残したいこと
自分の記憶の中では
父はまるで自分の中での汚点のように
人に知られたくない
隠しておく存在だった。
父は病気だった。
それが、どんな病名なのか、
不思議なことに
今でもはっきりとわからない。
母も祖母も頭の病気だと言い、
病名は覚えていないようだった。
わかっているのは、
とても難しい、あまり聞いたことがなく、
当時の医学では原因も
治療方法もわからない病気だった。
突然のように
発作を起こし、
体が硬直し、よだれを流す父の姿。
その瞬間は父は人間ではないように思え、
見ることが嫌で
逃げたいほど、
いつも悲しい気持ちになっていた。
隠せ、人には話すな。
いつしか、そんな感情を抱いていたのは
おそらく祖母や母からも
そのようなことを何度も聞かされていたからもしれない。
だが、なぜ、隠さなければならないのか、
幼い私には理解できていなかった。
原爆のあった広島という地で
被爆者であることから、その事実を隠してきたという
過去が、祖母や母をそうさせていたのかも知れない。
幼い頃
小学校に入り、
学校で担任の先生から父の仕事を聞いてくる宿題があった。
祖母に何をしているのか聞いたが
子供はそんなことを知る必要はないと
教えてくれなかった。
母には、聞くことができず、
学校の宿題なのにそれ以上は聞くことができず
学校では宿題を忘れたことにした。
自分は不幸な家に生まれた。
人とは違う運命を背負っている。
誰にも聞いてはいけない。
小さいころから、その思いが私を閉じ込めていたのでは
ないかと思う。
当時、今では考えらないほど古い、それでも大きな家に
私は住んでいた。
祖母から聞いた話では、戦前、戦時中には広い家だったので、自分たちは
2階に住み、1階は、軍人に貸していたらしく、
そのため、どこか、壊れても、軍人の方がすぐに修理をしてくれた
そうだ。
ところが戦後、家族だけになると、
物資がない時だったので、親族や知り合いの人に騙されて、
家の中にあった高価なものが
随分と盗まれたそうだ。
ずっと後に聞いた話では、実は実家は曽祖父さんの頃は
かなりの豪邸と土地をたくさん持っていたそうだ。
曽祖父さんは、この家の実子ではなく、
養子だったそうで、その人が酒飲みで
かなりの借金で、ほとんどの土地をなくしたようで、
ほぼ今残っているのが、辛うじて残った土地だったそうだ。
母の話では、この家は、何度も養子をとっていたそうだ。
広大の土地を持っていたにしては、疑問はたくさんあるが、
もしかして、大正時代より前で、名前を売ったのでは
ないかと、ある人が言った。そんな時代があったそうで
戸籍では過去が分からず、寺の過去帳でも探すことができず、
それでも、100年以上前には現在の家があるのは
そうなのかもしれないと思う。
そんなことは当時は知らず、
その当時は、他人の目には、みすぼらしい、惨めな家だった。
まわりの家と比べて
ひときわ汚らしい家。
少なくとも私はそんな感情を抱いていた。
だから、外から、家に帰る時には
小学校になってからは、
自分がそこに住んでいることは
友達には知られないように
あたりを見回してから
玄関に入る、そんな子供だった。
私の知らない父は、若くして、どんな資格かわかならいが
県では一番の資格を持っていたそうだ。
地域の青年団の中心で、野球が大好きだったそうだ。
病気で父は変わったのだと思う。
父に代わり母は昼間は仕事で家にはいなかった。
小さい頃、たぶん2歳か3歳のころ、
姉はおそらく保育園に行っており、
その間、祖母が私の面倒をみていた。
祖母はおそらく、父の病気のことに責任を感じていたのか、
それとも母に遠慮していたのか、
私の前では、あまり、多くを話さない人だった。
だからなのか、余計に
そんな幼少時代は
とても暗い部屋の中でひとりでじっと閉じこもっていたような
感じがする。
あの頃、この家が大嫌いだった。
でも、一番嫌いだったのは、自分自身だったのかもしれない。
もう記憶のかけらも少し残っているだけで
小さい頃を思い出そうとすると、
なぜか、苦しい感じを抱くのはそのためなのかもしれない。
父が遠縁の親戚の方の会社で手伝いをしていたということ
を知ったのは、中学を過ぎた頃、仏壇で理由はわからないが、
祖母が泣いている時に、何気なしに
話してくれた。
祖母の夫は早くに死に、女手1人で4人の子供を育てていたので
いろんな人生があったのだと思う。
幼少の頃、母や祖母に何かを聞きたいということが
できない、そんな雰囲気をある家族だったのでは
ないかと思う。
そして、父に対しては、私の中では、居ても、いなくても、
話をすることもない、空気のような存在だった。
そんな私が、何ができるのか、
滅んでいく家、呪われた実家。
幼い頃は、そんなことを思い、とても怖かった。
親友と言われる友達もなく、小学校になっても
みんなの中に入らないおとなしい子どもだった。
そのせいか、母や祖母に何か、話をすることもなく、
自転車を買ってほしいということができず、
小学校5年に夏になり、ようやく、祖母に自転車を買ってもらった。
まだ、ころがついていて、それでも楽しく一人で遊んでいた。
だが、同じクラスの人が、「まだ、コロをつけているの?」と言われ
私は、それから、自転車を乗らなくなり、今でも
自転車を乗ることができなくなった。
祖母が亡くなり、その半年で父が亡くなった。
私は、父は、空気のような存在と思っていたが、
葬式で大きな声を出していた。
父の若い頃を知らないが、父の遺体を見た時に
自分が涙を流していることに驚いた。
父はまるで自分の中での汚点のように
人に知られたくない
隠しておく存在だった。
父は病気だった。
それが、どんな病名なのか、
不思議なことに
今でもはっきりとわからない。
母も祖母も頭の病気だと言い、
病名は覚えていないようだった。
わかっているのは、
とても難しい、あまり聞いたことがなく、
当時の医学では原因も
治療方法もわからない病気だった。
突然のように
発作を起こし、
体が硬直し、よだれを流す父の姿。
その瞬間は父は人間ではないように思え、
見ることが嫌で
逃げたいほど、
いつも悲しい気持ちになっていた。
隠せ、人には話すな。
いつしか、そんな感情を抱いていたのは
おそらく祖母や母からも
そのようなことを何度も聞かされていたからもしれない。
だが、なぜ、隠さなければならないのか、
幼い私には理解できていなかった。
原爆のあった広島という地で
被爆者であることから、その事実を隠してきたという
過去が、祖母や母をそうさせていたのかも知れない。
幼い頃
小学校に入り、
学校で担任の先生から父の仕事を聞いてくる宿題があった。
祖母に何をしているのか聞いたが
子供はそんなことを知る必要はないと
教えてくれなかった。
母には、聞くことができず、
学校の宿題なのにそれ以上は聞くことができず
学校では宿題を忘れたことにした。
自分は不幸な家に生まれた。
人とは違う運命を背負っている。
誰にも聞いてはいけない。
小さいころから、その思いが私を閉じ込めていたのでは
ないかと思う。
当時、今では考えらないほど古い、それでも大きな家に
私は住んでいた。
祖母から聞いた話では、戦前、戦時中には広い家だったので、自分たちは
2階に住み、1階は、軍人に貸していたらしく、
そのため、どこか、壊れても、軍人の方がすぐに修理をしてくれた
そうだ。
ところが戦後、家族だけになると、
物資がない時だったので、親族や知り合いの人に騙されて、
家の中にあった高価なものが
随分と盗まれたそうだ。
ずっと後に聞いた話では、実は実家は曽祖父さんの頃は
かなりの豪邸と土地をたくさん持っていたそうだ。
曽祖父さんは、この家の実子ではなく、
養子だったそうで、その人が酒飲みで
かなりの借金で、ほとんどの土地をなくしたようで、
ほぼ今残っているのが、辛うじて残った土地だったそうだ。
母の話では、この家は、何度も養子をとっていたそうだ。
広大の土地を持っていたにしては、疑問はたくさんあるが、
もしかして、大正時代より前で、名前を売ったのでは
ないかと、ある人が言った。そんな時代があったそうで
戸籍では過去が分からず、寺の過去帳でも探すことができず、
それでも、100年以上前には現在の家があるのは
そうなのかもしれないと思う。
そんなことは当時は知らず、
その当時は、他人の目には、みすぼらしい、惨めな家だった。
まわりの家と比べて
ひときわ汚らしい家。
少なくとも私はそんな感情を抱いていた。
だから、外から、家に帰る時には
小学校になってからは、
自分がそこに住んでいることは
友達には知られないように
あたりを見回してから
玄関に入る、そんな子供だった。
私の知らない父は、若くして、どんな資格かわかならいが
県では一番の資格を持っていたそうだ。
地域の青年団の中心で、野球が大好きだったそうだ。
病気で父は変わったのだと思う。
父に代わり母は昼間は仕事で家にはいなかった。
小さい頃、たぶん2歳か3歳のころ、
姉はおそらく保育園に行っており、
その間、祖母が私の面倒をみていた。
祖母はおそらく、父の病気のことに責任を感じていたのか、
それとも母に遠慮していたのか、
私の前では、あまり、多くを話さない人だった。
だからなのか、余計に
そんな幼少時代は
とても暗い部屋の中でひとりでじっと閉じこもっていたような
感じがする。
あの頃、この家が大嫌いだった。
でも、一番嫌いだったのは、自分自身だったのかもしれない。
もう記憶のかけらも少し残っているだけで
小さい頃を思い出そうとすると、
なぜか、苦しい感じを抱くのはそのためなのかもしれない。
父が遠縁の親戚の方の会社で手伝いをしていたということ
を知ったのは、中学を過ぎた頃、仏壇で理由はわからないが、
祖母が泣いている時に、何気なしに
話してくれた。
祖母の夫は早くに死に、女手1人で4人の子供を育てていたので
いろんな人生があったのだと思う。
幼少の頃、母や祖母に何かを聞きたいということが
できない、そんな雰囲気をある家族だったのでは
ないかと思う。
そして、父に対しては、私の中では、居ても、いなくても、
話をすることもない、空気のような存在だった。
そんな私が、何ができるのか、
滅んでいく家、呪われた実家。
幼い頃は、そんなことを思い、とても怖かった。
親友と言われる友達もなく、小学校になっても
みんなの中に入らないおとなしい子どもだった。
そのせいか、母や祖母に何か、話をすることもなく、
自転車を買ってほしいということができず、
小学校5年に夏になり、ようやく、祖母に自転車を買ってもらった。
まだ、ころがついていて、それでも楽しく一人で遊んでいた。
だが、同じクラスの人が、「まだ、コロをつけているの?」と言われ
私は、それから、自転車を乗らなくなり、今でも
自転車を乗ることができなくなった。
祖母が亡くなり、その半年で父が亡くなった。
私は、父は、空気のような存在と思っていたが、
葬式で大きな声を出していた。
父の若い頃を知らないが、父の遺体を見た時に
自分が涙を流していることに驚いた。
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