2011年12月 アーカイブ
2011年12月31日 23時30分59秒 (Sat)
ゆく年くる年
大変な一年であった平成23年もどうやら過ぎようとしています。
当古典芸能部は多くの皆様のご支援を頂戴し、様々な活動を行うことが
できました。
部員諸君、保護者の皆様ほか関係者の皆様に、心から感謝申し上げます。
とりわけ、野末陳平先生、本庄慧一郎先生、田中重幸監督、夢空間土屋社長の
皆様、そして大空千尋先生、滝輝江先生、柴田悦男先生には格別のお引き立て
を頂戴いたしましたことを、心より感謝申し上げます。
さて、来年は、まず早速、1月にいくつかの取材が各部員により予定されて
おります。
また、独自の研究材料を発掘して研鑽を積んでいる部員もおります。
2月までは通常の活動に加え、これらをまとめて執筆することが期待されます。
そして、3月には海城寄席~創設者卒業披露興行~が予定されています。
部員の皆さんにおかれては、稽古に励んでください。
それらについての詳細なリポート記事を、部誌「河童狸」第三号(3月末刊行予定)
に反映させて欲しく思います。
そして、4月は新しい仲間を迎えたく思います。
以上が、第1期の活動概要となりましょう。
無論、意欲的な部員が多い当部ですので、部長をはじめ、オリジナリティ
溢れる企画を考えて腕撫していることと思います。
ともあれ、来年も海城古典芸能部にご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。
皆様におかれましては、よいお年をお迎えくださいませ。
有難うございました。
(落語担当顧問)
当古典芸能部は多くの皆様のご支援を頂戴し、様々な活動を行うことが
できました。
部員諸君、保護者の皆様ほか関係者の皆様に、心から感謝申し上げます。
とりわけ、野末陳平先生、本庄慧一郎先生、田中重幸監督、夢空間土屋社長の
皆様、そして大空千尋先生、滝輝江先生、柴田悦男先生には格別のお引き立て
を頂戴いたしましたことを、心より感謝申し上げます。
さて、来年は、まず早速、1月にいくつかの取材が各部員により予定されて
おります。
また、独自の研究材料を発掘して研鑽を積んでいる部員もおります。
2月までは通常の活動に加え、これらをまとめて執筆することが期待されます。
そして、3月には海城寄席~創設者卒業披露興行~が予定されています。
部員の皆さんにおかれては、稽古に励んでください。
それらについての詳細なリポート記事を、部誌「河童狸」第三号(3月末刊行予定)
に反映させて欲しく思います。
そして、4月は新しい仲間を迎えたく思います。
以上が、第1期の活動概要となりましょう。
無論、意欲的な部員が多い当部ですので、部長をはじめ、オリジナリティ
溢れる企画を考えて腕撫していることと思います。
ともあれ、来年も海城古典芸能部にご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。
皆様におかれましては、よいお年をお迎えくださいませ。
有難うございました。
(落語担当顧問)
2011年12月28日 21時52分00秒 (Wed)
忘年寄席の振り返り 凌雲ver
お久しぶりです。凌雲です。
ほんと、久しぶりですねー!
顧問の先生から記事を催促されてどのくらい経つんでしょう。
けけけ師匠がいろいろ書いてますな。ふむふむ。
たしかに、いろいろありましたが個人的に忘年寄席の振り返りから。
開口一番任されて、高座に上がったのはいいものの間違えました☆
高座で間違えると精神的にキツイとは聞いていたものの、ショックは大きかったなぁ。
緊張してたんですよね。野末先生の前だったし。うん。
その代わり、大喜利で取り返しましたから。若干、下も含んだけど。
自分でいうのも難ですが、アドリブ良かったなぁ。誰も誉めてくれなかったけどねorz
ちなみに、野末先生から個人的に恋愛のアドリブを貰いにいったのは俺です。
野末先生ありがとうございました!あと、シールも!
今日はここまで。また、書きます。
凌雲。
ほんと、久しぶりですねー!
顧問の先生から記事を催促されてどのくらい経つんでしょう。
けけけ師匠がいろいろ書いてますな。ふむふむ。
たしかに、いろいろありましたが個人的に忘年寄席の振り返りから。
開口一番任されて、高座に上がったのはいいものの間違えました☆
高座で間違えると精神的にキツイとは聞いていたものの、ショックは大きかったなぁ。
緊張してたんですよね。野末先生の前だったし。うん。
その代わり、大喜利で取り返しましたから。若干、下も含んだけど。
自分でいうのも難ですが、アドリブ良かったなぁ。誰も誉めてくれなかったけどねorz
ちなみに、野末先生から個人的に恋愛のアドリブを貰いにいったのは俺です。
野末先生ありがとうございました!あと、シールも!
今日はここまで。また、書きます。
凌雲。
2011年12月27日 16時41分34秒 (Tue)
平成23年 今年の総括 by 家家家
いつの間にかクリスマスも終わり、もういくつ寝るとお正月という時期になって参りました、皆さんいかがお過ごしでしょうか、家家家家家家家です。
今日は師走も27日、早いものです。今年もいろいろな事がありました。アラブの春と呼ばれる民主化運動から始まり、東日本大震災や福島第一原発事故、アナログ放送の終了(被災三県を除く)やタイの洪水もありました。そして、世界の人口は70億人となり、立川談志師匠は死去され、金正日も死亡しました。
はい....本当はもっと書きたいことがあるんですけれども、あまりにも多すぎて......。
こう、いろいろあった2011年ですが、古典芸能部にもいろいろありましたねぇ。えーと、何があったかなぁ。
ムーランルージュ新宿座の研究、毎年恒例の海城寄席などですかね。他にもいろいろあったのでしょうけど、細かいことは思い出せません.....。しかし、今年の古典芸能部の活動で一番思い出深いのは...やはり、ムーランの研究でしょうかねぇ。
ムーランルージュに関して、何度か文章を書かせて頂きましたが、研究を始めた当初は聞いたことも無くて.... いやぁ、大変でした。でも、この研究で得られたことはとても大きくて、単なる知識だけでなく、「心」というものを教えられた気がします。
あ、あと、今年、家家家家一門の門下が増えました!!でも、みんな上手いんで、私の方が弟子になりたいくらいです。
さぁ、来年はどんな年にしよう。私は、今年以上に「心」を大切にして、みんなが何らかの幸せを感じられるような年にしたいな、と思っています。
では よいお年を
家家家家家家家
今日は師走も27日、早いものです。今年もいろいろな事がありました。アラブの春と呼ばれる民主化運動から始まり、東日本大震災や福島第一原発事故、アナログ放送の終了(被災三県を除く)やタイの洪水もありました。そして、世界の人口は70億人となり、立川談志師匠は死去され、金正日も死亡しました。
はい....本当はもっと書きたいことがあるんですけれども、あまりにも多すぎて......。
こう、いろいろあった2011年ですが、古典芸能部にもいろいろありましたねぇ。えーと、何があったかなぁ。
ムーランルージュ新宿座の研究、毎年恒例の海城寄席などですかね。他にもいろいろあったのでしょうけど、細かいことは思い出せません.....。しかし、今年の古典芸能部の活動で一番思い出深いのは...やはり、ムーランの研究でしょうかねぇ。
ムーランルージュに関して、何度か文章を書かせて頂きましたが、研究を始めた当初は聞いたことも無くて.... いやぁ、大変でした。でも、この研究で得られたことはとても大きくて、単なる知識だけでなく、「心」というものを教えられた気がします。
あ、あと、今年、家家家家一門の門下が増えました!!でも、みんな上手いんで、私の方が弟子になりたいくらいです。
さぁ、来年はどんな年にしよう。私は、今年以上に「心」を大切にして、みんなが何らかの幸せを感じられるような年にしたいな、と思っています。
では よいお年を
家家家家家家家
2011年12月20日 16時36分46秒 (Tue)
其の拾~特別企画第二弾~
第二夜「怪談噺に対する姿勢」
三遊亭円朝は明治の人である。彼の支持者だった二葉亭四迷とか、志賀直哉あたりの記述を探して、すこしでも明治の雰囲気を感じようと思うのだが、見当たらない。小島政二郎と正岡容の小説にも目を通したがまだ物足りない。森まゆみ女史のエッセイも読んだ。円朝のものを録音した「昭和の名人の」音声データも聞いたが、それだけである。
さて、こんないい加減なもので良いのだろうか。岩波文庫の速記本をもちだして読書感想文にするという手もあるが、しかし手口があざとい。
圓生師匠の「真景累ヶ淵」を聞いたので、それの感想などを一つ。
この「真景累ヶ淵」は三遊亭円朝の作。全くのオリジナルである。
日本人はなにかあると「ああ、因縁なんだ」と言う。自分の産まれる以前から続いたあらゆることが、様々に絡み合って現在を決定しており、もはやどうしようもないなあ、と思う時があるだろう。ナポレオンのお抱え学者にラプラスという人が居たが、彼が言った「未来は全て決定している」という発想から生まれた「ラプラスの悪魔」に近いものがある。もっとも不確定性原理なるものがあってそれが「ラプラスの悪魔」を否定できるのだそうだが、それは本稿の目的から逸脱する。わたくし、こういう蘊蓄が好きなのである。
さてこの「因縁」というものを色々に考えて創作されたのが「真景累ヶ淵」である。怪談ではあるが、ただおっかない噺という訳では無い。また道徳的なメッセージが込められているものでもない。「因果は巡る」ということが込められた噺である。
これを圓朝が創ったきっかけについて小島政二郎「圓朝」が詳しい。幕末のころ、芝居噺というものが流行った。道具や鳴りもの、声色などを用いてやる噺のことで、最近では林家正雀師匠が演じている。この芝居噺で当時の圓朝は売れた。
しかし、この師匠にあたる二代目の圓生が弟子に嫉妬して、圓生がやろうとする噺を寄席で先にやってしまうという嫌がらせをする。もともと怪談や幽霊が好きだった圓朝は完全に新しい噺なら師匠に邪魔されることは無いだろうと思い、この「真景累ヶ淵」を創作したそうな。
であるから、この怪談噺は始めは鳴りものや道具を使ってやっていて、「かさね」とか「累ヶ淵後日の怪談」というタイトルだった。これが江戸で大流行する。彼が初めて創ったこの怪談は生涯にわたって改良されている、いわば代表作かつ処女作なのだ。
彼が三十二歳のころ、芝居話に決別をして素話だけを売り物にしようと決意したとき、売り物の「かさね」のタイトルに明治のころに流行った「神経」という言葉をつけ、違う漢字で表記しようと提案したのが圓朝の隣に住んでいた忍信夫恕軒。漢学者だったとか。
圓生は「大変に怪談噺をするものには都合の悪いことになってきました」と語る。ここで断見の論、というお釈迦様の話をはさむ。「釈迦と言う悪戯ものが世に出でて多くのひとを惑わするかなという、えーひとつ、これは風刺したものでございましょう」と。これは圓生の創作した枕、というよりは圓朝の教養から生まれたものらしい。
正岡容氏は錦城齋典山という昭和初年の名人が、怪談噺を読む際に「開明の今日は、ちと馬鹿馬鹿しいお話で」と断ってしまうのと、圓朝のそれを比較し、
けだしモガモボ時代の昭和初年も、鹿鳴館花やかなりし明治開化期も、いずれは同じ米英化一色の時代である。その時に当って我が圓朝は敢然と開化人を膝下に集めて時下薬籠中の怪談のスリルを十二分に説きつくし、典山のほうはこの醜態を曝露している。今日、神田伯龍あたりが意味なく時代に迎合してせっかくのお家芸をば放棄している、思えば無理からぬ次第といえよう。
と、「小説 圓朝」の中で述べた。
六代目圓生は「あたまからこれは絶対無いといって決めてしまうべきものではないんじゃないかと」。怪談を馬鹿馬鹿しいなあ、と切り捨てることはしたくないようで、良かった。さすがは六代目圓生。
少し話は変わるが、立川談志が沖縄に旅行かなにかで出かけた際、そこの子供に「どうしておじちゃんの頭は青いの?」と聞かれたそうだ(前髪が緑色のころがあったでしょう)。そこで談志は「神様が青くした」と答えた。「うそだよお」「そう考えたら、楽しくない?」
「オレも変なこといったな」と思ったそうだが、怪談噺に対する姿勢も、そういう感じでいいのではないかな、と思う。
圓生の「真景累ヶ淵」の感想まで辿り着けそうに無いので、今日はこのあたりで勘弁して下さい。次回はこんな薄っぺらなことは書きませんから。
三遊亭円朝は明治の人である。彼の支持者だった二葉亭四迷とか、志賀直哉あたりの記述を探して、すこしでも明治の雰囲気を感じようと思うのだが、見当たらない。小島政二郎と正岡容の小説にも目を通したがまだ物足りない。森まゆみ女史のエッセイも読んだ。円朝のものを録音した「昭和の名人の」音声データも聞いたが、それだけである。
さて、こんないい加減なもので良いのだろうか。岩波文庫の速記本をもちだして読書感想文にするという手もあるが、しかし手口があざとい。
圓生師匠の「真景累ヶ淵」を聞いたので、それの感想などを一つ。
この「真景累ヶ淵」は三遊亭円朝の作。全くのオリジナルである。
日本人はなにかあると「ああ、因縁なんだ」と言う。自分の産まれる以前から続いたあらゆることが、様々に絡み合って現在を決定しており、もはやどうしようもないなあ、と思う時があるだろう。ナポレオンのお抱え学者にラプラスという人が居たが、彼が言った「未来は全て決定している」という発想から生まれた「ラプラスの悪魔」に近いものがある。もっとも不確定性原理なるものがあってそれが「ラプラスの悪魔」を否定できるのだそうだが、それは本稿の目的から逸脱する。わたくし、こういう蘊蓄が好きなのである。
さてこの「因縁」というものを色々に考えて創作されたのが「真景累ヶ淵」である。怪談ではあるが、ただおっかない噺という訳では無い。また道徳的なメッセージが込められているものでもない。「因果は巡る」ということが込められた噺である。
これを圓朝が創ったきっかけについて小島政二郎「圓朝」が詳しい。幕末のころ、芝居噺というものが流行った。道具や鳴りもの、声色などを用いてやる噺のことで、最近では林家正雀師匠が演じている。この芝居噺で当時の圓朝は売れた。
しかし、この師匠にあたる二代目の圓生が弟子に嫉妬して、圓生がやろうとする噺を寄席で先にやってしまうという嫌がらせをする。もともと怪談や幽霊が好きだった圓朝は完全に新しい噺なら師匠に邪魔されることは無いだろうと思い、この「真景累ヶ淵」を創作したそうな。
であるから、この怪談噺は始めは鳴りものや道具を使ってやっていて、「かさね」とか「累ヶ淵後日の怪談」というタイトルだった。これが江戸で大流行する。彼が初めて創ったこの怪談は生涯にわたって改良されている、いわば代表作かつ処女作なのだ。
彼が三十二歳のころ、芝居話に決別をして素話だけを売り物にしようと決意したとき、売り物の「かさね」のタイトルに明治のころに流行った「神経」という言葉をつけ、違う漢字で表記しようと提案したのが圓朝の隣に住んでいた忍信夫恕軒。漢学者だったとか。
圓生は「大変に怪談噺をするものには都合の悪いことになってきました」と語る。ここで断見の論、というお釈迦様の話をはさむ。「釈迦と言う悪戯ものが世に出でて多くのひとを惑わするかなという、えーひとつ、これは風刺したものでございましょう」と。これは圓生の創作した枕、というよりは圓朝の教養から生まれたものらしい。
正岡容氏は錦城齋典山という昭和初年の名人が、怪談噺を読む際に「開明の今日は、ちと馬鹿馬鹿しいお話で」と断ってしまうのと、圓朝のそれを比較し、
けだしモガモボ時代の昭和初年も、鹿鳴館花やかなりし明治開化期も、いずれは同じ米英化一色の時代である。その時に当って我が圓朝は敢然と開化人を膝下に集めて時下薬籠中の怪談のスリルを十二分に説きつくし、典山のほうはこの醜態を曝露している。今日、神田伯龍あたりが意味なく時代に迎合してせっかくのお家芸をば放棄している、思えば無理からぬ次第といえよう。
と、「小説 圓朝」の中で述べた。
六代目圓生は「あたまからこれは絶対無いといって決めてしまうべきものではないんじゃないかと」。怪談を馬鹿馬鹿しいなあ、と切り捨てることはしたくないようで、良かった。さすがは六代目圓生。
少し話は変わるが、立川談志が沖縄に旅行かなにかで出かけた際、そこの子供に「どうしておじちゃんの頭は青いの?」と聞かれたそうだ(前髪が緑色のころがあったでしょう)。そこで談志は「神様が青くした」と答えた。「うそだよお」「そう考えたら、楽しくない?」
「オレも変なこといったな」と思ったそうだが、怪談噺に対する姿勢も、そういう感じでいいのではないかな、と思う。
圓生の「真景累ヶ淵」の感想まで辿り着けそうに無いので、今日はこのあたりで勘弁して下さい。次回はこんな薄っぺらなことは書きませんから。
2011年12月16日 23時01分56秒 (Fri)
平成23年海城忘年寄席開催
二学期末の試験を終えてまずは今年もやれやれ、という部員達の企画立案により「平成23年度海城忘年寄席」が、16日、元参議院議員で中国哲学の泰斗でもある野末陳平先生をお招きして開催されました。野末先生には、今夏行われた、当部によるムーランルージュ新宿座研究以来、ご交際を頂戴しております。
まずは野末先生より開会の辞を頂き、第一部へ。
海原亭凌雲さんの「紀州」で幕が開き、地図男さんのボードビル、浦島家年執太さんの「がまの油」、家家家家ハウスさんの今朝の朝刊を利用した即興謎掛けと続き、主任(とり)は、海原亭創雲さんの「蒟蒻問答」(写真)でした。
その後は暫し、部員と野末先生との歓談の時間となりました。
数々のベストセラーをもつ野末先生へ「ベストセラーを出すコツとは?」なる質問が部員から出されました。
野末先生曰く、「これはついこの前も編集者から聞かれました。実のところベストセラーは狙ってできるものではなく、飽くまでも結果論です。コツというコツはないのです。ただ、興味あるものに対する深い探求心と努力がなければ話は始まりません」とのお話を頂きました。数々のベストセラーをものした先生ならではの説得力を感じずには居れませんでした。
この説得力によるものでしょうか、他の部員に席を外させた上で、先生に人生相談を始める部員も。相談氏曰く、野末先生に実に親身にアドバイスを頂いたと感激しておりました。
歓談の締めは、先生若き日のロスアンゼルス、サクラメント、そしてラスベガスへと続いた「東洋神秘の占術師・波乱の米国道中記」に一同、抱腹絶倒させられました。第二部は、志生堂椿さんの「始末の極意」でスタート。
イソギンチャクの漫才、大空亭空巣さんの「ぜんざい公社」、奇座平さんのスタンダップコメディ《けんだまんだん》と続き、大主任は海原亭圓両さんの「中村仲蔵」でした。
その後、野末先生に因んで、「李白チームと杜甫チーム」の四対四に分かれた対抗大喜利を敢行。和やかな進行の中、回答者の面々を頼もしく見つめつつ、この一年の活動を回顧致しました。
最後に、野末先生から講評を賜り、 年執太、創雲、圓両の皆さんに「野末賞」が授与されたのでした。
実に四時間余に渡るプログラムでしたが、野末先生曰く、「あっという間でしたね。この一座には曰く言い難い面白さがあります。また来年、お会いしましょう」との言葉を頂きました。
部員のうち、この日に参加した三十余名にとって、本年の棹尾を飾るよき思い出となったことでしょう。次回の海城寄席は当部の創設者お二人(海原亭創太・近視家三本助)の引退披露興行として、来年三月の開催を予定しております。
尚、本日の写真の数々は、近日中に学園HP「海城プレス」へ掲載する予定です。 (落語担当顧問)
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