2011年10月 アーカイブ
2011年10月31日 23時45分39秒 (Mon)
♪桂小金治師匠に激励を賜りました♪
戦後の落語史を語る上で欠かすことのできない名落語家であり、名優にして名TV司会者と、いずれも「名」のつく大活躍をされ、85歳となられた今、益々、意気軒昂でいらっしゃる桂小金治師匠より激励のお手紙を頂戴いたしました。
これは、ムーラン研究で知遇を頂きました作家本庄慧一郎先生にご紹介を頂き、師匠に部誌「河童狸」を送らせて頂きましたご縁によるものです。
頂きました激励の一部を紹介いたします:
(前略)
古きを知って、新しきを知る・・・
目先のことばかりを気にして生きて行くより
古き時代をふり返り思ってその中から
何かを学びとりながら生きて行くところに
佳き明日あり!だと思います。
古典芸能部の前途に輝きあれ!と
御祈念申し上げております。
(後略)
とのことです。
身に余る光栄であり、これを励みに益々精進していこうではありませんか。
小金治師匠の師匠は先代の小文治師匠(当時の日本芸術協会副会長)であり、私は小文治師匠の「稽古屋」を聴いて、その行き届いた芸に感嘆したことがあります。
小文治師匠とはどのような方だったのか。是非、小金治師匠にお聞きしたいものです。
また、創雲中学部長は歌丸師匠の円朝ゆかりの作品を研究中でしたね。
小金治師匠は、歌丸師匠の師匠である先代の今輔師匠を知る、今となっては数少ない貴重な方でもあります。
一朝老人から伝授された円朝ものを、今輔師匠がどのように考えていらっしゃったか、もしかしたらご存知かもしれません。
そして、芸術協会会長にして、海城の文化祭に登場したこともある(これについては
稿を改めますが、なんと、そんな事実も判明したのです!海城は昔から芸能に理解があるようですね)先々代の柳橋師匠のこともお聞きしたいものです。
それに、・・・
まぁ、とにもかくにもお聞きしたいことがたくさんある師匠です。
このご縁を大切にしたいものです。
小金治師匠、本当に有難うございます。
(落語担当顧問)
これは、ムーラン研究で知遇を頂きました作家本庄慧一郎先生にご紹介を頂き、師匠に部誌「河童狸」を送らせて頂きましたご縁によるものです。
頂きました激励の一部を紹介いたします:
(前略)
古きを知って、新しきを知る・・・
目先のことばかりを気にして生きて行くより
古き時代をふり返り思ってその中から
何かを学びとりながら生きて行くところに
佳き明日あり!だと思います。
古典芸能部の前途に輝きあれ!と
御祈念申し上げております。
(後略)
とのことです。
身に余る光栄であり、これを励みに益々精進していこうではありませんか。
小金治師匠の師匠は先代の小文治師匠(当時の日本芸術協会副会長)であり、私は小文治師匠の「稽古屋」を聴いて、その行き届いた芸に感嘆したことがあります。
小文治師匠とはどのような方だったのか。是非、小金治師匠にお聞きしたいものです。
また、創雲中学部長は歌丸師匠の円朝ゆかりの作品を研究中でしたね。
小金治師匠は、歌丸師匠の師匠である先代の今輔師匠を知る、今となっては数少ない貴重な方でもあります。
一朝老人から伝授された円朝ものを、今輔師匠がどのように考えていらっしゃったか、もしかしたらご存知かもしれません。
そして、芸術協会会長にして、海城の文化祭に登場したこともある(これについては
稿を改めますが、なんと、そんな事実も判明したのです!海城は昔から芸能に理解があるようですね)先々代の柳橋師匠のこともお聞きしたいものです。
それに、・・・
まぁ、とにもかくにもお聞きしたいことがたくさんある師匠です。
このご縁を大切にしたいものです。
小金治師匠、本当に有難うございます。
(落語担当顧問)
2011年10月30日 1時19分48秒 (Sun)
浅草軽演劇・アチャラカ60年ぶりの復活!
落語担当顧問でございます。
昨日、歌舞伎担当顧問と共に、第66回文化庁芸術祭参加作品“浅草アチャラカ喜劇60年ぶりの復活”を観劇してきました。
これは、映画「ムーランルージュの青春」の上映館であった新宿K’sシネマ(K’sは本校の校章にも似て、縁を感じずにはおれません)のロビーに、古典芸能部ムーラン班の今夏の研究報告を上映期間終了まで掲示頂いていたご縁によります。
その掲示をご覧頂きました、劇団「アチャラカ天風」座長である水島敏様にご来校を賜り、「軽演劇の二大拠点のひとつである新宿ムーランを研究されたのなら、もう一方の雄である浅草アチャラカ喜劇を研究されてはどうでしょうか。ついては、私が座長として来月の末に出演する、芸術祭参加作品“浅草アチャラカ喜劇”に部員の皆さんをご招待します」とのお誘いを頂き、実現したものです。
公演劇場である浅草東洋館は、国民栄誉賞に輝いた「渥美清」(映画「男はつらいよ」の寅さん役で余りにも有名)をはじめ、キンちゃんこと「萩本欽一」、そして映画監督としても名高い「ビートたけし」など 日本芸能史を彩る数々の笑芸人を輩出している由緒ある劇場です。
思い起こせば、「エノケン」、「ロッパ」のこの地での活躍はもとより、ムーラン新宿座の支配人であった佐々木千里氏の芸能活動スタートの地もここ浅草(玉木座)です。いわば浅草は日本軽演劇界の母胎と申せましょう。因みに、ここ東洋館は、ムーラン新宿座が閉館した昭和26年にスタートしています(ムーラン閉館との関係、ありやなしや)。
さて、当日は超満員。二百余の客席では足らず、補助席がでる盛況のなか、水島座長によるアチャラカ喜劇は、3つの芝居と、間に入る色物にて構成。色物は、平成の添田唖蝉坊ともいうべき「岡大介」さんのカンカラ三線による風刺歌、「くれない組」のお二人によるこれぞ熱演というべき楽しい漫才でした。
とりわけ、岡さんの芸は、類型的な芸能史では石田一松(のんき節で一世を風靡。後に代議士。三木武夫首相との交流は有名)で途絶えているとされる一ジャンルの復活であり、古典芸能部で探求するテーマであると考え、是非とも芸談をお伺いしたく依頼したところご快諾頂きました。これにつきましては稿を改めてご報告したく存じます。
本編である三篇の喜劇は、どれも観客を飽きさせることのない、実にスピーディーな展開で、公演時間の1時間40分が瞬く間に過ぎました。なにより、往時の浅草軽演劇に思いを馳せるに十分な楽しいものでした。途中、舞台の水島座長より、部員をご紹介頂き、観客の皆様より拍手と数々の温かな激励を賜りました。
観劇後、我々へ、まさに抱腹絶倒を呼び込んでくださった座員の「服部健治」さんを中央に、記念撮影をさせて頂きました。
今日の舞台の詳細につきましては、今月十日発行の古典芸能部部誌「河童狸」(今年度第二号。全125ページ)に掲載する予定です。
一座の皆様、そしてなにより水島座長、貴重な体験をさせて頂き、誠に有難うございました。
(部誌の秋号、堂々の完成まであと一歩です!来月10日の部会で配布発行します。
お楽しみに♪)
昨日、歌舞伎担当顧問と共に、第66回文化庁芸術祭参加作品“浅草アチャラカ喜劇60年ぶりの復活”を観劇してきました。
これは、映画「ムーランルージュの青春」の上映館であった新宿K’sシネマ(K’sは本校の校章にも似て、縁を感じずにはおれません)のロビーに、古典芸能部ムーラン班の今夏の研究報告を上映期間終了まで掲示頂いていたご縁によります。
その掲示をご覧頂きました、劇団「アチャラカ天風」座長である水島敏様にご来校を賜り、「軽演劇の二大拠点のひとつである新宿ムーランを研究されたのなら、もう一方の雄である浅草アチャラカ喜劇を研究されてはどうでしょうか。ついては、私が座長として来月の末に出演する、芸術祭参加作品“浅草アチャラカ喜劇”に部員の皆さんをご招待します」とのお誘いを頂き、実現したものです。
公演劇場である浅草東洋館は、国民栄誉賞に輝いた「渥美清」(映画「男はつらいよ」の寅さん役で余りにも有名)をはじめ、キンちゃんこと「萩本欽一」、そして映画監督としても名高い「ビートたけし」など 日本芸能史を彩る数々の笑芸人を輩出している由緒ある劇場です。
思い起こせば、「エノケン」、「ロッパ」のこの地での活躍はもとより、ムーラン新宿座の支配人であった佐々木千里氏の芸能活動スタートの地もここ浅草(玉木座)です。いわば浅草は日本軽演劇界の母胎と申せましょう。因みに、ここ東洋館は、ムーラン新宿座が閉館した昭和26年にスタートしています(ムーラン閉館との関係、ありやなしや)。
さて、当日は超満員。二百余の客席では足らず、補助席がでる盛況のなか、水島座長によるアチャラカ喜劇は、3つの芝居と、間に入る色物にて構成。色物は、平成の添田唖蝉坊ともいうべき「岡大介」さんのカンカラ三線による風刺歌、「くれない組」のお二人によるこれぞ熱演というべき楽しい漫才でした。
とりわけ、岡さんの芸は、類型的な芸能史では石田一松(のんき節で一世を風靡。後に代議士。三木武夫首相との交流は有名)で途絶えているとされる一ジャンルの復活であり、古典芸能部で探求するテーマであると考え、是非とも芸談をお伺いしたく依頼したところご快諾頂きました。これにつきましては稿を改めてご報告したく存じます。
本編である三篇の喜劇は、どれも観客を飽きさせることのない、実にスピーディーな展開で、公演時間の1時間40分が瞬く間に過ぎました。なにより、往時の浅草軽演劇に思いを馳せるに十分な楽しいものでした。途中、舞台の水島座長より、部員をご紹介頂き、観客の皆様より拍手と数々の温かな激励を賜りました。
観劇後、我々へ、まさに抱腹絶倒を呼び込んでくださった座員の「服部健治」さんを中央に、記念撮影をさせて頂きました。
今日の舞台の詳細につきましては、今月十日発行の古典芸能部部誌「河童狸」(今年度第二号。全125ページ)に掲載する予定です。
一座の皆様、そしてなにより水島座長、貴重な体験をさせて頂き、誠に有難うございました。
(部誌の秋号、堂々の完成まであと一歩です!来月10日の部会で配布発行します。
お楽しみに♪)
2011年10月29日 22時32分59秒 (Sat)
アチャラカ天風見てきました。
どうも、凌雲です。
先ほど、アチャラカ天風見て参りました。
思った以上に家から近かったです。
じゃなくて…
ムーランと比べて、どうというわけでなくでなく、純粋に笑えました。大衆演劇ってあんな感じなんですね。なにより、目の前で見られるし、役者さんとの距離が近い!最後にコント青年団の服部さんと写真をとっていただきました。個人的には一斉に転けるのが好きでした。本当に面白かったです!ありがとうございました!
また機会があればよろしくお願いいたします。部員一同見に行きたいです。
最後に。今回ご招待下さった、アチャラカ天風座長の水島さん、一座のみなさん、ここまで来るなかでお世話になった関係者の方々、顧問の先生方、ありがとうございました。すっごく面白かったです!
海原亭凌雲
先ほど、アチャラカ天風見て参りました。
思った以上に家から近かったです。
じゃなくて…
ムーランと比べて、どうというわけでなくでなく、純粋に笑えました。大衆演劇ってあんな感じなんですね。なにより、目の前で見られるし、役者さんとの距離が近い!最後にコント青年団の服部さんと写真をとっていただきました。個人的には一斉に転けるのが好きでした。本当に面白かったです!ありがとうございました!
また機会があればよろしくお願いいたします。部員一同見に行きたいです。
最後に。今回ご招待下さった、アチャラカ天風座長の水島さん、一座のみなさん、ここまで来るなかでお世話になった関係者の方々、顧問の先生方、ありがとうございました。すっごく面白かったです!
海原亭凌雲
2011年10月21日 18時49分01秒 (Fri)
其の捌~特別企画第一弾~
創雲です。
久しぶりの記事なので、すこし雑談めいた事を書いて腕ならしをしましょうか。
そんな厳しい関係では無いのですが、一応私には弟子が三人いたりします。部員で言うと凌雲、志ん米、雲甫の三名ですが、師匠らしいことはあんまりしてません。志ん米は一人で稽古するので、私は全く必要無いし。とにかく、弟子という事になっているらしい。名前に「雲」が入っていたりしたら私の一門(?)です。
もともと私は創設者の「海原亭創太」の「創」の字を頂いています。大御所創太師匠は来年度で引退ということになっておりまして、この大名跡(二つ目名っぽいけれど、大名跡です)の後継は誰にしようか、なんて一人思い悩んでいるのです。うちの部活では「三遊亭円朝」くらい価値のある名前です。古典芸能部は設立から5年あまりの歴史の浅い部活ですが、部長職の人は「海原亭であること」という条件を満たさねばなりません。そこで私は密かに志ん米に「創太」を継いでもらって来年の部長になってもらえたらな、と画策しています。デビュー当時は新米だった(一年の時から上手くてびっくりしました)のですが、三代目三遊亭金馬を参考にした滑稽話はもはや我が部の看板。その志ん米に「いらねーよ」とつっかえされたら元も子もないけれど。それに、初代創太師匠が名前を誰かに譲ってくれるかどうか解らないし、そもそも部活の芸名なんて一代限りでいいじゃないかと言われそうですね。
個人的には「創太」の名跡が廃れるのは非常に惜しい。こういう仕組みをつくっておけば未来の後輩に「~代目 海原亭◯◯でございます」と言ってもらえるかもしれないじゃないですか。なんとかごり押しするつもりです。
さて、前のコラムで「実は最近芝居噺とか円朝の怪談といったことに興味を持ち始めて、そういう方でなにか書こうかな、とは思っているのです。」などと予告をしました。明治の落語の中興の祖、落語の神様の異名をとる伝説的な人物について、なにか深く掘り下げてみようじゃないかと、そういう試みであります。
テストが終わってようやく時間に余裕ができたので、しばらく「円朝」というテーマで何回かに分けて書くことに決めました。題して「部長の部屋 第八回記念企画 連載~円朝の系譜を辿って~」(じゃーん、とファンファーレが鳴る)。
......................................................................。
.................................。
まあ、大したものじゃ無いし、打ち切りの可能性大なので、あんまり大げさに宣伝するのはよしましょう。三日坊主の私の宣言です。多分三回くらいで終わるとおもいますが、兎に角はじめちまおうと思います。あと、特別企画の文体は思い切って「です ます」から「だ である」にしておきましたが、同一人物が書いていますので、どうぞよろしくお願いします。
第一夜「桂歌丸と『栗原宿』」
先日のことである。私は中間試験の最中にも関わらず「桂歌丸特撰落語会」に出かるという暴挙にでた。落語ファンを自称する手前、行かぬわけにはゆかぬではないか。後日、公民、数学Aといった科目で恐ろしい結末を迎えたわけだが、そのときの私は皮算用的な思考でテストのことを考えていたのである。人は学習しない。
落語会は桂歌丸の噺家生活60年を記念して、人気番組「笑点」のメンバーが順に登場し、最後に歌丸師匠がトリをとるというもの。番組のネタ「富士子夫人」「独身の昇太」「大月秩父代理戦争」など笑点視聴者向けの落語会、といったところか。木久扇だけ札幌の仕事があって居なかったが、すかさず円楽が「山田もいねえし」と笑いをとっていた。
それにしても、噺家生活60年になるそうである。中学生のときに古今亭今輔に入門し、米坊、歌丸と名前を変えて現在に至るが、単純に計算しても人生の80パーセントも落語に使っているわけだ。驚くべきことだと思った。私は桂歌丸その人のことは、つい最近までは「笑点」の人気で食っているという、無礼なイメージしか無かったが、それは大きな間違いで、彼こそが現在存命の噺家の中でもっとも三遊亭円朝に近い人物である、と改めた。
彼の円朝ものに対する姿勢を知ったきっかけは、夏休みも終わりに差し掛かったころ、知人が持ってきてくれた読売新聞の「時代の証言者」というコーナーを目にしたことだった。
タイトルは「円生の大ネタ 今や十八番」。手元に切り抜きがまだ残っているのだが、内容を簡単に書くと、桂歌丸は1994年「TBS落語研究会」の白井プロデューサーなる人に怪談牡丹灯籠の一節「栗原宿」をやってみてはどうか、と持ちかけられた。無理だと断ったが、最後には折れて、亡き六代目三遊亭円生のビデオを参考にして演じた。いまでは「栗原宿」は歌丸の代表作と呼ばれるようになったが、円生の芸と白井プロデューサーが居なくてはならなかった、という舞台裏が明かされている。
記事によると、歌丸はけっこう円生に気に入られていたそうだ。たまたま地方で同じ仕事をしたとき、円生が差し向かいになった歌丸に「絵本太閤記」を一時間近く聞かせて、あたかも落語「寝床」のようなことになってしまったようだ。それを根気よく聞いたことがきっかけとなって、それ以来会うたびに声を掛けられていたそうな。笑点の特別企画で三波伸介、歌丸、円生で出演したこともあったらしい。しかし、笑点の仲間であり、円生の弟子である円楽に何度も誘われていたのにも関わらず、稽古をつけてもらう機会を逃したまま1979年、円生は他界してしまう。
「座布団一枚 桂歌丸のわが落語人生」(小学館)によれば、歌丸が新作派から古典派に移ったのは1974年のこと。地元横浜の「三吉演芸場」という寄席で独演会を開いたところから、一気に新作から古典落語に移行する。先日の「桂歌丸特撰落語会」では「横浜は住むところ、東京は金儲けをするところと決めているから地元に住み続けている」と語っていたが、地元の横浜でじっくり時間をかけて仕込んだ噺を披露するという時は、やはり「金儲け」を超えた「芸を磨きたい」という真摯な姿勢で演じていたのだろうか。
しかし、不思議なことである。二つ目時代から古典をやりたいと思っていた、と本人は言っているものの、師匠の古今亭今輔、桂米丸は新作寄りの人である。そもそも落語芸術協会は円朝もののような重い古典は専門では無い。何が歌丸の大幅な路線変更となったのだろうか。我が古典芸能部顧問、川崎先生に伺ったところ、非常に興味深い事を教えていただいた。
昭和の落語史に時々登場する「一朝老人」とういう人がいる。かの円朝の弟子である。明治から昭和初期まで生きていたというシーラカンスのような人で、その技術を継承した主な人物といえば当時の扇遊亭金八(林家彦六の初期の名)だという事は有名だ。舞台装置や小道具を用いる芝居噺の稽古をつけられた林家彦六はのちにその芝居噺の第一人者となる。円朝の記憶を昭和の名人に橋渡しした人物、それが一朝翁であった。ここからが面白いのだが、実は円朝の噺を一朝老人から教わったのは、林家彦六だけでは無い。一朝に芝居噺や円朝ものの怪談を仕込まれたもう一人の人物、それが歌丸の師匠、古今亭今輔だったのだ。古今亭今輔は地方出身のため江戸弁を使いこなせず、一朝老人には円朝ものを演じる素質が無いと、早々に諦められてしまったのだとか。だからこそ古典落語ではなく、標準語で一般受けの良い新作へシフトしたのだそうだ。
いやはや、まったく川崎先生の知識には驚いた。
歌丸が師匠からそのようなことを聞いたかどうかは解らないが、あえて古典を封印している師匠の姿から、なにかを感じ取ったことは確かだろう。今輔も米丸も新作専門だったので、当時の芸術協会の大御所、六代目春風亭柳橋から稽古をつけてもらったりしながら古典へと切り替えていった。昭和49(1974)年のことである。
だが、歌丸が円朝の長編に本格的に挑むのはそこから20年後のこと。先ほども紹介したように円朝ものを数多く手がけた三遊亭円生のビデオをもとに、見事な「栗原宿」を作り上げた。
歌丸の「栗原宿」はいつか生で聴きたいと思っているが、なかなか叶わない。仕方が無いので「怪談牡丹灯籠」を通し公演で録音したCDを聴いてみた。
「怪談牡丹灯籠」はとても長い長い噺で、そのあらすじを紹介するだけで疲れてしまうから、今回はそれを省くが、兎に角長くて難しくて複雑な因果話なのである。
聴いてまず思ったことは「桂歌丸は平成の三遊亭円生じゃないか」ということだ。口調、間、言葉使いがよく似ている。円生の「牡丹灯籠」のエッセンスを吸収、再構成していたというのが良く解る。難解な江戸弁を東京の言葉に直した、多くの層にわかる「牡丹灯籠」だった。
その中で秀逸だったのはやはり「栗原宿」。江戸で主人の萩原新三郎を殺し、栗原宿まで逃亡した伴蔵お峰の夫婦、悪事を働いて得た金で開いた店が繁盛するが、大金を持つようになってから旦那の伴蔵は少しずつ罪悪感が無くなっていき、欲深く腹黒い男になる。商売女との浮気がばれた伴蔵は外出先の森の中で音も無くお峰を殺害する。という下りだ。前話の「お札はがし」では気弱な小悪党だった伴蔵「栗原宿」になるとどす黒い欲を持った男へと変貌する。「牡丹灯籠」の中でも最もサスペンスな幕で、特にお峰殺害の場面には思わず背筋がぞわっとした。
円朝の創った壮大な因果話の中でも人の欲や負の感情が吹き出してくるところを、扇子と手ぬぐいのみで再現するのは並大抵の技量の者ではできない。多くの場合は演者がストーリーの重みに耐えきれなくなってしまうのではないか。女房に背後から音も無く忍び寄り斬りつける残忍な男の欲望を絶妙な間で表現した桂歌丸のそれを聴いたとき「この人こそ現役の中で円朝ものの真髄にもっとも近い噺家だ」と思ったのだった。
現在、桂歌丸は「牡丹灯籠」に並ぶ長編怪談「真景累ヶ淵」の全てを録音に挑戦中だそうだ。すべての因果が明らかにされるまでを録音する完璧な音源化は、六代目三遊亭円生ですら到達していない域であり、これをもし成功させれば、落語史にとって大きな足跡となることだろう。桂歌丸の円朝ものへの取り組みはまだまだ終わらない。
そして平成にまでその名を轟かす落語の神様、三遊亭円朝に私は更なる興味を持ってしまった。
特別企画第一夜はここまで。次回もお楽しみに。
久しぶりの記事なので、すこし雑談めいた事を書いて腕ならしをしましょうか。
そんな厳しい関係では無いのですが、一応私には弟子が三人いたりします。部員で言うと凌雲、志ん米、雲甫の三名ですが、師匠らしいことはあんまりしてません。志ん米は一人で稽古するので、私は全く必要無いし。とにかく、弟子という事になっているらしい。名前に「雲」が入っていたりしたら私の一門(?)です。
もともと私は創設者の「海原亭創太」の「創」の字を頂いています。大御所創太師匠は来年度で引退ということになっておりまして、この大名跡(二つ目名っぽいけれど、大名跡です)の後継は誰にしようか、なんて一人思い悩んでいるのです。うちの部活では「三遊亭円朝」くらい価値のある名前です。古典芸能部は設立から5年あまりの歴史の浅い部活ですが、部長職の人は「海原亭であること」という条件を満たさねばなりません。そこで私は密かに志ん米に「創太」を継いでもらって来年の部長になってもらえたらな、と画策しています。デビュー当時は新米だった(一年の時から上手くてびっくりしました)のですが、三代目三遊亭金馬を参考にした滑稽話はもはや我が部の看板。その志ん米に「いらねーよ」とつっかえされたら元も子もないけれど。それに、初代創太師匠が名前を誰かに譲ってくれるかどうか解らないし、そもそも部活の芸名なんて一代限りでいいじゃないかと言われそうですね。
個人的には「創太」の名跡が廃れるのは非常に惜しい。こういう仕組みをつくっておけば未来の後輩に「~代目 海原亭◯◯でございます」と言ってもらえるかもしれないじゃないですか。なんとかごり押しするつもりです。
さて、前のコラムで「実は最近芝居噺とか円朝の怪談といったことに興味を持ち始めて、そういう方でなにか書こうかな、とは思っているのです。」などと予告をしました。明治の落語の中興の祖、落語の神様の異名をとる伝説的な人物について、なにか深く掘り下げてみようじゃないかと、そういう試みであります。
テストが終わってようやく時間に余裕ができたので、しばらく「円朝」というテーマで何回かに分けて書くことに決めました。題して「部長の部屋 第八回記念企画 連載~円朝の系譜を辿って~」(じゃーん、とファンファーレが鳴る)。
......................................................................。
.................................。
まあ、大したものじゃ無いし、打ち切りの可能性大なので、あんまり大げさに宣伝するのはよしましょう。三日坊主の私の宣言です。多分三回くらいで終わるとおもいますが、兎に角はじめちまおうと思います。あと、特別企画の文体は思い切って「です ます」から「だ である」にしておきましたが、同一人物が書いていますので、どうぞよろしくお願いします。
第一夜「桂歌丸と『栗原宿』」
先日のことである。私は中間試験の最中にも関わらず「桂歌丸特撰落語会」に出かるという暴挙にでた。落語ファンを自称する手前、行かぬわけにはゆかぬではないか。後日、公民、数学Aといった科目で恐ろしい結末を迎えたわけだが、そのときの私は皮算用的な思考でテストのことを考えていたのである。人は学習しない。
落語会は桂歌丸の噺家生活60年を記念して、人気番組「笑点」のメンバーが順に登場し、最後に歌丸師匠がトリをとるというもの。番組のネタ「富士子夫人」「独身の昇太」「大月秩父代理戦争」など笑点視聴者向けの落語会、といったところか。木久扇だけ札幌の仕事があって居なかったが、すかさず円楽が「山田もいねえし」と笑いをとっていた。
それにしても、噺家生活60年になるそうである。中学生のときに古今亭今輔に入門し、米坊、歌丸と名前を変えて現在に至るが、単純に計算しても人生の80パーセントも落語に使っているわけだ。驚くべきことだと思った。私は桂歌丸その人のことは、つい最近までは「笑点」の人気で食っているという、無礼なイメージしか無かったが、それは大きな間違いで、彼こそが現在存命の噺家の中でもっとも三遊亭円朝に近い人物である、と改めた。
彼の円朝ものに対する姿勢を知ったきっかけは、夏休みも終わりに差し掛かったころ、知人が持ってきてくれた読売新聞の「時代の証言者」というコーナーを目にしたことだった。
タイトルは「円生の大ネタ 今や十八番」。手元に切り抜きがまだ残っているのだが、内容を簡単に書くと、桂歌丸は1994年「TBS落語研究会」の白井プロデューサーなる人に怪談牡丹灯籠の一節「栗原宿」をやってみてはどうか、と持ちかけられた。無理だと断ったが、最後には折れて、亡き六代目三遊亭円生のビデオを参考にして演じた。いまでは「栗原宿」は歌丸の代表作と呼ばれるようになったが、円生の芸と白井プロデューサーが居なくてはならなかった、という舞台裏が明かされている。
記事によると、歌丸はけっこう円生に気に入られていたそうだ。たまたま地方で同じ仕事をしたとき、円生が差し向かいになった歌丸に「絵本太閤記」を一時間近く聞かせて、あたかも落語「寝床」のようなことになってしまったようだ。それを根気よく聞いたことがきっかけとなって、それ以来会うたびに声を掛けられていたそうな。笑点の特別企画で三波伸介、歌丸、円生で出演したこともあったらしい。しかし、笑点の仲間であり、円生の弟子である円楽に何度も誘われていたのにも関わらず、稽古をつけてもらう機会を逃したまま1979年、円生は他界してしまう。
「座布団一枚 桂歌丸のわが落語人生」(小学館)によれば、歌丸が新作派から古典派に移ったのは1974年のこと。地元横浜の「三吉演芸場」という寄席で独演会を開いたところから、一気に新作から古典落語に移行する。先日の「桂歌丸特撰落語会」では「横浜は住むところ、東京は金儲けをするところと決めているから地元に住み続けている」と語っていたが、地元の横浜でじっくり時間をかけて仕込んだ噺を披露するという時は、やはり「金儲け」を超えた「芸を磨きたい」という真摯な姿勢で演じていたのだろうか。
しかし、不思議なことである。二つ目時代から古典をやりたいと思っていた、と本人は言っているものの、師匠の古今亭今輔、桂米丸は新作寄りの人である。そもそも落語芸術協会は円朝もののような重い古典は専門では無い。何が歌丸の大幅な路線変更となったのだろうか。我が古典芸能部顧問、川崎先生に伺ったところ、非常に興味深い事を教えていただいた。
昭和の落語史に時々登場する「一朝老人」とういう人がいる。かの円朝の弟子である。明治から昭和初期まで生きていたというシーラカンスのような人で、その技術を継承した主な人物といえば当時の扇遊亭金八(林家彦六の初期の名)だという事は有名だ。舞台装置や小道具を用いる芝居噺の稽古をつけられた林家彦六はのちにその芝居噺の第一人者となる。円朝の記憶を昭和の名人に橋渡しした人物、それが一朝翁であった。ここからが面白いのだが、実は円朝の噺を一朝老人から教わったのは、林家彦六だけでは無い。一朝に芝居噺や円朝ものの怪談を仕込まれたもう一人の人物、それが歌丸の師匠、古今亭今輔だったのだ。古今亭今輔は地方出身のため江戸弁を使いこなせず、一朝老人には円朝ものを演じる素質が無いと、早々に諦められてしまったのだとか。だからこそ古典落語ではなく、標準語で一般受けの良い新作へシフトしたのだそうだ。
いやはや、まったく川崎先生の知識には驚いた。
歌丸が師匠からそのようなことを聞いたかどうかは解らないが、あえて古典を封印している師匠の姿から、なにかを感じ取ったことは確かだろう。今輔も米丸も新作専門だったので、当時の芸術協会の大御所、六代目春風亭柳橋から稽古をつけてもらったりしながら古典へと切り替えていった。昭和49(1974)年のことである。
だが、歌丸が円朝の長編に本格的に挑むのはそこから20年後のこと。先ほども紹介したように円朝ものを数多く手がけた三遊亭円生のビデオをもとに、見事な「栗原宿」を作り上げた。
歌丸の「栗原宿」はいつか生で聴きたいと思っているが、なかなか叶わない。仕方が無いので「怪談牡丹灯籠」を通し公演で録音したCDを聴いてみた。
「怪談牡丹灯籠」はとても長い長い噺で、そのあらすじを紹介するだけで疲れてしまうから、今回はそれを省くが、兎に角長くて難しくて複雑な因果話なのである。
聴いてまず思ったことは「桂歌丸は平成の三遊亭円生じゃないか」ということだ。口調、間、言葉使いがよく似ている。円生の「牡丹灯籠」のエッセンスを吸収、再構成していたというのが良く解る。難解な江戸弁を東京の言葉に直した、多くの層にわかる「牡丹灯籠」だった。
その中で秀逸だったのはやはり「栗原宿」。江戸で主人の萩原新三郎を殺し、栗原宿まで逃亡した伴蔵お峰の夫婦、悪事を働いて得た金で開いた店が繁盛するが、大金を持つようになってから旦那の伴蔵は少しずつ罪悪感が無くなっていき、欲深く腹黒い男になる。商売女との浮気がばれた伴蔵は外出先の森の中で音も無くお峰を殺害する。という下りだ。前話の「お札はがし」では気弱な小悪党だった伴蔵「栗原宿」になるとどす黒い欲を持った男へと変貌する。「牡丹灯籠」の中でも最もサスペンスな幕で、特にお峰殺害の場面には思わず背筋がぞわっとした。
円朝の創った壮大な因果話の中でも人の欲や負の感情が吹き出してくるところを、扇子と手ぬぐいのみで再現するのは並大抵の技量の者ではできない。多くの場合は演者がストーリーの重みに耐えきれなくなってしまうのではないか。女房に背後から音も無く忍び寄り斬りつける残忍な男の欲望を絶妙な間で表現した桂歌丸のそれを聴いたとき「この人こそ現役の中で円朝ものの真髄にもっとも近い噺家だ」と思ったのだった。
現在、桂歌丸は「牡丹灯籠」に並ぶ長編怪談「真景累ヶ淵」の全てを録音に挑戦中だそうだ。すべての因果が明らかにされるまでを録音する完璧な音源化は、六代目三遊亭円生ですら到達していない域であり、これをもし成功させれば、落語史にとって大きな足跡となることだろう。桂歌丸の円朝ものへの取り組みはまだまだ終わらない。
そして平成にまでその名を轟かす落語の神様、三遊亭円朝に私は更なる興味を持ってしまった。
特別企画第一夜はここまで。次回もお楽しみに。
2011年10月14日 17時48分39秒 (Fri)
いそがしくて・・・感謝。
こんにちは。お久しぶりです
凌雲です。
9月の下旬から文化祭、体育祭、中間等々で忙しすぎて、なかなか記事が書けませんでした。ひどい時なんて学校20時に出て次の日家出るの5時とかでしたから。ええ、書けませんでしたよ。
わが古典芸能部に浅草の方が興味を持ってくださいまして、アチャラカ軽演劇に招待されることになりました。うれしい限りですねえ。ありがとうございます。ムーランに始まってずいぶんと深く掘り下げてこられました。充実した研究が行えそうです。
もう一点、ムーランの際、大変親切にしてくださり今なお、親切にもおつきあいしていただいている野末先生に落語会にご招待いただけるとのこと。野末先生ありがとうございます。古典芸能部のみんなも大変喜んでおります。私ごとですが、落語をやっていながら、寄席に行ったのは学校の校外研修のときのみでして・・・イヤぁ、生の落語が見れると思うとほんとにありがたいです。本当にありがとうございます。
そういえば、ムーラン舞台挨拶時の写真を石川様より頂戴いたしました。ありがとうございます。アルバムに入れて大切に保存しておきます。
こうやって書いていくとたくさんの方々にご迷惑をおかけしていることがわかります。すいません、ありがとうございます。
ただ、もしかすると海城の中で一番大きなことをしている部活かもしれません。
皆さんこれからもよろしくお願いします。
あと・・・部員のみんな、記事書いてね!?
海原亭 凌雲
凌雲です。
9月の下旬から文化祭、体育祭、中間等々で忙しすぎて、なかなか記事が書けませんでした。ひどい時なんて学校20時に出て次の日家出るの5時とかでしたから。ええ、書けませんでしたよ。
わが古典芸能部に浅草の方が興味を持ってくださいまして、アチャラカ軽演劇に招待されることになりました。うれしい限りですねえ。ありがとうございます。ムーランに始まってずいぶんと深く掘り下げてこられました。充実した研究が行えそうです。
もう一点、ムーランの際、大変親切にしてくださり今なお、親切にもおつきあいしていただいている野末先生に落語会にご招待いただけるとのこと。野末先生ありがとうございます。古典芸能部のみんなも大変喜んでおります。私ごとですが、落語をやっていながら、寄席に行ったのは学校の校外研修のときのみでして・・・イヤぁ、生の落語が見れると思うとほんとにありがたいです。本当にありがとうございます。
そういえば、ムーラン舞台挨拶時の写真を石川様より頂戴いたしました。ありがとうございます。アルバムに入れて大切に保存しておきます。
こうやって書いていくとたくさんの方々にご迷惑をおかけしていることがわかります。すいません、ありがとうございます。
ただ、もしかすると海城の中で一番大きなことをしている部活かもしれません。
皆さんこれからもよろしくお願いします。
あと・・・部員のみんな、記事書いてね!?
海原亭 凌雲
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