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2013年4月 アーカイブ

2013年4月18日 19時55分30秒 (Thu)

仲蔵と淀五郎と。

熊谷先輩が卒業された。二学年下の我々にも謙虚で遠慮深い先輩であった。
私にとっては創部者の平山先輩や三木先輩に感じる印象とはまた違った感触の存在である。大人な態度できちんとした噺をきちんと稽古するということにおいて、先輩よりも秀でた部員はなかなか出てくるまい。
高校からの入部でも、いきなり志ん生風の火焔太鼓や二十四孝を披露しようという人がいるだろうか。
熊谷先輩が入部されたころ、創部メンバーが高校二年になり、本格的とは言えないまでも徐々に受験モード。三学年も飛んで部長業やらなにやらを引き渡され、正直なところ私には手にあまることが多すぎた時期だった。サークル管理部の高校生は容赦なく私の提出した予算を削っていき、中学二年だから馬鹿にしやがってという思いをいだいたこともある。思い出すとかなりめちゃくちゃな予算案だったけれど。
その頃の私は落語を楽しむという活動よりも、事務的なことや部長としての振る舞いをどうしようかと考える事に時間をかけて、なんだか部活も楽しくはなくなっていた。加えて悪い事に「いま楽しくないのは人に指図する側の孤独なのだ」と思い込み、級友に対しても他人行儀な態度をとってカッコつけていたのである。
要するに、純粋に部活に通って楽しむことを見失いかけていたのだ。中二ぐらいの私は。
でも、その間に熊谷先輩は本格的な古典落語を演じてみせ、部員たちの間での評価はうなぎ上り。本格保守本流、古典芸能と呼ぶに相応しい立派な先輩として記憶されていったのであった。
私はあせって文化祭であの大作「らくだ」をやってみたが、どうみても雑な稽古の上の準備不足。小三治調と談志調と可楽調のハイブリッドで、それぞれがそれぞれの長所を潰し合ってしまった。そもそも再現すらできていないという問題があるのだが。クラスの催し物のリーダーも無理をして並行した結果、思うようなことができなかったのだと思う。キャパシティを超えたことに挑戦して、駄目だった。
文化祭での先輩のネタはあの「火焔太鼓」。夏期合宿の間もコツコツ稽古に励み、見事な芸に仕上がっていた。
なんだか、もう私はそれに圧倒されしまった。
そして圧倒されたまま次の年になると、先輩は五代目三遊亭円楽調の「中村仲蔵」をやることになったという。私は八代目三笑亭可楽風な「三方一両損」を用意した。
覚えるには覚えたが、私は可楽のコピーに向いていなかったらしい。舌たらずで独特の『チェッ』という音が混じる可楽の芸は、後天的なものではなく、先天的にそなわった魅力なわけで、そういうことができないなら、あんな早口で省略された「三方一両損」は合わない。そういうことを気にしないで、自分のお気に入りだから上手くいくだろうという了見でやってみた。
まあ、プロじゃないんだから、噺を覚えてやれればいいじゃんと、そう言うかもしれないが、やはり上手くやりたかった。
先輩は声に独特のはりがあり、歌舞伎役者の演技のような少々クサいものも吸収してしまっていた。この年も素晴らしかった。

古典落語にはやはり噺の格はある。中でも人情噺はなかなか敷居が高い。
「中村仲蔵」は畏れ多くてできそうもないな、と思っていた。
もし、古典芸能部にあのような堅い噺ができる部員がいるとすれば熊谷先輩の他にはいなかったのである。
部員全員のコンセンサスではないのかもしれないけれど、熊谷先輩に「真面目な古典」が似合うのだという空気があった。事実そうだったが、やはり私は先輩が「粗忽長屋」のような落語独特のあり得ないほどの狂気や、あるいは「黄金餅」のグロテスクな笑いを文化祭の高座でどう演じるのかを見ておきたかったという気持ちもある。
私は先輩ほど真面目に稽古をしたことはないし、これからそうできるかどうかも自信はない。私にあそこまで後輩を圧倒できるのか?いやできまい。
とまれ、私個人の思い出として、やはり合宿所で黙々と稽古を積む先輩の姿というのは、あの「中村仲蔵」で一心不乱に努力する仲蔵とどこか重なるのだった。その印象こそが「真面目で謙虚な先輩」というイメージをより濃くうかびあがらせてくるのである。

さて、先輩の送別会をしようということになって、私は「淀五郎」をやることにした。
仲蔵の続編であり、迷える後輩を救う成長した仲蔵が登場する。川崎先生には一年以上まえからやってみてはどうか、という提案があったものの、なんとなく噺の重さが気になってやる気になれなかった。しかし、この機会を逃したら、もう「淀五郎」を演じる意味がなくなってしまう。後輩として、この噺を先輩の前で披露しない訳にはいかなかった。
我々を未熟な淀五郎と設定し、卒業される先輩を仲蔵とするという、まあ臭いといえばそれでおしまいなのだが、そういうドラマチックな演出を行うべき時だったのだと思う。空気を読まずに関係ない噺はできないし、やはり落語をやる部活の送別会は落語でメッセージを伝えるべきである。

私はとりあえず三遊亭圓生の音源と映像をみてみた。
六代目圓生は余談や閑話が多いほど、本質のようなものに迫れる、という希有な人であると思う。
なるほど噺を刈り込む作業は難しいし、それができる落語家は優秀だ。その一方で情報量が多く冗長になりがちなものをダイジェストでやった方がそのまま伝えるより楽であるとも捉えられよう。
だから「省略の美学」の反対側には「冗長の美学」だってあるだろう、と私は思う。
ずっと前に「御神酒徳利」で桂三木助と三遊亭圓生の聴き比べをした、という文章を書いたけれども、その時は「圓生は江戸のことなんか知らない人でも解るようにと馬喰町にある旅籠が葵の徳利を拝領したいきさつを一分かかって話し、三木助は『どういうわけか御拝領になりました』の一言で省略してしまっています」と書いた。そして私は圓生より三木助の方がさっぱりとした聞き心地がしてよろしいのだ、というような事を書いた。
三木助のさっぱりとした(なにをもってこう言えるのかというと『そう聞こえるから』としか言いようがない)イメージと「御神酒徳利」の善六さんのキャラクターが重なるから、やっぱり今でも「御神酒徳利」の勝負だったら三木助をとりたい。けれども、その一方であの時感想を書いた私は「省略の美学」という感覚はあっても「冗長の美学」には気づけていなかった。
つまり歌舞伎についての蘊蓄を場面の間ごとに挟む必要がある「中村仲蔵」のような噺は圓生のような大名人にしか扱えないものであろう。「淀五郎」もそうだ。
ある程度のコツさえ掴めば、素人にも長い話を短くまとめることはできるが、たぶん長い話を長いままやって聴き手を退屈させないようにすることはなかなかできまい。そしてそれが志ん生の仲蔵と圓生の仲蔵は雰囲気がまるで違うということにも繋がってくるのであろう。どちらの道も中途半端ではいけないし、両方の陣営があるからこそ、落語が成り立っているのだろう。
とにかく、私は大圓生のモノマネをベースにして簡易版の「淀五郎」をこさえてみることにしたのだが、もう少し別のものも聴いてみた。

次に私が選んだのはあの立川談志の「淀五郎」。彼の録音に「淀五郎」があるのがちょっと意外だった。
CDの録音で談志は一龍斎貞丈から教わったという別の「淀五郎」をやっていた。講釈好きの彼だから、あえて圓生に教わらなかったのかもしれない。講釈というのもいろいろあるようで、談志のものを聴くかぎりでは、落語というべきだった。
歌舞伎についての蘊蓄を語る様子は、圓生より端折ってあって情報量よりもリズム感覚を重視したような気がする。団蔵のいじめや、仲蔵の助け船をだすところに力を入れていたように思えるのだ。
そしてそのキャラクターの描き方が圓生のものと決定的に違っていて、私はこの噺の問題点に気づいたのである。
談志の団蔵は圓生よりももっと手厳しいが大人である。談志の仲蔵は圓生よりもっと親切である。そしてもっとも重要なことなのだが、談志の淀五郎は圓生よりもっと物を考えている。
噺のなかで微妙に登場人物のとる行動が変わっているのだ。
淀五郎に対して団蔵は「てめえで考えて、てめえでこさえてみろ」と言う。意味不明で具体的なことを言ってくれない団蔵に淀五郎は反感を持つのだが、若さの所為か、自分で考えたこと以外は身に付かないのだというメッセージを見逃してしまう。圓生の団蔵はただ厳しく突き放してしまう、談志の団蔵は圓生のものより言葉遣いが刺々しいが、ちゃんと「自分で考えてみろ」ということを言っているのである。
教わる側が未熟なために教える側の想いを受け取り切れないことはよくある。若くて落ち着きのない淀五郎は思い込みの激しいちょっとアブない奴で、そのことは舞台の上で師匠を殺してしまおうという過激で単純なことをしようとするところからも判断できよう。
だが、教える側は肝心なメッセージは言うべきだ。談志に比べれば、圓生の団蔵という人は適当に怒って丸投げしてしまったようにもとれる。意地悪なことを言って追いつめれば、なにくそと頑張れる奴と見越していたのかもしれないが、淀五郎はそんなに大人ではないのだ。
そのあと圓生は手取り足取りいちいち具体的な回答を与える仲蔵を登場させて、正解を考える間もなく、ひょいと模範解を渡してしまったのである。
たしかに淀五郎の技術は向上したのかもしれないが、人間的にはまったく成長していない。苦労して五段目の斧定九郎を自分の手で作り上げたはずの仲蔵が、どうしてそんなことにも気づけなかったのだろうか。別の役でまた淀五郎は失敗し、そのたびに仲蔵へ泣きつけば良いと考えるような人間になってしまったら、それは仲蔵の責任だろう。
談志の方の仲蔵はというと「それはあたしでも行かない」とだけ言うが、具体的にどうこうしろとは指示しない。ただ淀五郎にヒントを与えて「自分で考えて」と言うのだ。そうして彼はついに仲蔵のヒントから団蔵から出された「肩で断っている」という問題を自力で解くことに成功したのである。

人を成長させるために、周りの人はどんな役回りを演じることが大切なのだろうか。私は時に大人はその人間に超えられるための壁になってやり、一緒に考えてやる同志になってやる必要があるのだと思う。飴と鞭を交互に出せば良いという大人に囲まれて育った人は、きっと心の器は幼児のころとさして変わることはないだろう。
圓生の淀五郎は素晴らしい。素晴らしいけれども、人間の成長物語では無い。
団蔵は怖い顔をして無茶を言うだけの人で、仲蔵は優しいだけの人だ。淀五郎は団蔵が怖いから優しい仲蔵に逃避して、その場しのぎの小手先を身につけただけになってしまったのではないか。いい大人が父親をおそれて母親に泣きつく子供と変わっていない。
淀五郎を成長させたのは談志が一龍斎貞丈から教わったと言う噺なのだろう。

今回の送別会の企画では先輩を仲蔵に、私(たち)を淀五郎に仮託する予定であったのだが、なんだかこんな事を考えたら、私はどんな淀五郎なのだろうか、と考えてしまった。
個人的な体験をいくつか思い出し、私はいつも厳しいことを言う人を悪人にしたてあげて、褒めてくれる人を善人だと思ってきたのではないのか、と思った。師匠を刺し殺す空想を膨らませて勝手に熱くなっている淀五郎とまったく同じだったのか。
褒めてくれる人にもっと褒めてもらおうとするということは、起こらない。
実際は褒めてくれる人に依存して、そのぬるま湯から成長しないのだ。
周りの人間の優しさも、厳しさも、その裏にある想いを汲み取らずに生きていなければ、それは学んでいる状態とは程遠いのかもしれない。だとしたら、私は熊谷先輩だけではなく、今まで出会った人から何も学び取れていなかったのかもしれなかったことに気づくのだ。
どうしたものか。

先輩方、新学期が始まりました。

今度こそ、私は別の淀五郎を、そんな気持ちがいつまで持つかはわかりませんが、とにかくなんとかやってみようと思います。なんとかなるかどうか、私には自分が成長した、という実感がなかなかわきませんので、自分じゃあ確かめようが無いんですが、もうちょっと器の大きな人になりたいと、そう思っています。

海原亭創雲

2013年4月4日 14時45分07秒 (Thu)

第二回送別寄席開催(圓両師引退記念興行)

第二回送別寄席開催(圓両師引退記念興行) 4日、昨年に引き続き、3月で卒業した部員の送別寄席を行いました。
 今回の卒業生は、約30名の部員を数える当部にあって、当該学年でただ一人の部員であり、高校部長を務めた海原亭圓両こと熊谷亮太さんです。
 今日の寄席のプログラムは、翔太郎(ん廻し)、箒(自作落語。本日初高座!)、圓創(火焔太鼓)、イソギンチャク(コント)、奇座平(ケンダマンダン)とならび、最後は歌舞伎役者「中村仲蔵」由来の落語二題で、新旧部長が熱演しました。
中村仲蔵(圓両・写真)、淀五郎(創雲)です。二人は、この競演のために大変な稽古を積んだようです。
 この日は、来月発行の海城学園同窓会誌「海原」の山本満男記者が取材におこしくださいました。
 寄席終了後はセレモニーとなり、まずは一同にて記念撮影。そして圓両“師匠”へ、部員からの報恩色紙と、記念品を贈呈しました。
 最後は「仰げばとおとし」にて散会となりました。
 山本様、種々のご配慮を有難うございました。そして、圓両さん、お疲れ様でした。
 思えば、最多人数を誇る現高2よりも2学年年長であるにもかかわらず、「芸歴」は短いので、と終始、控えめ(遠慮+住まいが両国、で圓両)にされ、しかし、黙々と稽古する姿は、部員の敬服するところであり、後輩はどれだけ師の背中で教えられたことでしょうか。
 新宿歴史博物館での「ムーランルージュ新宿座研究発表」での巧みな進行も忘れがたいところです。
 そして、極めつけはやはり中村仲蔵。いまや、伝説の南総富浦「ぜんべい」での納涼稽古寄席での出来栄え、そして、高3にも関わらず、講堂で行った昨年の海城寄席に賛助出演された際の、そしてこの日の「引退興行」でのそれぞれできのよさ。
いずれも忘れがたく、部員の思い出となっていることでしょう。
 今日で、部活動としては晴れて引退されたわけですが、今後とも後進の指導を宜しくお願いします。お疲れ様でした。

                    (落語担当顧問)

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