楽天市場
[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]

2013年3月 アーカイブ

2013年3月26日 22時59分22秒 (Tue)

紀伊国屋ホールにて駄句駄句会観覧

紀伊国屋ホールにて駄句駄句会観覧25日午後6時半より、新宿東口「紀伊国屋ホール」にて標記の会合を
観覧いたしました。
これは、いつも当部が大変にお世話になっております元参議院議員の野末陳平先生のご招待によるものです。
出演は、野末先生をはじめ、週刊朝日でお馴染みのイラストレーター山藤章二氏(宗匠)、作家吉川潮氏、放送作家高田文夫氏、立川左談次師匠、林家たい平師匠、松尾貴史氏らです。
まずは、たい平師匠の「粗忽長屋」からスタート。松尾貴史氏のトーク、左談次師匠の「町内の若い衆」でお仲入り(皆さんの素晴らしい話芸を堪能しました。とりわけ、編集子には左談次師の軽妙洒脱さがたまらなく魅力的です。
後半は句会。印象的だったのは、「春の雨 先代馬生の 楽屋入り」でした。
墨絵の芸といわれた馬生師の風情がでていてしみじみよい句だと思ったのですが、
山藤宗匠にかかるとケチョンケチョン。曰く、「乙に澄ますな、洒脱に」ということなのでしょうか。
結果、宗匠の実力で、山藤先生が優勝。われらが野末先生は、会場を爆笑の渦に巻き込み、部員一同、うれしくなりました。とりわけ、和座副部長は、野末先生の観客をひっくり返す実力と貫禄に感じ入っていました。
終演後、野末先生が客席の我々のもとへお越しくださり、しばし歓談。そこへ、たい平師匠が立ち寄られ、記念撮影に応じてくださいました。
なお、この駄句駄句会の句集がこのたび、講談社から発行され、文字通り、抱腹絶倒の書です。ご一読をお勧めいたします。
野末先生、たい平師匠、誠に有難うございました。

                      (落語担当顧問)

2013年3月26日 22時46分11秒 (Tue)

部誌「河童狸」第4号&海原亭創雲落語エッセイ集①刊行

部誌「河童狸」第4号&海原亭創雲落語エッセイ集①刊行昨年11月末刊行予定であった部誌「河童狸」第四号。
諸般の事情から、漸く3月22日に刊行できました。
今号から、編集長は山口将知氏(未亭兼生)が登場。
フレッシュな誌面となっています。
今号は、東宝キャメラマンであった友成達雄氏伝や黒澤明「姿三四郎」外伝
(いずれも友成哲久仁氏に取材したもの)、芝学園様&浦和高校様との三校連合結成、百人町児童館での初の出前寄席顛末記、編集長の(先代)快楽亭ブラック伝、
海原亭創雲部長による連載落語エッセイなどバラエティにとんだ構成となっています。
また、部長の連載エッセイ(15回分)をまとめた落語エッセイ①を増刊号として刊行いたしました。
ともに4月7日以降に、本校スタディホールでご覧いただけます。
ご興味のある方は御来校の折りにご覧になってみてください。

              (落語担当顧問)

2013年3月11日 22時06分27秒 (Mon)

能楽稽古鑑賞~表参道・銕仙会能楽研修所にて~

能楽稽古鑑賞~表参道・銕仙会能楽研修所にて~こんばんは、海原亭圓創こと育成部長の德田です。

さて、早速ですが
本日古典芸能部内の有志6人で、表参道の銕仙会能楽研修所にて
当校の音楽科の鈴木先生(本日参加の高一6名は中学校の時にお世話になりました)がお稽古を公開してくださるとのことで、銕仙会のお稽古場にお邪魔し見学させていただきました。

表参道の駅を出てすぐカルティエの向かいでしたが、中に入り上がると、そこにはテレビや授業で見たことのある能の舞台と客席が!我々は正面に陣取り鑑賞。

先生がお稽古なさった演目は「隅田川」
銕仙会の方にいただいた資料の言葉を引用すれば「旅路の果てに、我が子の死を知る母の悲しみ」

1時間に及ぶお稽古中は鈴木先生と師範の方による二人で行われ、静寂の中、お二人の台詞の声、台を叩く音、足踏みの音が響き渡りました。

以下参加部員の感想です。
平嶋「殆どの学生同様私も能を、ましてやその練習風景を拝見させて戴くことなど生まれて始めてで、貴重な機会でしたので、とても良い経験だったと感動しております。
テレビ越しの其れとは全く違い、演者が発する一言一言により空気が震えるという迫力を存分に味わえました。少し難解な内容でしたが、今回の「隅田川」の内容が概ね理解できるようになるくらいまで、能に関する見地を深めたいと思いました。鈴木先生、貴重な体験を有り難うございました。」

菅野「とても『重い』話でした。親子の別れの悲しみを、心から表現されているように
感じました。事前にいただいた粗筋のお陰で、話に付いていくことも出来ました。
お稽古をこんなに間近で鑑賞出来る機会は普通ないと思います。貴重な機会をく
ださってありがとうございました。」

池上「稽古という名目でも、能舞台での実際の能は初めて見ました。始めから終わりにかけてだんだんと、穏やかだけれどメリハリのある能の世界(僕はそう感じました)に引き込まれて行きました。とても楽しめて、良い経験になりました。」

島貫「鈴木先生と師範の方の声に圧倒された。本物を肌で感じ、我々にも参考になる点が多数あった。大変、貴重な体験だった。ありがとうございました。」

市原「能は今日が初めてでドキドキでしたが、事前にプリントを頂いたお蔭か内容もわかりやすく非常に面白かったです。伝統芸能の持つ独特の空気感が非常に興味深く、また見たいと思いました。こういう刺激を受けるとこれを落語にできないかな?等新たな関心が湧くので、今後とも様々な日本の芸能に触れていきたく感じます」

僕も彼ら同様、貴重な体験が出来たと思いました。
自分も生まれて初めての生の能でして、演目の内容(粗筋)と演じられている能の場面を頭の中で合わせる作業が一部大変でしたが、幼子の梅若丸が自分の素性(吉田何某の子だ...など)を伝える場面では鈴木先生と師範の方のお声に、鬼気迫るものを感じました。

今後も折に触れて能に触れていこうと思います。
鈴木先生を始め、銕仙会の皆様、本日は貴重な経験をさせていただきありがとうございました!

文責 德田

2013年3月11日 21時05分27秒 (Mon)

出張寄席at品川 ~荏原文化センター90分!~

出張寄席at品川 ~荏原文化センター90分!~少しお久しぶりになりますね!
海城古典芸能育成部長の圓創でございます。

一昨日3月9日、品川の荏原文化センター祭りの一環として海城芝(浦和は都合により今回欠席)で出張寄席をしてきました。
与えられた時間は90分、寄席出演者は以下の通り。
①連鶴 小噺
②創太 道具屋
③Hey!毛蟹 漫才
④奇座平 寿限無
⑤イソギンチャク 漫才
⑥圓創 反対俥
⑦粗志 金明竹
⑧創雲 こんにゃく問答
⑨クロージングセレモニー

開演前に二校でセンター前へ内部で呼び込み。
芝の法被を着て呼び込みをする海城の翔太郎の姿も。まさに共同事業!
開演後はお客さんの入りも上々。それもそのはず、落語前にはNPO法人主催の人形劇があり、お客さんの何人かが残って落語も見てくださいました。
当日の午後のホールはこの二本立てでした!

開口一番は芝の中1三緑亭連鶴さん、続いて海城の海原亭創太・・・と上の番組表の通り進んでいきました。久々の上演の場でも皆さん仕上げてきてくれました。
(僕が出番直前で鼻血を出して順番が変わるみたいなアクシデントとかはあったんですけどね・・・)

終始和やかなムードの中、お客様にも満足いただけた(かな?)ようですが、これもセンター、関係者の皆様の全面協力の下です、ありがとうございました!

さて、これが三派連合の活動第2弾です!
初の外部共同事業ということで、次回以降の活動にも幅が出来たと自負しております!

活動次第直ぐにこのHPにアップしたいと思いますので、今後ともよろしく思います!

海城 海原亭圓創

2013年3月11日 14時27分06秒 (Mon)

浜野矩随について思ったこと

 お休みになりますと、真っ白な部屋の壁をみつめてブツブツ言っているうちに、いつのまにか一時間や悪いときには四五時間、とりとめのない妄想がひろがっていきますねえ。
最後まで読了せずにどんどん新しい本をちょっとずつ読んでみたり、同じ一節を繰り返し繰り返し反すうしてみたり、関連のあるテーマの本を並べてみたりと、出鱈目な読書をしてはそれがまた妄想の肥やしになり。
これが妄想の肥やしになっても生きる肥やしにはちっともならず、妄想は妄想でしばらく捏ね回しているとなんとなく自然消滅していき、要するに時間のムダ遣いも甚だしい。
ともかく、学校できちんきちんと勉強して、しっかりテストで点を稼いだほうがいいですね。あと、運動したり、友達と遊んだり。でも、こういう時にならんとブログを書く気もちにならないという。
芸術家気取りの自分語りかと思いきや、新しい記事を書かない言い訳をしているのです。ああ弱った弱った。

芸術家、というかアーティストって言うんでしょうか、最近は。なんでしょうねえこのアーティストっていう言葉は。テレビで何かを作ってる人はすぐに「アーティスト」として紹介されるけれども、僕はこういうのを聞くとなんかこうイラッときます。英語の「artist」に怒っているのではなく、日本語に「アーティスト」という語彙が追加され、拡散し、確実に市民権を獲得していく様子が気持ち悪いのであります。
そもそもこれはどういう意図で使われるのでしょうか。「芸術家」が横文字になったんだよって言うかもしれませんが、絶対にこれは明治に入ってできたartistの訳語なので始めにartistありきと言う事を考えれば「芸術家」の横文字版という解答は本質に迫ったものではありませんし、この謎の「アーティスト」という言葉の意味合いを捉えたものになっていません。
なにかを表現する人ということでしょうか。
自分を表現する手段として何かを創作するのなら、程度の差や出来映えの差はあれ、みんなやっていると思われます。例えば日常会話にしても喋るという行為を「音声をつかって文を創作し、相手に自分の意図を主張する」という事と見なせば、それはもう「創作活動」なのではないでしょうか。
なかでもそれを仕事にして売れていたり、注目されていたりする人だけを「アーティスト」というのは妙な気がします。
これをどんどん拡張してみると行き着く先は「一億総アーティスト現象」ではないのか?いや、実際そうなのではないか?
チラシの裏に書いてりゃあいい文章を誰に頼まれる訳でもなくブログにアップしている僕だってもうアーティスト気取りもいいところです、自分で書いていて反吐が出そうになる。こんなもん書いてどうなるんだよ、と自分にツッコミをいれつつも書くわけです。
「アーティスト」を気軽に使えるようになって、何かを作ってみたり、何かを書いてみたりする事に対する抵抗感を薄めてしまったのではないでしょうか。それはこの事態に違和感を感じている僕の中でもおこっている現象です。
元々の日本語の世界には「表現」や「創作」なんていう言葉はあったのだろうか。その辺は国文科の先生に聞いてみるとしても、ものを作ることはその作り手による何かしらの意図を表現する行為だという認識は「江戸の風」はあんまり吹いていない気がしてきました。
さて、ここまで来ると日本に英語の外来種がやってきて、ブラックバスのごとくもともとあった生態系を作り替えてしまって、その跡地こそが「一億総アーティスト現象」とでもいう事態を引き起こしているのじゃないかという空想が僕のなかで生まれてくるのです。
artの対義語はnatureですけど、要するにこれは人工と天然といったところでしょうか。人間は理性を持った生き物で、それが自然にある素材からなにかを作ってやることがartにまつわる諸々の行為に流れる思想でしょう。
そこから「私」という主体に対するいろいろな客体に主体から働きかけ、なにかをしてやることができるのだ、という人間の自惚れのような感情も芽生えるのだと思います。それがカタカナの「アーティスト」となり、平成の世を跋扈しているのであります。なにをしようがもう「表現」だ「創作」だと言われて権威を与えられる世界があるのです。
しかし、維新も間もないころの明治人が作ったであろう「芸術家」というのは「芸」や「術」を持った人のことを指すのでして、そんな意図があまり感じられませんね。アメリカ人がジャパニーズの素晴らしい作品だというボストン美術館にある日本画の作者は「絵師」ですが自分を「アーティスト」だと思っていたのでしょうか。彼らの認識の中での彼らの属性とは、手に職を身につけた一介の職人に過ぎないのです。過ぎない、というか「art」の概念が理解や常識の外にあったのではないでしょうか。
もともと日本人はそんなに作ったもののかたちを固定することに拘らない文化です。自分の作ったものは確かに誇らしいけれど、所行無常、いつかは消えてしまうさ、という考えがあったような気がします。作り手の技は技ですし、その人に成り代わるものは無いのだ、という考えが薄いのです。作った人がえらいんじゃなくて、作った人の身につけた技がすごいんだ、と考えたりするのですね。
たとえば伊勢神宮。あれは定期的に立て直しを繰り返す存在ですけれども、建て直しの際の大工の棟梁が取りたてて褒められる訳じゃない。なぜならあれは毎回毎回同じ山の木材で同じ工法で同じ設計図をつかって立て直すからです。その技術を身につけた宮大工は偉いけれど、もっとすごいのはその技術そのものなのです。
それと第二次世界大戦中の話も挙げましょう。フランスはドイツの猛攻に対してパリで決戦をしようという話が持ち上がったとき、何百年もかけて作られた歴史的な都市を破壊するのは未来のフランス人の損失である、としてあっさり無血開城をしてしまいます。一方日本ですが、アメリカ軍が上陸してきたときどうしようか、となると東京なんぞとっとと捨てて昭和天皇は長野に籠もり、ゲリラ戦を展開してやろう、という作戦がもちあがってしまうのです。もっとも僕は昭和天皇の御聖断により降伏した結果を否定していませんし、民草が死ぬことを厭わぬ国がその国のアイデンティティを維持できるわけがないのですから、こちらの方がよほど正しいと思っています。フランスの場合はまだ戦える状態であったのに対し、日本の場合は戦えるだけの力はなかったのですし、そこは比較するときに注意が必要だと思います。
話が脱線気味ですね。

さて、ここまでは前置きです。そろそろ落語の話をしましょう(そうですこれは落語のコラムなんですよ!)。
正月に僕は「立川志の輔inパルコ」に出かけて、楽しい思いをさせていただきました。新作から古典までみっちり志の輔尽くし。これが今最も手に入りづらいチケットの落語会か、と感心。演劇に適した劇場を最大限に利用し、スポットライトやスライド、現代風の音楽などの効果を取り入れており渋谷のパルコ劇場に相応しい会だと思いました。
「伝統を現代に」の立川流四天王の筆頭である志の輔はやっぱりすごい人だなあと思います。落語のかたちをいろいろに変えて客の興味の惹く、魅力的なショウビジネス(サラリーマン経験もある彼には良くあう言葉だと思います)を成立させているのですから。この人が売れる理由がはっきりとわかる会でした。
狂信的なファンと一種の教祖のように鎮座まします家元の噺を聴く会というような構図の談志ファンの集まり方と違い、志の輔は客に寄り添って解りやすい言葉で語り、もっと純粋に楽しみたいお客を正攻法で拡大させていくような印象をうけました。
会で人情噺「百年目」を聴いた時の感想も書きたいのですが、それは本稿の主題から大きく逸脱するのでまた次の機会。
さて、この会にすっかり感動した僕は帰りがけに映画化された「歓喜の歌」も収録されている2004年志の輔inパルコのDVDを購入しました。
そのなかで我が古典芸能部の部誌の名前の由来にもなっている「浜野矩随」がありました。
腰元彫りの名人の父を持つ主人公浜野矩随、有能な父とは違い彫れども彫れどもまったく成果無し。本人は一生懸命やっているのに回りからは「親父はよかったが息子はだめだ」と言われる。そんな中で唯一相手をしてくれるのは情に厚い若狭屋という商人です。しかしこの若狭屋もある日とうとうしびれを切らして「お前みたいな使えない奴は死ね」と言い放ってしまう。矩随も自殺を考えますが察しの良い母親に引き止められ「別に死んでもいいが、最後に私に形見をくれ」を言われ死ぬ気になって彫り始めます。一方母親は一晩中「南無観世音菩薩南無観世音菩薩」と必死になって神頼み。翌朝になると母親はその完成したものをみて若狭屋に売ってこいと言う。仕方なく売りにいくと若狭屋は見事な出来栄えに感激し「おっかさんの思いが天に通じた」と言う。しかし「出てくる前に水杯をかわした」と解ると大慌て。家に帰ってみると母親は自殺してこと切れており、その日を境に矩随は名人となったのである。
と、細かい部分をだいぶバッサリおとすとこんな具合になります。
ええと、こんなへたくそな要約をするといったいこれが人情噺なのか、そうでないのか、解らないですね。それに、いくらか気になるところが出てきます。
なんで母親は死ななきゃならないのでしょうか。矩随に決死の覚悟で仕事をさせたのはいいとしても、別に死ななくてもいいじゃないか、と。おそらくこの母親は自分の命を天に捧げる代わりに我が子には名人の技が降りてくるような、祈りを捧げた、のでしょう。
これは矩随の努力ではなく、観音様の力によって手に入ったということになってしまいますね。古今亭志ん朝の録音を聴くと「母親は矩随の代わりに」という台詞が入っています。江戸時代の人はこれで納得していたのでしょうな。志ん朝の時代までならそんな具合でもみんな納得していたのでしょう。
でも、もう上手くいきません、みんな納得しませんね。
それは先ほどの「アーティスト」が日本語のなかに浸透したからです。
腰元を彫りの親父が偉大なのは親父が頑張ったからなのです。そして矩随も矩随の努力によって才能を手に入れたのです。技そのものではなく、何かを作る個人を評価しなくてはいけない世の中です。
おっかさんの行動というのは我々の感覚からすればもう奇妙なものに映ってしまいます。
こればかりはもう二度と吹く事のない「江戸の風」かもしれません。
その違和感を志の輔は噺の解釈の変更によって、克服したのです。
なんとおっかさんは志の輔の噺の中では一命をとりとめて死なないのです。それから矩随に「本当は売れないと思って、先に逝こうとしていたんですね」と言わせることによって、息子が自分より先に死ぬのは耐え難いから自殺未遂をしたのだという事にしてしまい、つじつまを上手くあわせています。
これで浜野矩随本人の決死の覚悟が彼自身を変えたというストーリーになります。神頼みをする母親の子を思う気持ち、という要素がすこし薄まり、矩随自信の成長譚として現代の人情話になったのが志の輔による「浜野矩随」なのです。
僕はこの新しい解釈に賛成しますし、これも志の輔のなせる「技」だなと思います。いや、これは志の輔が優れた「アーティスト」だからできたことでしょうか。
と、そんな思いを巡らせていると立川談笑師匠はもっとあたらしいものを考えていたようで。
もうこれは原型をとどめてないような気もいたしますが...。

とまれ、今日はそんなことを壁を眺めて考えておりました。

部長

アクセス数
ページビュー数