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2012年1月 アーカイブ

2012年1月30日 20時11分35秒 (Mon)

緊急部会を招集します

部員の皆さんへ

明日1月31日の12時45分に緊急の部会を招集します(いつもの活動場所にて)。
内容は校外研修ほか,についてです。
明後日から試験の休みになりますので必ず来室してください。
10分程度で終了します。

落語担当顧問

2012年1月15日 19時28分59秒 (Sun)

演歌師にしてミュージシャンの岡大介さんを取材

演歌師にしてミュージシャンの岡大介さんを取材 海城古典芸能部HPをご覧の皆様、あけましておめでとうございます。本年も充実した活動を目指すとともに、このHPもお楽しみ頂ける内容にしていきますのでよろしくお願い申し上げます。
 さて、古典芸能部、新春の校外研修第一弾は、「カンカラ三線(さんしん)」演奏で活躍中の、演歌師にしてミュージシャンである岡大介さんへの芸談取材と公演鑑賞と致しました。
 岡さんとは、既報の通り、昨秋、当部が喜劇俳優の水島敏さんにお招きを頂いた芸術祭参加作品「浅草アチャラカ喜劇」を切っ掛けに知己を得ました。その技芸に感銘を受けた我々は即日、芸談取材を要請。めでたくご快諾を頂戴し、今日を迎えました。
 まず、「カンカラ三線」について紹介いたします。岡さん曰く、「これは元々、太平洋戦争直後の沖縄で生まれた楽器です。当時、米国占領下で、接収を受けたために物資の乏しい中で、せめて音楽は手元に、という人々が、ベッドの木を切って土台とし、パラシュートの生地で弦とし、缶からをつけて楽器としました」とのことです。
 この楽器を引っ提げて八年になる岡さんは現在三十三歳。「明治大正の演歌」と「昭和歌謡」を中心に、フォーク、ブルースなど幅広く演奏し、そして歌われています。ここでご注目願いたいのは、演歌といっても、「明治大正の」演歌ということです。はて、どういうものだろうか、と思われる方もおみえではないでしょうか。例えば、「東京節」をご存知でしょうか。曲名をご存知なくても「ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ、パリコトパナナデフライフライフライ」の歌です、と言えば、「ああ、あの歌ですか」となる方も少なくないでしょう。そう、これが明治大正期の代表的演歌のひとつです。時に諷刺がピリリと効いているのが特徴で、実は、この東京節からして、田尻稲次郎による当時(大正年間)の東京市政(当時は都に非ず、東京市)を諷刺したものになっているのです。ちなみにこの歌の作詞は添田唖蝉坊・さつき(知道)の父子。岡さんによれば、サビのラメチャンタラ~が唖蝉坊作詞とのことです。この唖蝉坊師。演歌師の元祖にして、和製フォーク歌手の始祖と謂うべき人物です。
 さて、この日の取材は、まずは浅草ビューホテルで開始。サッカー少年として過ごされた岡さん。二十歳の時に偶然、吉田拓郎さんのフォークソング「人間なんて」に心惹かれて歌うようになり、
 日本のフォークソングの源流を訪ね訪ねて、辿り着いたのが亜蝉坊師とのこと。
「我が国の父祖伝来の音楽を大切にしたいですね。よく学校の音楽室に音楽家の肖像画が飾ってありますよね。バッハ、ベートーベン、シューベルト、モーツァルト、、、。それはそれで結構なんですが、でも日本の音楽家の肖像画はどうでしょうか。僅かに、滝廉太郎が飾ってあればいい方ではないでしょうか。でも、日本には山田耕筰もいます。私の大好きな中山晋平もいます。中山の曲には野口雨情が素晴らしい詩をつけています。日本の音楽家も枚挙にいとまがないのです。それに何故(洋楽器である)ピアノやオルガンはあるのに笛や太鼓はないのでしょうか。和楽器の素晴らしさは言うまでもないでしょう。こういったことを伝えて行きたいんです」と熱く語る岡さんの目は輝いていました。
 明治大正の演歌は、フォーク歌手のなぎら健壱さんや、故高田渡さんらに教わったそうです。またこの方面に造詣の深い永六輔さんにはTBSラジオ出演の際に、また大家的存在である小沢昭一さんには昨年日本武道館で行われた大正百年イベントでの共演の際に、ともに貴重なアドバイスを頂いたそうです。
「とりあえずの目標は、仕事で招かれて四十七の都道府県に行くことです。現在、約三十です。なかなかやり甲斐があります。その末には、海外に招聘されて自分の歌を披露する、それが夢です」と語る岡さん。その夢は早々に実現するはず、と我々一同、強く思った次第です。
 世に出た演歌師の系譜を思うとき、唖蝉坊、その子息であるさつき(知道)、石田一松(演歌「のんき節」で一世を風靡。それを武器に後に代議士となる)、そしてその次は、となると(フォーク歌手の方々を措くとすれば)一足飛びにこの岡大介さんとなるのです。
「これが自分のものだ、という他人と違う売り物をもつことを強く考えます」と語られた岡さんのメッセージに一同、強い感銘を受けました。
その後、近くのライブハウス「劇亭」に場所を移し、公演を鑑賞いたしました。この日は、アイリッシュバンドの「ジョンジョンフェスティバル」のお三かたとのコラボレーション(写真。後列左から、アニーさん、ジョンさん、岡大介さん、トシバウロンさん、助っ人の田嶋友輔さん)でした。演歌師とアイリッシュバンドとの融合や如何に、と考えるところですが、演歌師であると同時にミュージシャンの顔もお持ちの岡さん。この二面性を柔軟かつ自在に操り、そしてまたジョンジョンフェスティバルの皆さん、助っ人ドラマーの田嶋友輔さんの高い演奏技術とが相俟って、見事に素晴らしいセッションを堪能させてくださいました。
コラボレーション成功のカギは自己の技芸の充実と、柔軟性にあると勉強になりました。
 一人舞台の部では、なんと実に21番まである、唖蝉坊作詞の「金々節」を熱唱されました。この歌詞が実に含蓄に溢れており、これは次号の部誌「河童狸」(3月末刊行予定)で特集を組みたいと考えております。私見ながら、この日の皆さんは、自分たちはこの演奏がしたいんだ、こう演奏せずにはいられないんだ、という感じで、実に楽しく舞台を努めていらっしゃいました。そのケレンや衒いのない舞台に感動しました。
 ともあれ岡さん、今日は一日お付きあい頂きまして誠に有難うございました。本年のご活躍を部員一同、心よりお祈り申し上げます。
                       (落語担当顧問)

2012年1月4日 16時42分23秒 (Wed)

其の拾壱~特別企画第三弾~

第三夜「圓生、圓右、累ヶ淵」

六代目の圓生は筆もたつ噺家だった。立川談志が革命的な落語論を出版してしまったために、あまり注目されていないかもしれない。彼の著作である「寄席育ち」「寄席楽屋帳」「明治の寄席芸人」「寄席切絵図」の四部作は非常に価値の高い文献だ。芸人が本を書くなんておこがましい、というのが常識だった頃にこういったことに挑戦したというのは、彼が類い稀な人物であったからだ。今でこそ噺家は伝統文化の担い手として敬われることになったが、それまではただの「寄席芸」だったであろう。
ホール落語、落語研究会、御前落語、圓生百席など、彼の功績の価値は計り知れない。
正藏か、圓生かということになると私はどうも圓生に傾く。落語の評論を読むと、落語通の間では私の趣味は野暮らしい。
圓生はなんでも出来たが、これという十八番が無いのだという人がいた。確かにそれはあるかもしれない。天皇陛下の御前で演じたという彼の「御神酒徳利」は三木助に比べて鯔背さが不足する。彼の「らくだ」は可楽に比べて省略美に欠けて、彼の「五人廻し」は正藏に比べ素早さが無いと思うが、圓生の落語の雰囲気は独特に深い。
桂歌丸が自分の看板ネタにまでした牡丹灯籠や累ヶ淵の手本は圓生のものだったという。だから、もし下手だったら参考にするだろうか。
落語通たちに不人気でも、彼の芸はあらゆる落語の手本を示す教科書になっているのだと思う。落語の世界が見渡せるような中心にたっていたから、十八番が無いように見えたのである。何故なら十八番とはその芸人の個性を存分に発揮できるものだからだ。しかし、彼が立っていた場所は芸人の個性を寄せ付けない所で、そこに至る努力はやはり凡人には不可能なことなのであったのかというと、それは違う気がする。圓生は個性的な芸をしていた。
実は圓生の個性とは教科書的な「雰囲気」なのではないか。そもそも芸において教科書などは存在しないが、人々はなぜか基準を欲しがってしまう。そうした時に彼の話芸が器用すぎるあまり、教科書のような存在となってしまったのである。これを詰まらないとしてしまう人は多い。
なんとなく、アンチ談志の人が志ん朝を「本寸法」と祭り上げて、談志を非常識な異端児に仕立て上げるのに似ている。志ん朝は「本寸法」でもなんでもなく、江戸前の美学という素晴らしい個性を持っていたのである。
「本寸法」という言葉には正統とか、本流とかいう意味があるが、私は「本寸法」という言葉が乱用されるのは心配である。完成形がある文化は死んでしまっているという事ではないか。私が言いたいのは進歩主義的な軽薄な発想ではなくて、落語という世界から、おのおのが何を引き出し、何を継承していくかを真面目に考えれば、名人と呼ばれる人はみんな面白いということなのだ。先人の模倣だけに従事し自分の手で広げようと努力しない人も、自分を過信して先人の模倣を意識せず無から有を創れると妄信する人も文化の担い手として駄目なのだ。
談志も志ん朝も違う面白さがある。やはり、私は落語そのものが好きだから「個人的な好み」と「面白さの発見」とを別にしたい。
圓生をつまらないと感じるのは好みの問題だと思うが、圓生に工夫が無いという風にまで解釈をするのはもったいないと思うのだ。
圓生に十八番が無いと言われるのは、圓生の茫漠とした落語の世界観に呑まれている証拠であると、私は考えている。
それに、私は彼の技芸だけでなく落語界のなかでの政治的な立ち回りや、落語という文化を隠しきれぬ野心でもって発信しつづけた人生に惹かれてしまうのである。圓生の野心や泥臭い努力を無粋と言いきるのはもったいないと思う。
圓生は当時、埋もれていた「真景累ヶ淵」を発掘した。その仕事は結果的に世間に手本を示すことになった。これは明治の空気を知っている彼の使命であったのだろうか。
圓生百席のインタビューによると、真景累ヶ淵を演じるときに、圓生が頼りにしたのは速記本と二代目の圓朝と言われた三遊亭圓右の記憶ということらしい。この僅かなヒントだけで圓生の「真景累ヶ淵」を構築したのである。
では、圓生が再構築したということになれば「圓朝もの」の歴史というのは、幕末のころに圓朝が夢想した怪談の世界を圓生が発掘したことによって、再出発をしたということにもなるのか。明治と昭和の間には決定的な断絶があり、圓朝の世界観は誰にも味わえないということになるのだろうか。
私はそう思わない。圓朝が演じた怪談そのものには出会えないが、圓生の力量によってその世界は継承されている。パラダイムなどという物に関係なく、幕末に生まれた文化は三遊派の系譜によって受け継がれているはずだ。素人並みの鑑賞眼だが、芸とはそういうものだと思っている。
本居宣長の言葉に「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」というものがある。言葉をまねるのは難しく、意をまねるのは簡単なのだと。これは小林秀雄の「本居宣長」からの受け売りである。普通は逆だろうが、そうではない。
言葉には姿があって、意には姿が無いから、意を人の口まねで理解した気になっている人は何も解っておらず、言葉の姿を無視して大義を学ぶことなどできる訳が無い。言葉があるから意があるのだ、ということらしい。悲しみを理解してから泣く人はおらず、動作としての言葉があってから意があるのだ。
無秩序に秩序をもたらす言葉こそ、真似をし難いものだ。これは、古事記や万葉の言葉を江戸にもたらした彼が至ったことである。つまり、言葉の力から我々は逃れられず、我々の観念や感情を形のあるものに変えられるのは言葉しかないということである。俗世の心で高尚な言葉を理解することが何よりも難しいのだ。
小林秀雄はもっと丁寧に説明してくれているのだが、まとめるとこうなる、はずだ。中学生には小林秀雄は難しいので、私が誤った解釈をしているかもしれないけれど、ともあれ、落語は文学と違い、声を出して演じるものだから、なおさら言葉の一つ一つの力が強くなるだろう。
並の芸人であれば、確かに圓朝の言葉を昭和の世界に持ち込むことは出来なかった。だが、圓生はやってのけた。彼のすごさはつまりそういうことだ。
圓生が真摯に圓朝の言葉に耳を傾けて、その真髄を汲み取ったならば、そこには文化の継承は存在する。圓右のコピーをしていては上手くいかなかったろう。それは言葉を軽んじて何も理解しないことになる。
ここで先ほどの話だが、「本寸法」の志ん朝の落語をコピーしてコアな落語ファンを喜ばせていては、落語は衰退すると。談志流に言うと「能のようなもの」になる。文科省の予算に組み込まれたつまらないものになる。私はこのように、保護するよう風を装って我が国の文化を殺す動きが少なからず存在すると思う。圓朝のコピーをするのが落語では無い。圓朝の生んだ「言葉」やそれ以前の歴代の名人達の残した「言葉」の意味することやその力を理解することが生きた文化なのである。
圓生が落語研究会に膨大な映像を残したのは自分の芸をコピーさせる為ではなかろう。技術の力なしでは会えなかった人が昭和の名人達の「言葉」に接することができるようにとの彼の思いがある。
初代三遊亭圓右は圓朝の弟子の圓馬の弟子の圓橘の弟子である。つまり圓朝のひ孫弟子にあたるが、生きた年代が乖離している訳では無い。真景累ヶ淵の世界を描きだすためには、圓朝が創った「意」と、速記本によって文字に変換された圓朝自身の「言葉」さえあれば、それで十分だったのではないか。
あるいは、文学として残された圓朝の噺と、圓右によって演じられた生の肉声を知ることができれば、圓朝の世界を昭和のころに持ち込めるであろう。
幼少のころ、まだ義太夫語りだった圓生が舞台袖からちらり、と圓右の姿を見ていた。
これだけのものがあれば圓生の努力によって圓朝ものの真髄に至ることは不可能では無い(もちろん、圓生にこそできた事業ではある)。圓生に限って、芸に全く新しい革命を起こそうなどという、伝統を軽視した下らない野心を持っていたはずが無いのだ。彼は真景累ヶ淵を演じることによって歴史の重みのようなものと相対したのだと思う。

「あの人(圓右)のやるってえことは短い時間にやる。宗悦からお長屋の衆までせいぜい十五分くらい、はじめっから(圓生は四十五分)。その短時間にそれだけやって客を満足させるくらい上手かった。それまた言えば、我々には出来ない、大した腕があるから、それだけのことができて、ですから大したもんですね。ですが、荒っぽいのは荒っぽい。圓右師匠の噺ってものはね、上手いけれども、なんていうんですか、三席ぐらいね、三十分ぐらいでぱーっとやっちゃう、楽屋に一朝さんておじいさんがいて聞いてて『しょうがねえなこんなことじゃ』てタバコのみながら文句いってるんでね、ヘヘッヘ」
(圓生百席55収録 芸談より)

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