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部長の部屋

2013年11月3日 10時45分10秒 (Sun)

黄金餅

九月までに書くと言いながら、もう十月の半ばになってしまい、編集委員の徳さんには申し訳ない気持ちでいっぱいである。イヤネ、あたしもいろいろと忙しいのよ。加えて部誌用の文章の更新が失速気味なのは、言葉を発するのに年々慎重になり、もったいぶってきているからなのだが。
自意識過剰というものから逃れるのはなかなか難しい。要するに、なにか言うならいつも上手いことしか言いたくないのだ。気分をのせるのもむつかしい。

さて、一月も前の文化祭のころの話を振り返って、私がここの部長として文化祭をやる最後の年の感想というか、そんなもんを書きたいと思う。
私はもう部長職の辞表を出したつもりだけれども、そこんとこ、どうなんでしょうな。まだもうちょっとだけやるのかしら。

今年の文化祭で意識したのは、やはり後輩への引き継ぎだ。
私たちの学年が引退するとけっこう部活も活動の形態が変わってこようし、大所帯で成り立っていたところは変更せざるを得ないだろう。来年度の後輩がそのあたりで困らないように、去年から講堂での特撰会のようなことも始めた。少人数になったとしても、海城祭で生き残れる(?)ような工夫である。文実は前年度の活動を基準にしているから先例を造っておいたのだ。やたら抜け目のないあの組織に何とか存在意義を認めさせることが必要であった。
落語は寄席形式と独演会形式という二つの形式があるから、両方いける方がよろしいとも判断された。後輩諸君には寄席では軽めの噺をこなし、講堂でじっくりお気に入りの大作をやってもらいたい。逆はいけない。どちらかに偏るのもまずいんじゃないかな(なにを偉そうに言ってるんだか)。

私の個人的な集大成ということも意識した。
今の高二の今の私の落語に対するイメージというか「こういう世界が面白いのだ」という主張を、人に伝わるかどうかは別として、表現してみようと思ったのである。
典型的な落語かぶれの学生として、立川流にすっかり毒された私は「人情噺は特別に偉くないし、そういうものを表現する手段としてなら別に落語にこだわる必要はない」と思っている。落語がもっとも効果的に表現できるのは人の心のいい加減さとか不条理さに違いないと、私は強く信じている。故談志の意見の丸写しのようになっているが「業の肯定」「イリュージョン」というあの世界が私の好きな落語なのである。だから今までの文化祭の発表を振りかえってみると「らくだ(中二)」「三方一両損(中三)」「へっつい幽霊(高一)」「蒟蒻問答(高一)」など、私のやりたがる噺というのもそっちの系統に傾く。熊谷先輩の送別会のために「淀五郎」モドキをやったことがあるけれども、話しているうちになんか下腹のあたりがむずがゆい気持ちがした。これは素人の自分がやったらひどいことになるぞ、と思った。こんな人情臭い噺を大真面目に語っているが、自分は人生の厚みも人格の高潔さも持ち合わせていないじゃないか、ああ苦しいな。という具合である。
素人でもなんとかなるのは噺それ自体が非常識な時だ。その時は私が芸をやっていても落語の神様に見過ごしてもらえているような気がするのだ。噺が面白いのだから私が面白くなくてもうやむやにできる。よかったね、と。
プロが非常識な噺をやるのを聴くときはうっとりしてしまう。ライブで見たことなんて一度もないけど、八代目可楽の「らくだ」は今も私の一番である。志ん生の「黄金餅」もいい。柳好の「野ざらし」もいい。あれまあ、死体がでてくる噺ばっかりだ。父に私の趣味を話したら「おまえはネクロフィリアか」というご指摘を頂いた。いや、それはないよ。
ちなみに早すぎた埋葬、というのとかも好きです。落語じゃないけど。
人が死んだらどうなるのかというのはみんな考える。プラトンは「哲学は死の練習」と言ったそうな。ショーペンハウアーは「人間は一刻一刻意識しながら死に近づいていく」と言ったらしい。考えてもわからないからみんな何とか解釈をしようと頑張っている。宗教に行き、ニヒリズムを弄び、唯物論を唱えたり、千差万別であろう。どれくらいの種類があるのかは知らないけれど。
唐突に社会に放り出されて唐突に消されてしまう、そんな不思議でどうしようもない現象が人生じゃないのかしらん。私は若造だから、そういうもんだと納得していることが、いちいち大発見のように感じられる。

それにしても死は不思議なものだ。確かに科学が肉体を物質として解明しつつあるから、その説明体系からはみ出ないかぎりは、不思議でもなんでもない。人間という細胞のあつまりが劣化したり破損したりして活動をやめることだ。しかしこれは唯物論だ。おもしろくもなんともない。それに、ある公理体系をつくってもその内では真偽が判定できない命題がある、という考えもあるじゃないか。人が死んだらどうなるか、という問いに自然科学は答えることはできるか?私は文系に進学するつもりだから、理系の人々にはこうやって立ち向かってやろう。しかし武器が言語だけとは、貧弱なこと。
ちょっと待て、文系って屁理屈こねるだけで生産性ないぞ、というのは置いておこう。私は数学的な推論も好きだから問題ない。
とにもかくにも、死んだらどうなる、という問いは不気味で、理屈ではどうにかなる話ではないと私は思う。理屈でどうにかならない話は落語でやるに限るのだ。そういう落語が面白い。
しかし死がテーマだからといって圓生の「真景累ヶ淵」は違うのだ。因果とかそういう仏教の考えにのっとっている話なので。私が好きなのはもっと体系づけた説明が困難な死そのものについての落語だ。


立派なはずの大家さんが立派じゃなかったり、馬鹿の与太郎が真理をつくことを言っていたり、落語というのは本当はそういうことを言うためにあるのではないか。みんなが了解する常識に挑戦してみるのだ。
社会が円滑に進むために理解不能なことやどうしようもない衝動を常識でみな封印しているが、ほんとうはそんなものはあっさり突き崩されてしまう。なぜかというと本質的に人の認識というものは曖昧で不合理な面ばかりだからだ。ぼんやりもやがかかったモノに合理的な解釈をつくることは、全てその場しのぎにしかならない。さっきの「死」にしたって、みんなが持っている『遺骸は丁寧に扱おう』とか『死んだらみんな仏』とかいう了解をひっくり返すことは可能なのだ。不気味なものを納得する為の常識を、落語が崩すのである。
人はセコいし意味不明で、社会は不合理でぼんやりしているが、なぜか今は生きてるね、みたいなことを思うと私は面白い気がする。いや、面白くないときもあるだろう。でも私は両親のおかげで家の暮らしや気持ちに余裕があるから、面白いと感じられる。不条理に追い詰められたらそうはいかないかもしれない。
とまれ、落語はそういうおはなし向きなのだ。江戸の貧乏長屋でおこる人間模様は社会の常識がときおり現れる非常識に翻弄される様子を描いている気がする。
とりわけ貧乏長屋の葬式となると、なにが起こるか解らない。昨日までは人格をもった人間が今日からは処理されるべき物になって好き勝手に社会から排泄されるという奇妙奇天烈なことが、常識と非常識の狭間でゆらゆらしている人間たちの間で行われるのだから、いくらでもいろんなことを考えるきっかけが有りそうな気がしてくる。だから私は素人芸なのは十分承知しながら「黄金餅」をやりたくなってしまったのである。
この噺の登場人物はどれもみんな面白い人たちばかりだ。金に執着して死んでいった西念と、もともとは平凡な長屋の住人だったが徐々に常識から逸脱していく金兵衛、有り難さなんてちっともない貧乏寺の和尚等々、どれもスピンオフ作品が作れそうな面々だ。
西念が貧乏長屋の坊主として長屋のいいかげんな弔いを次々にさばいていく噺とか、つくってみたら作れるのではないだろうか。あと、らくだと取り違えられて死んだのは、実は寺にすら住めなくなった木蓮寺の和尚で、それを焼いたのは黄金餅にでてきた隠坊だったとかなんとか。ちょっと無理があるか。こうやって落語のパロディをやるの元祖も談志だったか。どこまで立川流にのぼせてしまったのやら。
私が参考にしてみたのは志ん生と、談志と、志らくで、結局志らく風のアレンジをいっぱい取り込んだイリュージョン落語のまねごとをしてみよう、ということになった。

私が志らくの黄金餅がいいな、と思った理由を書くとまたとりとめのない話になってしまうが書いていく。
黄金餅の見せ場の一つに、餅をむさぼり食っている西念と、それを壁の穴からのぞく金兵衛を演じるところがある。あれは気をつけないと冗長になってしまう所である。これはどうにもリアルにやるのが難しい。その場面を見てきた噺家が軽くモノマネをして「そのとき西念は◯◯しました」的な三人称語り風に西念の様子を話すような感触になると、臨場感が薄れてしまうのだ。あるいは金兵衛がひとりごとなのにやたら観客を意識した説明口調でぼやいているのも興ざめである。
金兵衛の目線でとらえた西念なのか、神の視点でみた西念なのかでも、印象がかわってくる。志ん生や若い談志はどちらかというと神の視点であって、西念の異常性をもっと大袈裟に表現できたものをやや控えめにしてしまっている。文字におこしても伝わるような落語はいけないのだ。落語は文字しかない文学より表現できる幅が広いのだから、用いる形式は小説ではなく映画であるべきだ。
志らくは映画通を名乗るだけあって落語的なカメラワークが上手く、西念の動きと金兵衛の独り言の間が絶妙である。観客はまるで金兵衛の視点でいるかのように錯覚できる臨場感ある場面となっている。金に執着して死にきれない西念を見て金兵衛が「うわー、地獄絵だね」とこぼすところが映画のような流れになっているのがとても良い。しかも、餅を飲む西念をやる時は本当に汗をかいて青筋をたてていたから彼の技能には脱帽ものである。
ときどき体を大きく動かしたり、顔の高さを変えてみたり、高座をドンと叩くことで急な場面展開を行ったり。落語的なカメラワークを意識してみると、志らくの巧さというのは半端ではないということが良くわかってくる。

また志らくオリジナルの展開で、西念が生きているのにだれも気づかずに葬式をだしてしまう、という内容に変わっているところがある。桶の中の西念がなぜか香典を握りしめて離さない(生きている)のに、長屋の連中は死んだと思い込んでいるから「気持ち悪いなあ」と思うだけで西念を葬ってしまうのである。長屋の暖かい人情、みたいなモノが昨今もてはやされ気味で、地域社会の相互扶助という暖かみのある価値観を日本人は失ったのだ、というような意見が正しいかのようであるが、本当にそうなのか、という思いが残る。結局みんなが西念の葬式を出してやっているのは始末しないと死体が腐ってしまうから、とかケガレたものを近くにおきたくない、とか利己的な理由によるもので「ホトケさまを大事に」というような意味合いではなかったのか、と思えるのだ。西念は本当は死んでいないけれども、みんなが死んだと思って焼いてしまったから本当に死んでしまった、というブラックな笑い話である。長屋の連中は常識に従って行動しているようで、生者を死者にしてしまうという非常識を引き起こす。この二つは境界が曖昧なのである。それにしても凄まじい噺だ。

また、談志から受け継いだ「イリュージョン落語」の部分も面白い。落語のなかに突然ぶち込まれるギャグのセンスの良さは一級品だ。
ここで、黄金餅の系譜として「志ん生→談志→志らく」を考えてみると、このイリュージョン的な要素の原点は志ん生にあったのではないかと思う。
有名なフレーズだが、志ん生は「寝床」の中で「ドイツに行っちゃった」と言った(談志は師匠の三五楼が使い始めたクスグリだと言っている)。なんで「ドイツ」なんだと思いながらこの圧倒的な面白さには適わない。談志は「カムチャッカでサケとってる」と言ったそうだが、この流れをちゃんと受け継いでいると言える。そして談志からこれを受け継いだの体育会系っぽい落語の談春ではなく、志らくだろう。
無意味な言葉の羅列の中に、どうしようもないおかしみがあったりする。これを下等なギャグといい、落語は様式美だと言って志ん生を評価せず、文楽や三木助ばかり褒める昭和の文士たちはよくなかった(コレは談志がいろいろなところで言っているのダガネ)。今でも私は可楽の「らくだ」が傑作だと思っているが、同じ世代で彼と共に貧乏暮らしをした志ん生の世界も好きだ(二人は落語の捉え方にどこか似たものがあったと思う)。落語に親しむにつれて、昔は意味不明だった志ん生の「ヘビから血が出てヘービーチーデー」という台詞が今では堪らない。金を餅にくるんで必死で体に詰め込んでいるグロテスク極まりないシーンにぼそっと「私は金持ちとでもいいたいのかね」とこぼす了見がいいのだ。最高だ。
談志はその堪らない瞬間を「イリュージョン」と表現したのだ、と思われるがどうだろう。私は「現代落語論」と「新釈落語噺」しか読んでいないのだから、あまり偉そうな事は言えない。
余談だが、可楽の「うどん屋」で「仕立て屋の太平知ってるか?」「さあ、畳屋の喜兵衛さんなら知ってますが」と返すところがあった。これは駄洒落の域を出ていないかもしれないけれど、イリュージョンの一歩手前なのではないか。会話の脈絡が壊れかかっている。畳屋の喜兵衛はどこから出てきた。柳家小さんは「存じませんな」と返してしまうだけだったが。
では志らくが「黄金餅」にぶちこんだオリジナルの部分とは具体的にどういうものかというと、例えば寺まで死体を担ぐことになって「桶は誰が担ぐの?今月と来月の月番か。今月は?猫の蚤取り。来月は?猫の皮むきか。猫ばっかりだね」「ええ、猫でこの長屋食ってますから」というシーンはどうだろうか。
雑誌ガロの残党みたいな美術部の先輩(つげ義春信者)から、水木しげるの貸本漫画で「怪奇猫娘」というのがあった、という話をきいたことがある。猫で生計を立てていた親の子供が猫の呪いを受けて猫娘として産まれてしまうのだが、生まれつきの不気味さから不当に差別を受けて社会からはじき出されてしまうというお話だそうだ(後にこの女の子が鬼太郎の仲間の猫娘になる)。
これを聞いてから、私は貧乏長屋と猫の相性というのは結構いいと思うし、猫で生計を立てている長屋である、ということが一層貧乏を強調している感じがでて巧いフレーズだな、と思った。志らくは水木しげるを読んでいたんじゃなかろうか。無理がある?立川流は手塚治虫系なのか。あの人は顧問だったし。でも落語に合うのは水木しげる系だと思われる。
さて、このあと木蓮寺につくと門前のやりとりで酔っぱらった和尚が遠吠えの様な奇声をだすと、それに対して長屋のやつらが「ミャアアアア」と猫の鳴き声で返事をする。これを「ニャーンていってらぁ、しょうがねえな」と流して終わり。客は笑うところなのかどうか、解らない。というか、あまりに唐突な間なので誰も反応していない。いったいどうして猫の鳴き声なんか出すか。私はこれを「気違い」の異名を持つ志らくの意味不明な気まぐれではなく、貧乏長屋の住人らしい受け答えなのかもしれないと思えてくる。猫とはイイね。犬とか象とかじゃ駄目なのだ。猫に限るのよ(ちなみに猫の皮むきも蚤取りも江戸時代には商売として実在する)。
談志も「寄席って何するところですか」「お金払って笑いに行くの」「なあんだ、じゃあ家で女房にくすぐってもらう」という噺に「友達にくすぐってもらう」と言った若手をみて「冗談じゃねえ」と憤慨したとか、しないとか。
「女房」が「友達」に変わった瞬間にもう、ケチな了見から起こる笑いが死んでしまうのかもしれないのである。所帯染みた雰囲気のなんともいえない部分が消えたらもうおしまい。所帯もったことねえけどさ、想像力を働かせて解ったふりはしていたい。
江戸の世界をぶち壊すグロテスクなフレーズと、さらに江戸らしさをデフォルメできるとびきり冴えたフレーズというのがあって、たぶん客のわからないところで落語家は後者を考えだそうと苦心しているのだろう。
談志が定義したイリュージョンとは本気の無秩序な狂気なんかではないのだろう。仮に本物の原始人を見られたとしても、現代人が原始人のふりを精一杯している方が面白いと、太田光とだったかの対談で言っている通りだ。つまり、言葉ではなかなか表現しきれない人間のドロドロした部分をうまく突くフレーズは本当に「適当に」決めてはいけないということだ。偶発性になにもかも委ねて芸術であると称するのはちゃんちゃらおかしい。そういう紛い物の素人芸に高値をつけるのは馬鹿である。裸の王様である。
狂気に見えるのは外面だけで、客と落語家の感性の線が交叉するような点をみつけるには大変に理性的な考察を要するのではないだろうか。

落語「黄金餅」は志ん生の十八番が談志の十八番になり、志らくの十八番となっていくのだろう。現在生きている落語家で「黄金餅」が一番うまいのは志らくであろう。これからもっと面白くなっていくに違いない。
落語って何がすごいのか。それは「黄金餅」なんていう話で客が笑ってしまえることなのだ。

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