々でした。日本人客に潜り込もうとするとそれだけで「不逞鮮人」(けしからぬ朝鮮人)扱いで乗船させられずとめおきされました。それでも日本に渡航する必要性がおきると許可証なしに渡航する人も出てきました。「不逞鮮人」という蔑称で、少しでも怪しいとにらんだものはみな網に引っかけたのです。戦争が激しくなって日本の労働者不足が激しくなると徴用という強制連行が行われましたが、これには警察官などの厳重な監視が伴いました。「百発百中」というが決してそうではありません。
面貌怪異なら藤原義江や菊池男爵もつかまる
関釜連絡船で下関に上陸する際に、特高から尋問された中には藤原義江もおりました。山本操著「風雪五十年」(後述)によると「外人であるような外人でないような」風貌をもった男を、若い巡査が取調室に連れてきました。藤原義江は、昭和初年当時すでに、イタリアやフランスからその歌唱力を認められて国家勲章をもらうほどの世界的なテナーでした。彼は、下関生まれで、イギリス人を父に持つハーフでした。日本でもテレビのなかった時代でしたが、新聞でも写真が連日乗るような有名な歌手でした。(古川薫著「漂泊者のアリア」参照)藤原は「この俺の顔も知らないのか」と抗議をしたら、若い巡査が「たかが歌手の分際で」とどやしつけたと記録されています。文脈では一発ぐらいなぐりつけたようです。また、別の特高課員が、「面貌怪異ということで捕まえたが、それが菊地という貴族院議員男爵だった。この菊池武夫男爵は元陸軍中将で美濃部達吉の天皇機関説や京大の滝川事件を貴族院でと攻撃した超右翼主義者だった。特高警察も「平謝りに謝った」、この場合は警察官があやまったのですが、「面貌怪異」と判断すれば、百発百中で「不逞鮮人」にされてしまう恐怖はまさに朝鮮から渡航してくる朝鮮人にとっては恐怖のまとでした。これは在日朝鮮人の書いた小説などに「日本に上陸した際、朝鮮人としての最初の差別と屈辱であった」とでてくる情景で、関釜連絡船をどうやって通過するかは朝鮮人にとっては大きな課題でした。下関の警察はそれほど横暴でした。
第四回 「祖国の眼」と「移動子
下関出張所の特高課の任務が関釜連絡船の乗客たち特に朝鮮人の監視にあったことについてふれました。こうした監視の任務を、特高課員たちは「祖国の眼」と自称して誇りにしていました。私は日本の終戦時、小学校四年生で今の北朝鮮にいました。当時朝鮮では「一視同仁」ということをさかんにいっていました。「日本人も朝鮮人も天皇は同じく観ている。同格だ」という意味でした。「一億総突撃・一億玉砕」など戦意を煽りましたが、この一億人は、日本人七千万、朝鮮人二千五百万、台湾住民その他で計一億人でした。都合のよいときには、国民になりますが、下関では朝鮮人は、決して日本人扱いにはせず、祖国に進入する不逞の輩でした。だから朝鮮人はじめアジア人を見張ることを「祖国の眼」といっていたのです。
さらに「移動子」という言葉を使いました。連絡船には下関側と釜山側から三名ないし四名の警察官が乗り込み、乗客を監視していました。前述、崑崙丸が昭和一八年に米軍潜水艦によって沈没させられ、乗客、乗組員 五八三名が犠牲になりますが、そのさい下関側三名釜山側二名の警察官も運命をともにします。警察の「移動子」でした。「特高月報」昭和一五年八月号には、海港警備課(特高課)が「関釜連絡船検索により、朝鮮独立に関する不穏当な文を記述せる日記帳を所持せる福岡県八女農学校生徒(一九歳)を検挙し、取り調べ方とともに身柄を朝鮮側に引き継ぎたり」と記述があります。関釜連絡船は乗り込んだら約八時間どこにも逃げられません。特高警察官は、朝鮮人たちの私物まで遠慮なく検索していました。やっと青年になったばかりの旧制中等学校の生徒も、朝鮮に帰る連絡船のなかで特高の網にひっかかったのです。ついでに述べると、日本に上陸した乗客は山陽線か、山陰線に乗り込んで全国各地に散らばっていきました。そこにも監視がつきます。普通列車なら小郡駅(現新山口駅)、正明市(現長門駅)まで、特急の場合は広島まで警察官は乗り込みました。下関の関門を通過した朝鮮人達は、列車に乗り込んでもいつ警察官によって「おいこら」とやられるかわかりません。戦々恐々として列車に乗り込んでいました。朝鮮人達は、留学生を除いて日本に稼ぎに来たのです。ですから、貧しい人が多かったのです。日本に行くからといって服を買うわけにも行かず、民族服を着ている人が多かったのです。昭和初年、関釜連絡船の運賃は片道三円五〇銭でした。当時日本での朝鮮人の日当は七〇銭から八〇銭でした。山本利平氏(後述)の記憶によると、「朝鮮人の最低賃金が、門司では八〇銭なのに下関では五〇銭だったので、下関も門司なみにせよと申し入れた」とあります。それだけの稼ぎがあるかどうかは渡航してきた朝鮮人達にとって命に関わる問題でした。在日一世の人達の回顧録や小説などには「岩波文庫」をもっていただけで,衆人の中、鼻血が出るぐらい殴られたとか、朝鮮人の民族衣装が汚いなどの理由で、警察に留置されたとか激しい抗議が記録されています。警察官というのは、現在もそうですが、昇進と勲章がもっとも「名誉」なことです。しかも圧倒的な権力を握っていました。ときには理由がないのに憂さ晴らしをしました。しかも、この憂さ晴らしは誰もとがめるものはいませんでした。前回「これはとにらんだら、百発百中」と言う理由がここにありました。捕まえたら、必ず犯人にしなければなりませんでした。山口県特高課が、全国有数の特高課であった理由は、外事警察として主としてこうした朝鮮人監視と思想犯への監視にあったのです。
第五回 上田誠一山口県知事と内務官僚
メーデー事件弁護団長、松川事件弁護人、自由法曹団団長であった上田誠吉弁護士は、戦後の弾圧事件では必ず弁護人を引き受ける共産党員、革新系弁護士の輝かしい先輩です。一昨年(二〇〇九年)、故人となりました。労働事件を引き受けるたびに奥さんに内職をさせて糊口をしのいで、無償で弁護活動に取り組んだことでも尊敬を集めました。この人の父親は上田誠一といい内務官僚で、東京都警務部長(特高警察)から、終戦時の山口県知事でした。昭和十九年八月に赴任、昭和二十年十月に退官していますから、敗戦とアメリカ占領軍の進駐という文字通りの混乱期に山口県知事として過ごしました。上田誠一氏の伝記を息子の上田誠吉氏が「ある内務官僚の軌跡」という本にまとめております。上田誠吉氏が自由法曹団の弁護士になるというと、上田誠一氏は自宅の応接間で平手打ちで殴りつけてきたそうです。しかし、この父親は、特高官僚達が、戦後政治家になる道を選んだ人が多かったのですが、その道を選ばず、弁護士になり、松川事件濱崎被告の弁護のため一度法廷に立ったそうです。また、誠吉氏の弟は上田誠也といい、東大名誉教授で地球物理学の権威ですが、この人も科学に弁証法を取り入れて、「地球の歴史」(岩波新書)をわかりやすく説明した好著をだすなど日本科学者会議の学者でした。
内務官僚は、警察だけでなく内政一般にあたった
戦前は「内務省」というと現在の警察庁、厚生労働省、国土交通省などを含む、内政に関する一切の権限が集中していました。また、内務官僚は、民生部門や現在の厚生行政など担当し、次には警察部門とくに特高課を担当するなど、役人中の役人エリートでした。彼らの出世意欲も際だっており、一部門で一仕事をあげる事が次のステップの条件でした。各県の特高課長はこうした役人達が席を占めていました。この点では、警察官も同様で巡査から出世して県庁のお役人になるものもおおくいました。日本の敗戦というのはとりわけ彼らにとって青天の霹靂でした。彼らは、敗戦によって公職追放された者も多かったのですが、早くも昭和二四年以後のGHQ(アメリカ占領軍)の反共政策によって、追放は次々に解除されました。彼らは、戦争中は「鬼畜米英」などアメリカを非難していた連中でしたが、一転してアメリカ追従にかわりました。彼らのうちには官僚の中のエリートという自負があり、戦後は衆参国会議員になる者が多く、「特高官僚」が戦後を支配したことはよく知られています。現在の同盟中央本部会長柳河瀬精氏の名著「告発!戦後の特高警察」(日本機関紙出版センター)には個々の特高官僚たちの戦後の反動的役割について詳細に触れています。そうしたこともあり比較的多くの自伝など残しております。私は、前述の「風雪五十年」や高村坂彦(元徳山市長)の自伝(「激動の世に生きた政治家」)また、後藤田正晴の回顧録などを眼に通したに過ぎませんが、彼らに共通することは戦前の弾圧に何らの反省がないことです。人権無視、希代の悪法といわれる治安維持法に対する反省は全くないと言ってもよいのです。そればかりか、戦後の特高課を解散したことを嘆き、共産党や朝鮮人団体への弾圧をもっと強化しなければならなかったという意味のことをとくとくと述べていることが特徴です。天皇制政府の警察官として、戦後のアメリカ占領軍時代の警察官の感覚は、驚くほど共通しています。その中で、松川事件の弁護人を引き受けた上田誠一氏は希有の人でした。因みに、山本操は上田知事のことを「二・二六事件の処理で苦労をされた」「謹厳実直のイギリス型紳士」「公平で部下思い」などと描いています。
第六回 「風雪五〇年」と山本操 蛇蝎のように嫌われた男
前回に述べたように、内務官僚と警察官僚とは一体のものでした。山口県特高課下関出張所の任務は、治安維持法にもとづく思想犯対策にありましたが、同時に外事警察朝鮮人や中国人ロシヤ人に対する特別な任務が与えられていました。しかし、任務は県内の労働運動や共産党対策も決しておろそかにしておりません。
山口県特高課の警察官に山本操という男がいます。彼は一九二一年(大正十年)に山口県巡査に採用され、一九二六年(大正一五年)、特高課発足以来特高課員として、山口警察署と下関署と下関出張所に籍を置き、多くの「功績」をあげて最後には下関警察署長で終戦を迎ました。戦後、公職追放を受けたあとは下関水産業界に入り、水産会館の社長などをつとめました。彼は、県の「防長警友」(警察官の退職者の組織「警友会」の機関紙)という小誌に「風雪五十年」という回顧録を書きそれをまとめて小冊子として残しております。(この小論にしばしば引用させてもらいます) 戦前の活動家たち山本利平日本共産党県会議員や山田喜一日本共産党県委員長らは山本操のことを「出世のためには何でもする男」と蛇蝎のように嫌っていました。体は小柄でしたが「鉄砲玉」のようだと警察内部でもいわれるように功名心さかんな警察官でした。彼の回顧録の中にも山本利平氏をしばしば逮捕や拘束したことを自慢げに語っています。ただ彼が執筆していた当時、山本利平氏は県会議員でしたので、共産党については、かなり自制的です。あとで触れますが、宗教団体への弾圧については、かなり赤裸々に弾圧の状況を書いており、ここまで書くのかと思うほど反省のない書き方に怒りを超えて驚くほどです。次回以下から紹介していきます。
第七回 「山高生であれば、みな左翼に見えた」
山口県では、三・一五事件や四・一六事件については、逮捕者や弾圧者はでていません。東京や大阪などで山口県出身者は、市川正一、志賀義雄、野坂参三など一九名の逮捕者がでましたが,山口県の警察関係者は県警として逮捕者を出さなかったことを残念がりました。それでも特別要視察人六名、労働要視察人九名、思想要注意人三八名と雑賀習之歯科医師、山本凡児(利平)などを指名して監視しています。 山口県警史のなかでも「山高生の左傾化学生を取り締まる」という項目があります。これは山口警察署特高課にいた山本操が中心になって弾圧した一九三〇年(昭和五年)の事件です。旧制山口高校生の学習サークル(特に共産党とは関係なかった)を「共産青年同盟事件」として弾圧した事件です。彼らの中に朝鮮人学生がいました。ここに目を付けて、朝鮮人学生とグループを作っていた集まりを弾圧したのです。山高の学生主事や山口高商の事務員などと連絡をとり「十月ロシヤ革命記念日を前に不穏な動きがある。」としてでっち上げた事件です。山高生、山口師範学生、山口高商生、さらに山口県庁職員や、特高が「街頭分子」といっていた労働者など七五名を逮捕しました。山口県警も山本操もさすがにこの事件を「共産党」とは断じ切れませんでした。山口市は、昭和四年に町から市になったばかりの小さな町でした。その小さな町に山口高校、山口高等商業学校、山口師範(いずれも旧制)と当時の高等教育機関が三つもありました。山本はこの高校生達に目を付けました。「山高生であればみな左翼に見えた」と言うほど山高生を徹底してマークしました。少しでも左翼と見ればためらいなく逮捕した事件です。この中には戦後、警備警察になり、民青対策や共産党対策で名をあげた、弘津恭輔総理府副長官(彼は当時から右でしたが)なども探索の対象になっていました。また、朝鮮平壌で検事をやっていた息子を逮捕して、平壌から父親の検事を呼びだしたが、自供をせず、母親まで呼び出して「転向」させたことなどをとくとくと語っています。結局、この事件は、数名の朝鮮人をふくむ七五名を逮捕し、一八名を送致しましたが、全員起訴猶予でもともと根拠がなかった事件です。しかし、山口市の若者達を震え上がらせました。同時に、彼は、この事件で「山口県特高課に山本有り」と出世して最重要の下関署に転出します。山本操とは関係ないですが、ついでに触れますと昭和一五年七月には、「山口高校麗友会」に入会していた山口高校の朝鮮人学生ばかり十九名を「朝鮮独立運動を画策す」として検挙しています。山口高校は朝鮮に近いこともあって朝鮮人留学生が多かったのですが、全校六百名前後のうち十九名ですから朝鮮人学生全員を検挙したのでないかと思います。この事件はさらに調べてみる必要があります。山口県での本格的な共産党組織の建設とその弾圧は、戦後日本共産党山口県委員長をした山田喜一氏ら国鉄労働者らが中心になった昭和八年の周東共産党事件ですが、山本操の回顧録にはこの事件については第二次検挙として簡単にふれているだけです。その後の下関における数々の弾圧事件を赤裸々に、当時の法律から見ても違法行為を行いながら、労働運動や宗教弾圧を繰り返しました。その主要な相手は山本利平氏でした。山本利平氏は戦前共産党に近かったのですが、党とは連絡付かず、無産党や部落解放運動を不屈にたたかった活動家でした。山本操は下関署特高課主任として弾圧の尖兵の役割を果たします。
第八回 下関特高課主任 山本操
山口署で山高生等を弾圧して下関署特高課主任に栄転した山本操は、ここでも「成果」を上げます。昭和六年(一九三一年)の第一次検挙です。彼はこの下関で山本利平(凡児)、林始、西藤辰夫等が労働運動で活躍し、左翼的行動をしているのに目を付けて、共産党がいるに違いない。とみます。そこで面谷賢治に目につけます。山本操は彼のことを陰で左翼を操っている男に違いない指導者として逮捕します。「面谷は川棚(現下関市)出身、天性からの左翼運動者として生まれてきたような男であった」と左翼蠢動の要として山本凡児、林始、西藤辰夫等とともに逮捕しますが、結局彼を送致しただけで、他の三名は起訴できませんでした。
林始氏は一九一三年に内日村(現下関市)で生まれで、昭和四年頃(一九二九年)より山本利平(凡児)氏と労働運動家として活躍しましたが、下関無産党で共産党ではありませんでした。彼は、戦後、長崎で共産党に入党して戦後の高揚期を長崎で闘い、アメリカ占領軍批判をしたとされ、政令三二五号違反で二年半の懲役刑をうけ下獄、病気のためその後は静養します。晩年は一九五四年下関彦島にもどり、誠実な党員として共産党居住支部に所属して九三歳で亡くなりますが、回顧録を同盟に寄せています。「面谷は懐にピストルなど見せびらかせ、左翼ことばなど見事だった。八幡製鉄出身といっていた。しかし、逮捕されてから杳(よう)として消息がわからず、山本利平氏とあいつはスパイではなかったかと話しあった」とのことです。林始氏は「この風雪五〇年」を読んでいなかったのでしょう。山本操が面谷の消息を伝えています。「彼はその後満州に行き、特務機関のような仕事をしていたが、終戦前に帰国し山陽電軌会社の嘱託になり、副社長と同乗していたトラックで踏切事故に遭遇して無惨な死を遂げた。」と。文面だけでは、スパイであったかどうかはわかりません。しかし、山本操は、面谷が満州で特務機関に属していたことまで含めて、最後まで消息を見届けている点でも注目してよいのでないでしょうか。ついでながら、林始氏の回顧の中には、当時面谷のあと関門キャップには党中央の幹部だった田中清玄や椎野悦郎などが派遣されていたとのことです。
続いて昭和七年(一九三二年)二月左翼第二次検挙が行われます。山口県の左翼第二次検挙というのは、周東共産党事件が中心でした。戦後の山口県委員長であった山田喜一氏を中心に山口県の最初の共産党弾圧事件です。山田氏等は防府市の国鉄労働者を組織して何人かの共産党員を組織しました。また、柳井市を中心にした皿田知治(戦後党活動をしたが毛沢東盲従分子になって除名)共産青年同盟員などを弾圧した事件です。この弾圧を総称して周東共産党事件といっています。別の機会に詳しく報告できればと思います。「共産党の組織」に対する弾圧で、山口を中心とした学生などを含め八〇名を逮捕し、下関市でも多くの逮捕者を出しました。治安維持法による毎年のように弾圧事件がおきます。
第九回 山本利平氏の回顧と労働運動への弾圧
山田喜一氏や山本利平氏は、「下関第二次検挙事件は、周東共産党事件があったので、山本操が徳山署や柳井署への対抗意識を出し、点数稼ぎに共産党としてデッチアゲ、下関の左翼を弾圧したもの」。「折井長司(その後原田)も共産党ではなかった」。と私に語ったことがあります。山本利平氏(筆名・凡児)は、一九〇四年(明治三七年)美祢郡共和村(現美祢市)に未解放部落民としてうまれ、水平社運動(部落解放運動)に早くから立ち上がり全国的に知られた水平社の活動家でした。戦前の昭和一二年から一七年まで一期無所属で下関市会議員をつとめました。戦後、下関より日本共産党の山口県会議員を三期つとめ多くの人から「利平さん」と親しまれて人です。私は選挙運動のお手伝いをして、戦前の活動状況を聞く機会があり「山口民報」紙にも一部掲載したこともあります。その後伝記「気骨の人山本利平」が文理閣から出ており、一番詳しいものです。今回は山本操の叙述を見る上で比較して参考にしました。山本利平氏は水平社運動には一九二三年頃より参加して、かなり深刻な差別的行為・言辞への抗議に対して「恐喝」などの理由で逮捕され、懲役一年半で広島刑務所に下獄しました。その後、山本氏は水平社運動と労働運動の結合が必要という立場から一九二九年には、下関に下関市西部一般労働組合(約二百名)を組織して委員長になっていました。一九三〇年五月には山口県最初のメーデー行進を二百名で行い内外の話題をさらいました。(メーデーそのものは、その前前年下松の日立の労働者が集会を開いたのが県下初のメーデーでした。)
特高主任山本操は、なんとしてもこうした労働運動を押さえつけようと執拗に弾圧します。それを自分たちのお手柄として述べているのです。
「下関の第二次検挙は、国鉄を中心としたもので、捜査に着手したのが六年(昭和)八月、捜査、検挙に着手したのが翌年二月はじめであった。この検挙で下関の左翼を根こそぎ洗い上げ、再び蠢動できないように始末したのである。」この叙述に怒りを感じないものはいないでしょうが、すべてこうした治安維持法を何らの反省もなく描いているのがこの本の特徴です。その中でも労働運動への弾圧に対して手柄顔で記述しています。もともと、戦前の暗黒政治の下でも、労働運動に対して、警察は「労使の中立的立場」ということを建前上、標榜していました。下関の労働運動は山本利平氏がその中心でした。山本操は、特高警察として山本利平氏のたたかいを執拗に妨害し弾圧し、「当時の世論でもやりすぎだという批判があったが満州事変など世相のなかでかき消された」ことを、山本操が書き残しています。
第十回 クロード窒素事件と東海製菓事件
山本利平氏は水平社運動と労働運動との結合をはかり、下関合同労働組合を組織しました。そのことは下関市の労働運動に活気を与えました。同時にこの組合をたよりに、さまざまな労働者が要求を掲げて果敢に闘いに立ち上がります。そのひとつが、クロード窒素の闘いでした。クロード窒素とは、後の三井高圧になる三井系の彦島にある工場でした。もともと、鈴木商店系列の会社でしたが、鈴木商店が昭和恐慌のなか一九二七年に倒産して、当時は三井財閥が経営を引き受けていました。鈴木商店と違って厳しい労働条件に労働者の不満が鬱積していました。雑賀習之歯科医(後述、下関市最初の社会主義者として尊敬を集めていた)が工場医として出入りしていたため、工場内の情勢もわかり、新聞配達をしていた原田氏(名前は不詳)と山本利平氏が二人で工場にビラ入れを開始しました。これはたいへんな反響を呼びました。隣接していた三井彦島精錬所の三〇〇名の労働者にも影響が出て、三〇年のメーデー(下関の第二回)を五〇〇名の参加で成功させるなどしました。必死の努力で七月二一日正午のサイレンを期してストライキに入りました。要求や町内会への働きかけなど省略しますが、山本利平氏の指導はたいへん緻密なものでした。ここで出てきたのが、山本操の特高課です。彼らは、この動きを当初から把握して追跡していました。そして、クロード窒素の争議団の事務所を突き止めると、その道をはさんだ目と鼻のさきに民家を借りて二〇数名の警察官をあて、取締本部を設置しました。そして争議団の動きを監視します。「警察内部にもやりすぎ。という批判があったが、三井という大財閥の企業が、山本一派に牛耳られるわけには行かない」とさまざまな妨害手段にでます。県警史にも「この弾圧で功績のあった山本操など」と山盛りになった書類の前に座っている警察幹部の写真が残されています。この争議には暴力団が動きますが、さすが、警察が暴力団を使ったと書いてありません。道一本はさんで取り締まり本部をつくり些細なことで幹部を逮捕します。ストは、「初めて聞いた、みた」と周辺の住民が驚いた会社側の近代的機器、大マイクロホンによる宣伝と暴力団によるドスの脅しとともに二一日闘った後、敗北します。しかし、この戦いは三井財閥を相手に正面からたたかったという点で全国的にも評価される闘争でした。同時に、特高が労働運動の弾圧の前面に出ている点でも注目すべき経過です。さて雑賀習之歯科医のことですが、彼は学生時代東京で山口孤剣を通じて、社会主義に触れ「赤旗事件」で逮捕されます。その後、帰郷して下関市で開業して、山本利平氏の支援者でした。警察のマークも激しいのですが、彼は無産党を名乗り表立った動きをしないで、下関ではその後、逮捕されたことはなかったようでした。彼は山口孤剣の甥(おい)に当たります。山口孤剣は、下関出身で明治時代の初期の社会主義者です。小田頼造(山口市徳地町出身)と二人で大八車を引いて、東京から下関市まで四ヵ月かけて、社会主義文献の普及に取り組んだことで有名でした。また、最初の社会主義弾圧「赤旗事件」は彼の釈放祝いに対する弾圧でした。次に東海製菓事件に触れます。
第十一回 東海製菓事件(王亜製菓争議)
山本操の回顧録には「おどらされた争議」として、「印労争議(下関印刷労働組合争議)や江の浦の前岡製鋼がゴタゴタしていた。調べてみると指導者は山本利平であった」、労務管理などが幼稚だったので「これに目をつけた山本らは、次から次に煽動して甘い汁を吸わんとしていたので、警察は弾圧ではないが、正常な組合活動をするように指導した」などと述べています。その争議として、クロード窒素事件(前回に叙述)と東海製菓事件を詳しく記述しています。印労争議や前岡製鋼争議については山本利平氏の記録にはありません。しかし、山本利平氏のたたかいが下関全体に影響を広がり、特高がどんなに恐れていたかを如実に語っています。山本操の回顧録には、「王亜製菓の争議」と記録されていますが、山本利平氏は東海製菓としています。下関市新地町にあったことや製品がビスケットであることなど、内容が同じなので、名前は違っても同じ会社の争議と思います。以下山本操の叙述の概要です。昭和八年三月ごろ、八〇名程度の労働者が、全員がハンストを宣言して工場を閉鎖して工場内に立てこもった。ビスケット工場だからハンストといっても工員たちは何とかやっていた。アジビラがくばられ、内容から山本一派の策動とわかったが、指導本部をつかめないままになっていた。彼らは(組合は)「三井争議」の失敗が骨身にこたえているので、指導アジトを極秘にし、転々として暗躍していたのである。そこで、会社の了解を得て、工場の施錠を破壊して工場内に侵入、籠城している工員を追い出して解散させることを計画したが、彼らは放水して抵抗して倉庫に逃げ込んだ。倉庫を破壊して工員全部を外部に追い散らし、工場閉鎖とハンストは問題なく解決した。一方、抵抗を続ける組合側は、山本の主催する「王亜製菓争議批判集会」を工場付近の寺院を借りて計画していた。警察は「集会届は、主催者である本人の持参が必要」という条件を付けた。所在をクラマシテいた山本がその集会届を持って警察の玄関にやってきたところをなんなく検束した。(これは警察による完全なだまし討ちです。)工場を追い出され指導者を失った労組は争議をやめて解散しなければならない結果となった。以上が山本操の描く「争議録」です。労働組合運動への弾圧そのものですが、戦後になっても何ら反省のない叙述であり特高警察の反動的性格が改めて浮き彫りになります。山本利平氏は東海製菓争議のことを「労働者が街頭化することに慎重だったが、労働者の怒りを抑えることができず、集会を組織して警察の弾圧の格好の的になった」と反省を語っています。しかし、山本操らの特高警察は、労働運動を最初から犯罪視して、卑劣な策謀を「お手柄」のように戦後になって描く神経は、特高警察出身者でならわでのものです。同時に、時代は、満州事変が勃発し日本の世論は大きく反動化している社会情勢も反映しています。労働運動への弾圧を非難する世論は急速に後退していきます。
第十二回 宗教団体 大本教の弾圧
治安維持法とは、もともと共産党対策の法律でした。「国体の変革」と「私有財産」を否定するもの、その結社を図るものに重罪に、とくに「国体の変革」を図るもの(これは当時としては日本共産党)に対しては「死刑または無期懲役」という極刑を科すことに特徴がありました。しかし、共産党が徹底した弾圧のもとに組織的機能を奪われると、共産党の周りに存在する組織や人士にまでその毒牙を広げ、戦争に反対する動きをどんなものであっても芽のうちに摘み取ってしまおうとしたものでした。満州事変が始まると、その傾向は一層強まり弾圧は広範囲になります。社会党系の文化人や学者たちを逮捕弾圧した人民戦線事件はその典型でした。ちょうどそのころから、宗教弾圧が強化されます。山本操の回顧録の特徴の一つには、宗教弾圧に対する赤裸々の叙述です。山本操は、警察官になって一四年目の昭和一二年四月警部に昇進します。二,二六事件直後のことです。
新米警部の俸給は六五円で女中さんを一人置くことができた給料だったようです。たいへんな出世で本人も有頂天になっていました。彼は特高課の「エース」になります。「昭和一一年一二年ごろであって、そのころの特高課は、左翼文化人の検挙、左翼分子の査察、労働問題、農村問題等を抱えて繁忙を極めていたが、さらに宗教問題をモノにしなければならず、」モノにするというのは彼のそのままの表現で「モノにする」ことが特高課の仕事になったのです。彼は、「信教の自由は憲法も認めているといいながら、いわゆる教義と言いながら、自由の裏にかくれ、人心の弱みに食い入って、不知不識の間に天皇制の否認、あるいは不敬罪を構成するようなことをやっていた、」「本県でも『大本教』『ひとのみち』『新興仏教青年同盟』があった」。そして彼は、山口関係者の検挙に話が及びます。まず、大本教です。因みに大本教というのは、神道をもとにした新宗教で神道を極端な形で主張したため「不敬罪」にあたるとして、すでに治安維持法が成立する以前の大正時代に警察から二度にわたり警告を受けていました(第一次大本教事件)。一九三五年になって、特高警察は、治安維持法違反の名目で徹底的な弾圧に出ました。天皇制を否定するものとして幹部らに拷問を加え多くの虐殺を行い、そのうえ京都府の綾部・亀岡に作った神殿(本拠地)をはじめ各家庭にある神棚まで、伊勢神宮の神殿に似ているということを理由に不敬罪をでっち上げました。しかも、各家庭にある神殿の破壊を警察官が、家庭に乗り込んで行うというおよそ考えられない弾圧を繰り返したのです。最後には、亀岡市にあった大本教の神殿は官憲の手によって、土台から爆破されました。注目すべきはこの弾圧が、治安維持法による宗教弾圧だったということです。しかも、この大本教は神道系で当時は「戦争の勝つために大本教を信じよ」と言っていたのです。
第一三回 大本教弾圧と祟り 「ひとの道」「新興仏教青年同盟」への弾圧
なぜ、当時の特高課が大本教を目のかたきにしたかは、私には不明ですが、極右翼の資金源を提供していたためという解説もあります。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公で日本海海戦の参謀であった、秋山真之海軍中佐も退役後、大本教に入信したようです。ただ「坂の上の雲」にはそのことを触れておりません。問題は、戦後になってもこうした弾圧に対して、山本操は何らの反省も示しておらず、「徳川時代に長崎地方のキリスト教を弾圧した時と同様、一度信仰に入ったものは、そう容易に改められず、依然として大本教を信じていた」と非難さえしています。特高警察がどんなに非道なものであったかを改めて示しています。かれは、大本教の県下の中心人物が、菊川町(現下関市)の歯科医植田直樹であることを探し出し、西市(下関市旧豊田町)の藤井、殿井(同旧豊田町)の佐藤を検束します。植田直樹の家を襲ったときは、夫人が威儀を正して、ノリトあげて「さあどうぞ神殿をやぶってください」というので、一挙に神殿を壊し、そのあと、「心霊と称するもの」をまとめて、証拠品として風呂敷包みにして戻りました。さすがに気が引けたのでしょう、家には持ち込まず、自転車の荷台の上において寝ることにしました。ところが、その夜、湯タンポで両足にやけどをして、治療のため二カ月かかりました。まさに祟りだったわけで、「いまだに火傷の傷が残り」「大本教征伐の記念だ」とあとあとまであとみが悪かったと述懐しています。しかし、彼はこの弾圧を「大本教征伐」と戦後になっても平気で使っており、植田夫人から「山本さんはひどい人」と言われたが笑ってごまかしたなど言っています。彼が行った宗教弾圧は「ひとの道」にも及びました。「ひとの道」というのは現在のPL教団です。高校野球ですっかり有名になりましたが、戦前は神道系の新興宗教として弾圧の対象になりました。「人の道教関係者は、岩国と山口に信者があったが、送致するまでには至らなかった。」
新興仏教青年同盟
さらに、新興仏教青年同盟に対してです。新興仏教青年同盟とは、もともと日蓮宗系の右翼的な青年たちが社会の現実に直面して、仏教をとおして社会変革を志し、全国で四〇〇名ほどの組織でした。昭和六年に妹尾義郎を委員長にして、「反フアシズム」の主張を展開して昭和一一年解散命令を受けて弾圧されました。役員には、妹尾のほか、林霊法、壬生照順、井上丕路など戦後もそれぞれ革新的な役割をはたしました。妹尾義郎は、死の直前の昭和六〇年に日本共産党に入党して「信教の自由と日本共産党」として話題になりました。山本操は「警視庁からの内報で萩市江向にいた写真屋今地延一が山口県の責任者であることを突き止め、昭和一一年一二月ごろ逮捕した。『宗教は阿片なり』といって無神論を唱えていたが、その組織(共産党のこと)が種切れになるので、ついに宗教分野へまで進出せざるを得なかった。治安維持法違反として取り調べ送検した」「今地は戦後萩市の市会議員となった」。(彼について私は不明です。)
第一四回 山下富太市議殺害事件と補足
山下富太氏は「日本民衆党」党首を名乗り、下関市会議員でした。彼は山本利平とともに西部一般労働組合の組織に力になるとともに、山本利平氏のよき後援者でした。昭和六年十一月(一九三一年)市議会議場の廊下で「朝鮮の政」と名乗る暴力団の一員によって匕首で殺害されました。当時の下関市には「かごとら組」と名乗る暴力団が大阪から乗り込み、下関市政に食い込み汚職不正をくりかえしていました。これを山下富太氏は、議会で繰り返し追及していました。その議会でも山下市議が追及した後、白昼暴力団によって殺害されたのです。山本利平氏らは棺を赤旗で覆い葬儀を行いました。山本操はこの事件を警察側からみて、ある程度事件が予想されながら放置していたことを認めています。その後、下関警察署長がノイロゼーになった話を伝えています。下関市は、戦前は大陸の窓口であり、港町で様々な勢力がうごめく街でもありました。さらに、山本操は戦後 GHQから下関市長と癒着して汚職の一方を担いだとして逮捕され六か月ほど刑務所に入れられます。山本操は「自分は関係なかった」と弁解していますが、しかし、山本操は巡査になって二年目には、その後首相になる田中義一の為書(為山本操とある額)をもらったことを自慢するなど、政治家とのとかくの噂のある男でした。
敗戦前には朝鮮人の動向に恐れる
「特高月報」昭和一九年七月号には一月から六月までの関釜連絡船と博釜連絡船(博多と釜山連絡船)の出入りの朝鮮人の合計は、朝鮮からの渡来者九万八千四八九名、帰鮮人(朝鮮に戻る人)六万一千八二二名、渡来者が三万六千八二二名と増加したと記録されています。ところが、学生は五千一九八名,一般者は二千四二四名計七千六二二名と減少しており、増えたのは圧倒的には移入朝鮮人つまり強制徴用の労働者でした。一般の朝鮮人は日本に見切りをつけて次々に帰国していることを示しています。「特高月報」は「帰鮮の増加は戦局の緊迫に連れ可なり精神的動揺ある証左とみるべき」「朝鮮人の動向の一端を示唆するものと注目を要す」と記録しています。(以上長く紙面をいただきましたが、おわります)
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 山口県本部会長 林洋武
この小論は治安維持法国賠同盟の機関紙「不屈」山口県版で一四回にわたって連載したものです。その後、補足や訂正などして、このほどまとめてパンフにしました。 参考文献として「山口県警察史」「山口県政史」「下関市史」「風雪五〇年」(山本操著)「不屈の人山本利平」(文理閣=尾崎勇喜・杉浦敏明編著)「特高月報」「日本共産党の七〇年」などです。
第一回 東京、大阪についで重視された山口県特高課
戦前の山口県特高課は、全国の特高課の中でも独自の役割を与えられていました。それは、山口県が、下関と朝鮮の釜山を結ぶ関釜連絡船を通じて、朝鮮や中国など大陸の窓口だからでした。アジアの植民地支配にとって最重要な拠点でした。「不屈」山口版でその役割と姿を連載で掲載します。
関釜連絡船は日露戦争が終わった翌年、明治三八年(一九〇五年)に就航が始まりますが、山口県警察部は、大陸への玄関口として「外事警察の面」で特別重要視されました。山口県警察部には明治二三年(一八九〇年)には、高等警察主任警部が配置され、治安維持法の前払いといわれた「治安警察法」に基づく取締が始まりました。大正二年(一九一三年)には山口県警には「高等警察係」がおかれ政治・思想・社会問題に関する事項やスパイ対策などの任務が与えられていました。さらに大正八年(一九一九年)には課に昇格して、「高等警察課」が設けられています。高等警察課とは、治安維持法がなかった当時治安警察法に基づく政治警察でした。さらに難波事件(後述)を経て、全国に先駆けて「特別高等課」を置くことになりました。(治安維持法が施行される以前に設置されている)
外事警察として特高課の役割
治安維持法が施行されたのは大正一四年(一九二五年)に制定施行されます。山口県警察に、特別高等警察課(「特高」)がおかれるのは、特別高等課を廃止して、大正一五年(一九二六年)一月でした。東京、大阪に続いて、八つの府県に特高課がおかれたときでした。それは特高課が全府県におかれるより、先んじていたことも特徴でした。当初から、山口県特高課下関出張所というのがおかれました。課員は、全員で三七名でしたが、うち二五名が下関出張所に配置されました。これとは別に、通訳四名がいました。通訳は英語三名、露語一名でしたが、配置された巡査には朝鮮から出向の形で朝鮮人巡査が二名含まれていました。彼らは通訳ではなく警察官でしたが、朝鮮人の通訳もかねて同時に、特高課員の役割を果たしていました。朝鮮には朝鮮人警察官は大量におりましたが、内地において朝鮮人警察官をおいたのは下関だけだったといわれています。
下関出張所は、昭和一三年より二年間ほど、海港警備課と名称を変えたことがありますが、特高課であることには間違いありません。また、これも全国的には珍しい下関水上署がおかれ高速艇(大小六隻)が用意されて、密航などに備えました。海港警備課は、戦争中には人が足りなくなり再び出張所に戻りました。下関の特高課出張所は最盛時期には、七十八名(定員一一三名)を数え、東京、大阪に次ぐ大特高課でした。(以上山口県警史より)
虎の門事件(難波事件)の影
山口警察には外事警察とともに虎の門事件(別名「難波事件」)の影がありました。「山口県政史」には「全国に先がけて特別高等課をおいたがこの事件と無関係ではなかった。」と記されています。難波事件というのは、大正一二年(一九二三年)一二月二七日、難波大助という男が、昭和天皇が摂政宮の時期に国会に出向くところを仕込銃で、襲撃した事件です。一般的には襲撃した場所をとって「虎の門事件」ともいいます。襲撃した難波大助は、山口県立野村(現光市)に住み、当時現職の代議士の三男でした。難波大助は翌年の一九二四年十一月に死刑に処せられます。難波事件では、摂政宮を襲撃した事件ということで、内閣は総辞職、知事は罷免、難波大助の立野村(現光市)駐在員巡査まで処分を受けました。難波事件によって、山口県の県政、とくに司法と教育界は、急速に反動化していきます。また、警察の体制も一段と強化されます。難波大助の父親は、家に竹ぶすまをして謹慎生活を送り、食も取らず餓死したと伝えられています。また、難波姓を改姓して以後「黒川」を名乗りました。別の時期に触れたいと思います。
第二回 関釜連絡船と船名 大陸への進出の思惑を載せて
前回、関釜連絡船を窓口として、山口県特高課が重視されたことを述べました。その関釜連絡船は一九〇五年日露戦争が終了したその年に、就航を開始しました。この年は、日韓保護条約(乙巳日韓条約・第二次日韓協約)を押しつけて、いわば韓国の全面占領が完成した年でした。日本政府が、大陸への支配を露骨に示した年でもあり、韓国を日本の領土と考えはじめた年でもあります。関釜連絡船の最初の船名は壱岐丸、対馬丸でした。(千屯クラス)。大正期には三千トンクラスの連絡船でした。船名が新羅丸、高麗丸、慶福丸、昌慶丸、徳寿丸と命名されました。この名前はいかにも韓国風な地名がつけられていることに注目してください。ところが日本と朝鮮の往来が激しくなり三千トンクラスではさばききれなくなります。昭和期には、七千トンクラス以上の船(乗船定員約二千名)が増発され、就航することになりました。船名は金剛丸、興安丸、天山丸、崑崙丸(こんろんまる)となりました。昭和期になってつけられた船名は、金剛丸は朝鮮の名山金剛山ですが、興安丸は中国東北地方(満州の山脈興安嶺)、天山丸(ロシア国境の山脈)、崑崙丸(チベット北部の山脈)など中国の奥深い地名の名前が付けられています。これは、当時の日本政府が、関釜連絡船は単なる朝鮮と日本との連絡だけでなく、大陸侵略への通行路にしようとしていたことを示します。関釜連絡船は、最盛期は一日三便片道約八時間かけて釜山・下関を往復します。崑崙丸は昭和一八年米軍潜水艦によって沈められ、五八三名の犠牲者を出します。また、天山丸も機雷で座礁して廃船になります。興安丸は戦後も生き延びて、海外の在留邦人の帰国のために活躍しました。昭和一七年に関門トンネルが開通して下関駅が現在の位置にかわるまで、国鉄下関駅は、現在の下関警察署などのあるあたり(細江町)にあり、関釜連絡船の埠頭もありました。
この他に関麗(かんれい)連絡船がありました。釜山の西方二〇〇キロのところにある麗水(ヨス)と下関とを日に一便往復していました。ついでにふれると、済州島との間には「君が代丸」という船が兵庫県尼崎との間に週一回往復していました。このため、現在も尼崎や大阪には在日朝鮮人が多く、そのうち済州島出身者が多数を占めるという歴史的経過があります。また、台湾と日本の連絡船は、台湾の基隆(キールン)から門司により大阪にいく定期船と、キールンと横浜を結ぶ定期船が運航していました。
第三回 関釜連絡船監視と「百発百中」
山口県特高課下関出張所の任務は何だったでしょうか。ここにその任務を示す回顧録があります。「関釜連絡船が下関に着くと、(乗客達は=筆者注)一列に出口、もしくは、列車乗車口に行くことになっている。その左右に老練警察官が五,六人、その乗客を監視していて、移動警察官から連絡のあった人物は勿論、その直感で、怪しいとにらめば、呼び止めて取調室に直行するのであるが、それは百発百中で機械のように、正確で狂いのないのに私は驚いた。警察官の職務質問が問題になる今の時代では、想像できないことであった。」
昭和一八年に関門トンネルが開通して下関駅が現在の位置にかわるまで、下関駅は、現在の下関警察署や市民会館のあるあたりにあり、関釜連絡船の埠頭もありました.戦前、全国各地の内務官僚、台湾の保安課長をへて、昭和十三年当時山口県特高課長になった山本暲の回顧録「歩いて来たみち」の一節です。ちなみに彼は戦後、公職追放を受けたあと公選制で郷里の高知市長を一期勤めています。ここにある「百発百中」こそ朝鮮から内地に渡ってきた朝鮮人たちにとって恐怖のまとでした。「下関で特高ににらまれたら最後、犯罪人にされてしまう」という恐怖でした。(後に出てくる山本操著「風雪五十年」の孫引きです。)日韓「併合」で朝鮮人も日本人扱いがされたかというと実際はそうはいきませんでした。大正時代は、大量な朝鮮人が日本に流入すると朝鮮人の日本への渡航を制限しました。朝鮮人の留学生が多かった時代でしたが、留学生であれ労働者であれ、そのころは朝鮮総督府の許可証を持つことが義務づけられました。また、昭和になっても在住する地域の警察の通行証が必要でした。釜山の乗船口は日本人と朝鮮人とは別々でした。日本人客に潜り込もうとするとそれだけで「不逞鮮人」(けしからぬ朝鮮人)扱いで乗船させられずとめおきされました。それでも日本に渡航する必要性がおきると許可証なしに渡航する人も出てきました。「不逞鮮人」という蔑称で、少しでも怪しいとにらんだものはみな網に引っかけたのです。戦争が激しくなって日本の労働者不足が激しくなると徴用という強制連行が行われましたが、これには警察官などの厳重な監視が伴いました。「百発百中」というが決してそうではありません。
面貌怪異なら藤原義江や菊池男爵もつかまる
関釜連絡船で下関に上陸する際に、特高から尋問された中には藤原義江もおりました。山本操著「風雪五十年」(後述)によると「外人であるような外人でないような」風貌をもった男を、若い巡査が取調室に連れてきました。藤原義江は、昭和初年当時すでに、イタリアやフランスからその歌唱力を認められて国家勲章をもらうほどの世界的なテナーでした。彼は、下関生まれで、イギリス人を父に持つハーフでした。日本でもテレビのなかった時代でしたが、新聞でも写真が連日乗るような有名な歌手でした。(古川薫著「漂泊者のアリア」参照)藤原は「この俺の顔も知らないのか」と抗議をしたら、若い巡査が「たかが歌手の分際で」とどやしつけたと記録されています。文脈では一発ぐらいなぐりつけたようです。また、別の特高課員が、「面貌怪異ということで捕まえたが、それが菊地という貴族院議員男爵だった。この菊池武夫男爵は元陸軍中将で美濃部達吉の天皇機関説や京大の滝川事件を貴族院でと攻撃した超右翼主義者だった。特高警察も「平謝りに謝った」、この場合は警察官があやまったのですが、「面貌怪異」と判断すれば、百発百中で「不逞鮮人」にされてしまう恐怖はまさに朝鮮から渡航してくる朝鮮人にとっては恐怖のまとでした。これは在日朝鮮人の書いた小説などに「日本に上陸した際、朝鮮人としての最初の差別と屈辱であった」とでてくる情景で、関釜連絡船をどうやって通過するかは朝鮮人にとっては大きな課題でした。下関の警察はそれほど横暴でした。
第四回 「祖国の眼」と「移動子
下関出張所の特高課の任務が関釜連絡船の乗客たち特に朝鮮人の監視にあったことについてふれました。こうした監視の任務を、特高課員たちは「祖国の眼」と自称して誇りにしていました。私は日本の終戦時、小学校四年生で今の北朝鮮にいました。当時朝鮮では「一視同仁」ということをさかんにいっていました。「日本人も朝鮮人も天皇は同じく観ている。同格だ」という意味でした。「一億総突撃・一億玉砕」など戦意を煽りましたが、この一億人は、日本人七千万、朝鮮人二千五百万、台湾住民その他で計一億人でした。都合のよいときには、国民になりますが、下関では朝鮮人は、決して日本人扱いにはせず、祖国に進入する不逞の輩でした。だから朝鮮人はじめアジア人を見張ることを「祖国の眼」といっていたのです。
さらに「移動子」という言葉を使いました。連絡船には下関側と釜山側から三名ないし四名の警察官が乗り込み、乗客を監視していました。前述、崑崙丸が昭和一八年に米軍潜水艦によって沈没させられ、乗客、乗組員 五八三名が犠牲になりますが、そのさい下関側三名釜山側二名の警察官も運命をともにします。警察の「移動子」でした。「特高月報」昭和一五年八月号には、海港警備課(特高課)が「関釜連絡船検索により、朝鮮独立に関する不穏当な文を記述せる日記帳を所持せる福岡県八女農学校生徒(一九歳)を検挙し、取り調べ方とともに身柄を朝鮮側に引き継ぎたり」と記述があります。関釜連絡船は乗り込んだら約八時間どこにも逃げられません。特高警察官は、朝鮮人たちの私物まで遠慮なく検索していました。やっと青年になったばかりの旧制中等学校の生徒も、朝鮮に帰る連絡船のなかで特高の網にひっかかったのです。ついでに述べると、日本に上陸した乗客は山陽線か、山陰線に乗り込んで全国各地に散らばっていきました。そこにも監視がつきます。普通列車なら小郡駅(現新山口駅)、正明市(現長門駅)まで、特急の場合は広島まで警察官は乗り込みました。下関の関門を通過した朝鮮人達は、列車に乗り込んでもいつ警察官によって「おいこら」とやられるかわかりません。戦々恐々として列車に乗り込んでいました。朝鮮人達は、留学生を除いて日本に稼ぎに来たのです。ですから、貧しい人が多かったのです。日本に行くからといって服を買うわけにも行かず、民族服を着ている人が多かったのです。昭和初年、関釜連絡船の運賃は片道三円五〇銭でした。当時日本での朝鮮人の日当は七〇銭から八〇銭でした。山本利平氏(後述)の記憶によると、「朝鮮人の最低賃金が、門司では八〇銭なのに下関では五〇銭だったので、下関も門司なみにせよと申し入れた」とあります。それだけの稼ぎがあるかどうかは渡航してきた朝鮮人達にとって命に関わる問題でした。在日一世の人達の回顧録や小説などには「岩波文庫」をもっていただけで,衆人の中、鼻血が出るぐらい殴られたとか、朝鮮人の民族衣装が汚いなどの理由で、警察に留置されたとか激しい抗議が記録されています。警察官というのは、現在もそうですが、昇進と勲章がもっとも「名誉」なことです。しかも圧倒的な権力を握っていました。ときには理由がないのに憂さ晴らしをしました。しかも、この憂さ晴らしは誰もとがめるものはいませんでした。前回「これはとにらんだら、百発百中」と言う理由がここにありました。捕まえたら、必ず犯人にしなければなりませんでした。山口県特高課が、全国有数の特高課であった理由は、外事警察として主としてこうした朝鮮人監視と思想犯への監視にあったのです。
第五回 上田誠一山口県知事と内務官僚
メーデー事件弁護団長、松川事件弁護人、自由法曹団団長であった上田誠吉弁護士は、戦後の弾圧事件では必ず弁護人を引き受ける共産党員、革新系弁護士の輝かしい先輩です。一昨年(二〇〇九年)、故人となりました。労働事件を引き受けるたびに奥さんに内職をさせて糊口をしのいで、無償で弁護活動に取り組んだことでも尊敬を集めました。この人の父親は上田誠一といい内務官僚で、東京都警務部長(特高警察)から、終戦時の山口県知事でした。昭和十九年八月に赴任、昭和二十年十月に退官していますから、敗戦とアメリカ占領軍の進駐という文字通りの混乱期に山口県知事として過ごしました。上田誠一氏の伝記を息子の上田誠吉氏が「ある内務官僚の軌跡」という本にまとめております。上田誠吉氏が自由法曹団の弁護士になるというと、上田誠一氏は自宅の応接間で平手打ちで殴りつけてきたそうです。しかし、この父親は、特高官僚達が、戦後政治家になる道を選んだ人が多かったのですが、その道を選ばず、弁護士になり、松川事件濱崎被告の弁護のため一度法廷に立ったそうです。また、誠吉氏の弟は上田誠也といい、東大名誉教授で地球物理学の権威ですが、この人も科学に弁証法を取り入れて、「地球の歴史」(岩波新書)をわかりやすく説明した好著をだすなど日本科学者会議の学者でした。
内務官僚は、警察だけでなく内政一般にあたった
戦前は「内務省」というと現在の警察庁、厚生労働省、国土交通省などを含む、内政に関する一切の権限が集中していました。また、内務官僚は、民生部門や現在の厚生行政など担当し、次には警察部門とくに特高課を担当するなど、役人中の役人エリートでした。彼らの出世意欲も際だっており、一部門で一仕事をあげる事が次のステップの条件でした。各県の特高課長はこうした役人達が席を占めていました。この点では、警察官も同様で巡査から出世して県庁のお役人になるものもおおくいました。日本の敗戦というのはとりわけ彼らにとって青天の霹靂でした。彼らは、敗戦によって公職追放された者も多かったのですが、早くも昭和二四年以後のGHQ(アメリカ占領軍)の反共政策によって、追放は次々に解除されました。彼らは、戦争中は「鬼畜米英」などアメリカを非難していた連中でしたが、一転してアメリカ追従にかわりました。彼らのうちには官僚の中のエリートという自負があり、戦後は衆参国会議員になる者が多く、「特高官僚」が戦後を支配したことはよく知られています。現在の同盟中央本部会長柳河瀬精氏の名著「告発!戦後の特高警察」(日本機関紙出版センター)には個々の特高官僚たちの戦後の反動的役割について詳細に触れています。そうしたこともあり比較的多くの自伝など残しております。私は、前述の「風雪五十年」や高村坂彦(元徳山市長)の自伝(「激動の世に生きた政治家」)また、後藤田正晴の回顧録などを眼に通したに過ぎませんが、彼らに共通することは戦前の弾圧に何らの反省がないことです。人権無視、希代の悪法といわれる治安維持法に対する反省は全くないと言ってもよいのです。そればかりか、戦後の特高課を解散したことを嘆き、共産党や朝鮮人団体への弾圧をもっと強化しなければならなかったという意味のことをとくとくと述べていることが特徴です。天皇制政府の警察官として、戦後のアメリカ占領軍時代の警察官の感覚は、驚くほど共通しています。その中で、松川事件の弁護人を引き受けた上田誠一氏は希有の人でした。因みに、山本操は上田知事のことを「二・二六事件の処理で苦労をされた」「謹厳実直のイギリス型紳士」「公平で部下思い」などと描いています。
第六回 「風雪五〇年」と山本操 蛇蝎のように嫌われた男
前回に述べたように、内務官僚と警察官僚とは一体のものでした。山口県特高課下関出張所の任務は、治安維持法にもとづく思想犯対策にありましたが、同時に外事警察朝鮮人や中国人ロシヤ人に対する特別な任務が与えられていました。しかし、任務は県内の労働運動や共産党対策も決しておろそかにしておりません。
山口県特高課の警察官に山本操という男がいます。彼は一九二一年(大正十年)に山口県巡査に採用され、一九二六年(大正一五年)、特高課発足以来特高課員として、山口警察署と下関署と下関出張所に籍を置き、多くの「功績」をあげて最後には下関警察署長で終戦を迎ました。戦後、公職追放を受けたあとは下関水産業界に入り、水産会館の社長などをつとめました。彼は、県の「防長警友」(警察官の退職者の組織「警友会」の機関紙)という小誌に「風雪五十年」という回顧録を書きそれをまとめて小冊子として残しております。(この小論にしばしば引用させてもらいます) 戦前の活動家たち山本利平日本共産党県会議員や山田喜一日本共産党県委員長らは山本操のことを「出世のためには何でもする男」と蛇蝎のように嫌っていました。体は小柄でしたが「鉄砲玉」のようだと警察内部でもいわれるように功名心さかんな警察官でした。彼の回顧録の中にも山本利平氏をしばしば逮捕や拘束したことを自慢げに語っています。ただ彼が執筆していた当時、山本利平氏は県会議員でしたので、共産党については、かなり自制的です。あとで触れますが、宗教団体への弾圧については、かなり赤裸々に弾圧の状況を書いており、ここまで書くのかと思うほど反省のない書き方に怒りを超えて驚くほどです。次回以下から紹介していきます。
第七回 「山高生であれば、みな左翼に見えた」
山口県では、三・一五事件や四・一六事件については、逮捕者や弾圧者はでていません。東京や大阪などで山口県出身者は、市川正一、志賀義雄、野坂参三など一九名の逮捕者がでましたが,山口県の警察関係者は県警として逮捕者を出さなかったことを残念がりました。それでも特別要視察人六名、労働要視察人九名、思想要注意人三八名と雑賀習之歯科医師、山本凡児(利平)などを指名して監視しています。 山口県警史のなかでも「山高生の左傾化学生を取り締まる」という項目があります。これは山口警察署特高課にいた山本操が中心になって弾圧した一九三〇年(昭和五年)の事件です。旧制山口高校生の学習サークル(特に共産党とは関係なかった)を「共産青年同盟事件」として弾圧した事件です。彼らの中に朝鮮人学生がいました。ここに目を付けて、朝鮮人学生とグループを作っていた集まりを弾圧したのです。山高の学生主事や山口高商の事務員などと連絡をとり「十月ロシヤ革命記念日を前に不穏な動きがある。」としてでっち上げた事件です。山高生、山口師範学生、山口高商生、さらに山口県庁職員や、特高が「街頭分子」といっていた労働者など七五名を逮捕しました。山口県警も山本操もさすがにこの事件を「共産党」とは断じ切れませんでした。山口市は、昭和四年に町から市になったばかりの小さな町でした。その小さな町に山口高校、山口高等商業学校、山口師範(いずれも旧制)と当時の高等教育機関が三つもありました。山本はこの高校生達に目を付けました。「山高生であればみな左翼に見えた」と言うほど山高生を徹底してマークしました。少しでも左翼と見ればためらいなく逮捕した事件です。この中には戦後、警備警察になり、民青対策や共産党対策で名をあげた、弘津恭輔総理府副長官(彼は当時から右でしたが)なども探索の対象になっていました。また、朝鮮平壌で検事をやっていた息子を逮捕して、平壌から父親の検事を呼びだしたが、自供をせず、母親まで呼び出して「転向」させたことなどをとくとくと語っています。結局、この事件は、数名の朝鮮人をふくむ七五名を逮捕し、一八名を送致しましたが、全員起訴猶予でもともと根拠がなかった事件です。しかし、山口市の若者達を震え上がらせました。同時に、彼は、この事件で「山口県特高課に山本有り」と出世して最重要の下関署に転出します。山本操とは関係ないですが、ついでに触れますと昭和一五年七月には、「山口高校麗友会」に入会していた山口高校の朝鮮人学生ばかり十九名を「朝鮮独立運動を画策す」として検挙しています。山口高校は朝鮮に近いこともあって朝鮮人留学生が多かったのですが、全校六百名前後のうち十九名ですから朝鮮人学生全員を検挙したのでないかと思います。この事件はさらに調べてみる必要があります。山口県での本格的な共産党組織の建設とその弾圧は、戦後日本共産党山口県委員長をした山田喜一氏ら国鉄労働者らが中心になった昭和八年の周東共産党事件ですが、山本操の回顧録にはこの事件については第二次検挙として簡単にふれているだけです。その後の下関における数々の弾圧事件を赤裸々に、当時の法律から見ても違法行為を行いながら、労働運動や宗教弾圧を繰り返しました。その主要な相手は山本利平氏でした。山本利平氏は戦前共産党に近かったのですが、党とは連絡付かず、無産党や部落解放運動を不屈にたたかった活動家でした。山本操は下関署特高課主任として弾圧の尖兵の役割を果たします。
第八回 下関特高課主任 山本操
山口署で山高生等を弾圧して下関署特高課主任に栄転した山本操は、ここでも「成果」を上げます。昭和六年(一九三一年)の第一次検挙です。彼はこの下関で山本利平(凡児)、林始、西藤辰夫等が労働運動で活躍し、左翼的行動をしているのに目を付けて、共産党がいるに違いない。とみます。そこで面谷賢治に目につけます。山本操は彼のことを陰で左翼を操っている男に違いない指導者として逮捕します。「面谷は川棚(現下関市)出身、天性からの左翼運動者として生まれてきたような男であった」と左翼蠢動の要として山本凡児、林始、西藤辰夫等とともに逮捕しますが、結局彼を送致しただけで、他の三名は起訴できませんでした。
林始氏は一九一三年に内日村(現下関市)で生まれで、昭和四年頃(一九二九年)より山本利平(凡児)氏と労働運動家として活躍しましたが、下関無産党で共産党ではありませんでした。彼は、戦後、長崎で共産党に入党して戦後の高揚期を長崎で闘い、アメリカ占領軍批判をしたとされ、政令三二五号違反で二年半の懲役刑をうけ下獄、病気のためその後は静養します。晩年は一九五四年下関彦島にもどり、誠実な党員として共産党居住支部に所属して九三歳で亡くなりますが、回顧録を同盟に寄せています。「面谷は懐にピストルなど見せびらかせ、左翼ことばなど見事だった。八幡製鉄出身といっていた。しかし、逮捕されてから杳(よう)として消息がわからず、山本利平氏とあいつはスパイではなかったかと話しあった」とのことです。林始氏は「この風雪五〇年」を読んでいなかったのでしょう。山本操が面谷の消息を伝えています。「彼はその後満州に行き、特務機関のような仕事をしていたが、終戦前に帰国し山陽電軌会社の嘱託になり、副社長と同乗していたトラックで踏切事故に遭遇して無惨な死を遂げた。」と。文面だけでは、スパイであったかどうかはわかりません。しかし、山本操は、面谷が満州で特務機関に属していたことまで含めて、最後まで消息を見届けている点でも注目してよいのでないでしょうか。ついでながら、林始氏の回顧の中には、当時面谷のあと関門キャップには党中央の幹部だった田中清玄や椎野悦郎などが派遣されていたとのことです。
続いて昭和七年(一九三二年)二月左翼第二次検挙が行われます。山口県の左翼第二次検挙というのは、周東共産党事件が中心でした。戦後の山口県委員長であった山田喜一氏を中心に山口県の最初の共産党弾圧事件です。山田氏等は防府市の国鉄労働者を組織して何人かの共産党員を組織しました。また、柳井市を中心にした皿田知治(戦後党活動をしたが毛沢東盲従分子になって除名)共産青年同盟員などを弾圧した事件です。この弾圧を総称して周東共産党事件といっています。別の機会に詳しく報告できればと思います。「共産党の組織」に対する弾圧で、山口を中心とした学生などを含め八〇名を逮捕し、下関市でも多くの逮捕者を出しました。治安維持法による毎年のように弾圧事件がおきます。
第九回 山本利平氏の回顧と労働運動への弾圧
山田喜一氏や山本利平氏は、「下関第二次検挙事件は、周東共産党事件があったので、山本操が徳山署や柳井署への対抗意識を出し、点数稼ぎに共産党としてデッチアゲ、下関の左翼を弾圧したもの」。「折井長司(その後原田)も共産党ではなかった」。と私に語ったことがあります。山本利平氏(筆名・凡児)は、一九〇四年(明治三七年)美祢郡共和村(現美祢市)に未解放部落民としてうまれ、水平社運動(部落解放運動)に早くから立ち上がり全国的に知られた水平社の活動家でした。戦前の昭和一二年から一七年まで一期無所属で下関市会議員をつとめました。戦後、下関より日本共産党の山口県会議員を三期つとめ多くの人から「利平さん」と親しまれて人です。私は選挙運動のお手伝いをして、戦前の活動状況を聞く機会があり「山口民報」紙にも一部掲載したこともあります。その後伝記「気骨の人山本利平」が文理閣から出ており、一番詳しいものです。今回は山本操の叙述を見る上で比較して参考にしました。山本利平氏は水平社運動には一九二三年頃より参加して、かなり深刻な差別的行為・言辞への抗議に対して「恐喝」などの理由で逮捕され、懲役一年半で広島刑務所に下獄しました。その後、山本氏は水平社運動と労働運動の結合が必要という立場から一九二九年には、下関に下関市西部一般労働組合(約二百名)を組織して委員長になっていました。一九三〇年五月には山口県最初のメーデー行進を二百名で行い内外の話題をさらいました。(メーデーそのものは、その前前年下松の日立の労働者が集会を開いたのが県下初のメーデーでした。)
特高主任山本操は、なんとしてもこうした労働運動を押さえつけようと執拗に弾圧します。それを自分たちのお手柄として述べているのです。
「下関の第二次検挙は、国鉄を中心としたもので、捜査に着手したのが六年(昭和)八月、捜査、検挙に着手したのが翌年二月はじめであった。この検挙で下関の左翼を根こそぎ洗い上げ、再び蠢動できないように始末したのである。」この叙述に怒りを感じないものはいないでしょうが、すべてこうした治安維持法を何らの反省もなく描いているのがこの本の特徴です。その中でも労働運動への弾圧に対して手柄顔で記述しています。もともと、戦前の暗黒政治の下でも、労働運動に対して、警察は「労使の中立的立場」ということを建前上、標榜していました。下関の労働運動は山本利平氏がその中心でした。山本操は、特高警察として山本利平氏のたたかいを執拗に妨害し弾圧し、「当時の世論でもやりすぎだという批判があったが満州事変など世相のなかでかき消された」ことを、山本操が書き残しています。
第十回 クロード窒素事件と東海製菓事件
山本利平氏は水平社運動と労働運動との結合をはかり、下関合同労働組合を組織しました。そのことは下関市の労働運動に活気を与えました。同時にこの組合をたよりに、さまざまな労働者が要求を掲げて果敢に闘いに立ち上がります。そのひとつが、クロード窒素の闘いでした。クロード窒素とは、後の三井高圧になる三井系の彦島にある工場でした。もともと、鈴木商店系列の会社でしたが、鈴木商店が昭和恐慌のなか一九二七年に倒産して、当時は三井財閥が経営を引き受けていました。鈴木商店と違って厳しい労働条件に労働者の不満が鬱積していました。雑賀習之歯科医(後述、下関市最初の社会主義者として尊敬を集めていた)が工場医として出入りしていたため、工場内の情勢もわかり、新聞配達をしていた原田氏(名前は不詳)と山本利平氏が二人で工場にビラ入れを開始しました。これはたいへんな反響を呼びました。隣接していた三井彦島精錬所の三〇〇名の労働者にも影響が出て、三〇年のメーデー(下関の第二回)を五〇〇名の参加で成功させるなどしました。必死の努力で七月二一日正午のサイレンを期してストライキに入りました。要求や町内会への働きかけなど省略しますが、山本利平氏の指導はたいへん緻密なものでした。ここで出てきたのが、山本操の特高課です。彼らは、この動きを当初から把握して追跡していました。そして、クロード窒素の争議団の事務所を突き止めると、その道をはさんだ目と鼻のさきに民家を借りて二〇数名の警察官をあて、取締本部を設置しました。そして争議団の動きを監視します。「警察内部にもやりすぎ。という批判があったが、三井という大財閥の企業が、山本一派に牛耳られるわけには行かない」とさまざまな妨害手段にでます。県警史にも「この弾圧で功績のあった山本操など」と山盛りになった書類の前に座っている警察幹部の写真が残されています。この争議には暴力団が動きますが、さすが、警察が暴力団を使ったと書いてありません。道一本はさんで取り締まり本部をつくり些細なことで幹部を逮捕します。ストは、「初めて聞いた、みた」と周辺の住民が驚いた会社側の近代的機器、大マイクロホンによる宣伝と暴力団によるドスの脅しとともに二一日闘った後、敗北します。しかし、この戦いは三井財閥を相手に正面からたたかったという点で全国的にも評価される闘争でした。同時に、特高が労働運動の弾圧の前面に出ている点でも注目すべき経過です。さて雑賀習之歯科医のことですが、彼は学生時代東京で山口孤剣を通じて、社会主義に触れ「赤旗事件」で逮捕されます。その後、帰郷して下関市で開業して、山本利平氏の支援者でした。警察のマークも激しいのですが、彼は無産党を名乗り表立った動きをしないで、下関ではその後、逮捕されたことはなかったようでした。彼は山口孤剣の甥(おい)に当たります。山口孤剣は、下関出身で明治時代の初期の社会主義者です。小田頼造(山口市徳地町出身)と二人で大八車を引いて、東京から下関市まで四ヵ月かけて、社会主義文献の普及に取り組んだことで有名でした。また、最初の社会主義弾圧「赤旗事件」は彼の釈放祝いに対する弾圧でした。次に東海製菓事件に触れます。
第十一回 東海製菓事件(王亜製菓争議)
山本操の回顧録には「おどらされた争議」として、「印労争議(下関印刷労働組合争議)や江の浦の前岡製鋼がゴタゴタしていた。調べてみると指導者は山本利平であった」、労務管理などが幼稚だったので「これに目をつけた山本らは、次から次に煽動して甘い汁を吸わんとしていたので、警察は弾圧ではないが、正常な組合活動をするように指導した」などと述べています。その争議として、クロード窒素事件(前回に叙述)と東海製菓事件を詳しく記述しています。印労争議や前岡製鋼争議については山本利平氏の記録にはありません。しかし、山本利平氏のたたかいが下関全体に影響を広がり、特高がどんなに恐れていたかを如実に語っています。山本操の回顧録には、「王亜製菓の争議」と記録されていますが、山本利平氏は東海製菓としています。下関市新地町にあったことや製品がビスケットであることなど、内容が同じなので、名前は違っても同じ会社の争議と思います。以下山本操の叙述の概要です。昭和八年三月ごろ、八〇名程度の労働者が、全員がハンストを宣言して工場を閉鎖して工場内に立てこもった。ビスケット工場だからハンストといっても工員たちは何とかやっていた。アジビラがくばられ、内容から山本一派の策動とわかったが、指導本部をつかめないままになっていた。彼らは(組合は)「三井争議」の失敗が骨身にこたえているので、指導アジトを極秘にし、転々として暗躍していたのである。そこで、会社の了解を得て、工場の施錠を破壊して工場内に侵入、籠城している工員を追い出して解散させることを計画したが、彼らは放水して抵抗して倉庫に逃げ込んだ。倉庫を破壊して工員全部を外部に追い散らし、工場閉鎖とハンストは問題なく解決した。一方、抵抗を続ける組合側は、山本の主催する「王亜製菓争議批判集会」を工場付近の寺院を借りて計画していた。警察は「集会届は、主催者である本人の持参が必要」という条件を付けた。所在をクラマシテいた山本がその集会届を持って警察の玄関にやってきたところをなんなく検束した。(これは警察による完全なだまし討ちです。)工場を追い出され指導者を失った労組は争議をやめて解散しなければならない結果となった。以上が山本操の描く「争議録」です。労働組合運動への弾圧そのものですが、戦後になっても何ら反省のない叙述であり特高警察の反動的性格が改めて浮き彫りになります。山本利平氏は東海製菓争議のことを「労働者が街頭化することに慎重だったが、労働者の怒りを抑えることができず、集会を組織して警察の弾圧の格好の的になった」と反省を語っています。しかし、山本操らの特高警察は、労働運動を最初から犯罪視して、卑劣な策謀を「お手柄」のように戦後になって描く神経は、特高警察出身者でならわでのものです。同時に、時代は、満州事変が勃発し日本の世論は大きく反動化している社会情勢も反映しています。労働運動への弾圧を非難する世論は急速に後退していきます。
第十二回 宗教団体 大本教の弾圧
治安維持法とは、もともと共産党対策の法律でした。「国体の変革」と「私有財産」を否定するもの、その結社を図るものに重罪に、とくに「国体の変革」を図るもの(これは当時としては日本共産党)に対しては「死刑または無期懲役」という極刑を科すことに特徴がありました。しかし、共産党が徹底した弾圧のもとに組織的機能を奪われると、共産党の周りに存在する組織や人士にまでその毒牙を広げ、戦争に反対する動きをどんなものであっても芽のうちに摘み取ってしまおうとしたものでした。満州事変が始まると、その傾向は一層強まり弾圧は広範囲になります。社会党系の文化人や学者たちを逮捕弾圧した人民戦線事件はその典型でした。ちょうどそのころから、宗教弾圧が強化されます。山本操の回顧録の特徴の一つには、宗教弾圧に対する赤裸々の叙述です。山本操は、警察官になって一四年目の昭和一二年四月警部に昇進します。二,二六事件直後のことです。
新米警部の俸給は六五円で女中さんを一人置くことができた給料だったようです。たいへんな出世で本人も有頂天になっていました。彼は特高課の「エース」になります。「昭和一一年一二年ごろであって、そのころの特高課は、左翼文化人の検挙、左翼分子の査察、労働問題、農村問題等を抱えて繁忙を極めていたが、さらに宗教問題をモノにしなければならず、」モノにするというのは彼のそのままの表現で「モノにする」ことが特高課の仕事になったのです。彼は、「信教の自由は憲法も認めているといいながら、いわゆる教義と言いながら、自由の裏にかくれ、人心の弱みに食い入って、不知不識の間に天皇制の否認、あるいは不敬罪を構成するようなことをやっていた、」「本県でも『大本教』『ひとのみち』『新興仏教青年同盟』があった」。そして彼は、山口関係者の検挙に話が及びます。まず、大本教です。因みに大本教というのは、神道をもとにした新宗教で神道を極端な形で主張したため「不敬罪」にあたるとして、すでに治安維持法が成立する以前の大正時代に警察から二度にわたり警告を受けていました(第一次大本教事件)。一九三五年になって、特高警察は、治安維持法違反の名目で徹底的な弾圧に出ました。天皇制を否定するものとして幹部らに拷問を加え多くの虐殺を行い、そのうえ京都府の綾部・亀岡に作った神殿(本拠地)をはじめ各家庭にある神棚まで、伊勢神宮の神殿に似ているということを理由に不敬罪をでっち上げました。しかも、各家庭にある神殿の破壊を警察官が、家庭に乗り込んで行うというおよそ考えられない弾圧を繰り返したのです。最後には、亀岡市にあった大本教の神殿は官憲の手によって、土台から爆破されました。注目すべきはこの弾圧が、治安維持法による宗教弾圧だったということです。しかも、この大本教は神道系で当時は「戦争の勝つために大本教を信じよ」と言っていたのです。
第一三回 大本教弾圧と祟り 「ひとの道」「新興仏教青年同盟」への弾圧
なぜ、当時の特高課が大本教を目のかたきにしたかは、私には不明ですが、極右翼の資金源を提供していたためという解説もあります。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公で日本海海戦の参謀であった、秋山真之海軍中佐も退役後、大本教に入信したようです。ただ「坂の上の雲」にはそのことを触れておりません。問題は、戦後になってもこうした弾圧に対して、山本操は何らの反省も示しておらず、「徳川時代に長崎地方のキリスト教を弾圧した時と同様、一度信仰に入ったものは、そう容易に改められず、依然として大本教を信じていた」と非難さえしています。特高警察がどんなに非道なものであったかを改めて示しています。かれは、大本教の県下の中心人物が、菊川町(現下関市)の歯科医植田直樹であることを探し出し、西市(下関市旧豊田町)の藤井、殿井(同旧豊田町)の佐藤を検束します。植田直樹の家を襲ったときは、夫人が威儀を正して、ノリトあげて「さあどうぞ神殿をやぶってください」というので、一挙に神殿を壊し、そのあと、「心霊と称するもの」をまとめて、証拠品として風呂敷包みにして戻りました。さすがに気が引けたのでしょう、家には持ち込まず、自転車の荷台の上において寝ることにしました。ところが、その夜、湯タンポで両足にやけどをして、治療のため二カ月かかりました。まさに祟りだったわけで、「いまだに火傷の傷が残り」「大本教征伐の記念だ」とあとあとまであとみが悪かったと述懐しています。しかし、彼はこの弾圧を「大本教征伐」と戦後になっても平気で使っており、植田夫人から「山本さんはひどい人」と言われたが笑ってごまかしたなど言っています。彼が行った宗教弾圧は「ひとの道」にも及びました。「ひとの道」というのは現在のPL教団です。高校野球ですっかり有名になりましたが、戦前は神道系の新興宗教として弾圧の対象になりました。「人の道教関係者は、岩国と山口に信者があったが、送致するまでには至らなかった。」
新興仏教青年同盟
さらに、新興仏教青年同盟に対してです。新興仏教青年同盟とは、もともと日蓮宗系の右翼的な青年たちが社会の現実に直面して、仏教をとおして社会変革を志し、全国で四〇〇名ほどの組織でした。昭和六年に妹尾義郎を委員長にして、「反フアシズム」の主張を展開して昭和一一年解散命令を受けて弾圧されました。役員には、妹尾のほか、林霊法、壬生照順、井上丕路など戦後もそれぞれ革新的な役割をはたしました。妹尾義郎は、死の直前の昭和六〇年に日本共産党に入党して「信教の自由と日本共産党」として話題になりました。山本操は「警視庁からの内報で萩市江向にいた写真屋今地延一が山口県の責任者であることを突き止め、昭和一一年一二月ごろ逮捕した。『宗教は阿片なり』といって無神論を唱えていたが、その組織(共産党のこと)が種切れになるので、ついに宗教分野へまで進出せざるを得なかった。治安維持法違反として取り調べ送検した」「今地は戦後萩市の市会議員となった」。(彼について私は不明です。)
第一四回 山下富太市議殺害事件と補足
山下富太氏は「日本民衆党」党首を名乗り、下関市会議員でした。彼は山本利平とともに西部一般労働組合の組織に力になるとともに、山本利平氏のよき後援者でした。昭和六年十一月(一九三一年)市議会議場の廊下で「朝鮮の政」と名乗る暴力団の一員によって匕首で殺害されました。当時の下関市には「かごとら組」と名乗る暴力団が大阪から乗り込み、下関市政に食い込み汚職不正をくりかえしていました。これを山下富太氏は、議会で繰り返し追及していました。その議会でも山下市議が追及した後、白昼暴力団によって殺害されたのです。山本利平氏らは棺を赤旗で覆い葬儀を行いました。山本操はこの事件を警察側からみて、ある程度事件が予想されながら放置していたことを認めています。その後、下関警察署長がノイロゼーになった話を伝えています。下関市は、戦前は大陸の窓口であり、港町で様々な勢力がうごめく街でもありました。さらに、山本操は戦後 GHQから下関市長と癒着して汚職の一方を担いだとして逮捕され六か月ほど刑務所に入れられます。山本操は「自分は関係なかった」と弁解していますが、しかし、山本操は巡査になって二年目には、その後首相になる田中義一の為書(為山本操とある額)をもらったことを自慢するなど、政治家とのとかくの噂のある男でした。
敗戦前には朝鮮人の動向に恐れる
「特高月報」昭和一九年七月号には一月から六月までの関釜連絡船と博釜連絡船(博多と釜山連絡船)の出入りの朝鮮人の合計は、朝鮮からの渡来者九万八千四八九名、帰鮮人(朝鮮に戻る人)六万一千八二二名、渡来者が三万六千八二二名と増加したと記録されています。ところが、学生は五千一九八名,一般者は二千四二四名計七千六二二名と減少しており、増えたのは圧倒的には移入朝鮮人つまり強制徴用の労働者でした。一般の朝鮮人は日本に見切りをつけて次々に帰国していることを示しています。「特高月報」は「帰鮮の増加は戦局の緊迫に連れ可なり精神的動揺ある証左とみるべき」「朝鮮人の動向の一端を示唆するものと注目を要す」と記録しています。(以上長く紙面をいただきましたが、おわります)
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プロフィール

- 阪口喜一郎
- 1932年2月から10月にかけて帝国海軍の兵士に向けて6号にわたり発行された「聳ゆるマスト」の初代発行責任者。反戦平和を主張し、当時の「治安維持法」違反として、多くの弾圧を受けました。日本の解放運動史上はじめて現役兵士に反戦をよびかける新聞でした。
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