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部長の部屋

2012年4月22日 17時27分49秒 (Sun)

春ですね。

日々の活動に関係する記事はあまり書かないで、他の部員にやってもらうようにしているのですが、そろそろ誰かに「部長の部屋書かないと閉鎖するよ」とか言われそうなので、苦し紛れに書きます。

今週はなんと二回も落語会に出かけてしまいました。夢空間様のご好意に感謝しております。
そこで、偶然ですが水曜の談笑師匠の独演会と、よってたかって落語会の市馬師匠の演目が「花見の仇討ち」でありました。もっとも、この季節に寄席にでかければ必ず誰かが「花見の仇討ち」を高座にかけるものですが。談笑師匠は「おせつ徳三郎」もやりました、一応あれも桜の季節ですが、季節感よりもお江戸のロマンスが重要ですな。普通は「花見小僧」と「刀屋」で分割するものですし。花見の時の逢瀬がバレてから、刀屋に徳三郎がかけこむまでの時間軸もはっきりいたしません。もっと『桜の木の下の恋物語』な演目だったら「崇徳院」がいいですね。セオハヤミーって先代の円楽がやってるCDはなかなかのものですよ(僕は百人一首であれしか取れません)、桂三木助のも良い。誰かが恋患いするところから始まる落語っていろいろとあるわけですが、そういう風に始まるのではあれが一番いい。男子高校生で女友達もいなく況や彼女をや、な僕はディープな男女の話は解せぬ年頃ですから、ああいう中高生の一目惚れみたいなシチュエーションで十分キュンキュンいたします(何を言ってやがるんだろうか)。
ちなみに僕の季節ごとのお気に入りを挙げますと夏は「船徳」と「たがや」あと「後生鰻」。冬は「夢金」とか「らくだ」あと「御神酒徳利」。ええと、秋は何でしょう?秋の落語ってありますか?目黒のサンマか。
話を「花見の仇討ち」に戻しましょう。
一応、僕なりにあらすじを説明しますと、

町内の若い衆四人が集まって花見をしようとなったが、ただの飲み食いじゃつまらねえ、なにかおもしろいこたあねえかい?となり、江戸中をアッといわせる花見の趣向をしようじゃねえかとなる。四人で牢人侍、巡礼兄弟二人と六十六部になりきって、仇討ちの芝居をしよう。飛鳥山のてっぺん大きな桜の木の下でタバコをふかしている侍に兄弟がでくわすと「やあやあ汝は何の某よな、何年以前に我が父を討って立ち退きし大悪人、ここで逢ったが優曇華の花咲き待ちたる今日ただ今、いざ尋常に勝負!」とチャンバラが始まる。物見高い江戸っ子が集まったところで六部が仲裁に入って「まあまあここは一つあたしにお任せを」と三味線をひいて、みんなでかっぽれを踊って飲み食いを始めると、見物人は芝居ということがわかる「イヨッ、できました!」となるはずだったのだが、なんと六部が集合場所に向かう途中で本所に住んでる親戚のオジさんに絡まれて来れなくなっちゃった。そうとは知らない兄弟と牢人はチャンバラを始めたが、血の気の多い本物の侍が助太刀と乱入、みんな怖くなって逃げ出したら「まてまて、まだ勝負は五分と五分だ!」「いえ、肝心の六部が来ません」でサゲ。

この噺の面白いところを僕は以下のように解釈します。
まず一つは「違う価値観のものを演じるとちぐはぐで滑稽だ」ということ。
「花見を楽しむのであったらちょっとくらいの虚構(フィクション)はいいよね」という若者ですが、「武士の仇討ち」という美学を遊びに用いたのがいけなかった。おかげで変な侍が助太刀なんて言い出して、笑い者にされてしまったのです。武士という人々の「フリ」はできてもなりきれることは無いから、そういう無理があとのドタバタの引き金になっていっているのですね。
次に「ご都合主義なエンディングはそんなには訪れないが、そっちのほうが面白い、いや、人生そんなもんだ」ということ。
こうやればうまくいくだろう、と準備しても世の中には不確定な要素だらけであり、それに翻弄されて計画倒れしてしまうという面白さ。ここでは本所のオジさんと、助太刀の侍が、当初の予定を狂わせて、そこに翻弄される若い衆が滑稽で面白いですね。頭の中でこさえた妄想が現実にあてはまらないという可笑しさは「湯番屋」の若旦那や「野ざらし」の若者の都合の良い桃色妄想が実際の世の中で成功しないという可笑しさにも通じていますね。
どちらも頭で物語を作り出して、それを実践しようとし、結果的に失敗しているという共通点があります。では、どうして頭で物語をつくりだしたのでしょうか。それは「花見」というワードに鍵がありそうです。
花見というイベントだって、ただ花見をして飲み食いするだけでは退屈なものです。人は多くてうるさいし、酔っぱらいだらけだし。
そこでみんな頭の中で「花見を楽しむウソ」を作り出すのです。楽しいと思えるようにストーリーをつくります。「桜は美しい」とか「新しい生活の始まり」とか「武士の魂」とかなんでもいいんですけど。そういうストーリーがあると、いろいろなことが愉快で楽しく見えたりすることがあるわけです。「巡礼兄弟の仇討ち」という寸劇も、花見をより楽しくする調味料なんですね。みんな楽しい方がいいから、頭で考えずにはいられないということです。だから、こういう滑稽さはどこにでも転がっていると、僕はおもいます。
立川談志だったような気がしますが「大家が折角こさえた嘘とやせ我慢の面白さを暴いて面白がる『長屋の花見』の連中は『桃太郎』のませたガキみたいで嫌いだ。嘘は嘘で楽しめ。俺は花見ってのは『花見の仇討ち』に出てくる連中の了見でいいと思う」みたいなことを言っていました(本に書いてあったんだっけ、そこははっきりしません)。
古典落語としてこのままやっても十分面白いように出来ていますし、市馬師匠はそういうポイントをよく押さえて正統派の「花見の仇討ち」を演じてくれました。さすがは副会長。

しかしです、今回僕がクローズアップしたいのは談笑師匠の「花見の仇討ち・改」のよく練られたシナリオの方なのです。

…。ですが、もう今日は疲れました。続きはまた今度。

2012年1月4日 16時42分23秒 (Wed)

其の拾壱〜特別企画第三弾〜

第三夜「圓生、圓右、累ヶ淵」

六代目の圓生は筆もたつ噺家だった。立川談志が革命的な落語論を出版してしまったために、あまり注目されていないかもしれない。彼の著作である「寄席育ち」「寄席楽屋帳」「明治の寄席芸人」「寄席切絵図」の四部作は非常に価値の高い文献だ。芸人が本を書くなんておこがましい、というのが常識だった頃にこういったことに挑戦したというのは、彼が類い稀な人物であったからだ。今でこそ噺家は伝統文化の担い手として敬われることになったが、それまではただの「寄席芸」だったであろう。
ホール落語、落語研究会、御前落語、圓生百席など、彼の功績の価値は計り知れない。
正藏か、圓生かということになると私はどうも圓生に傾く。落語の評論を読むと、落語通の間では私の趣味は野暮らしい。
圓生はなんでも出来たが、これという十八番が無いのだという人がいた。確かにそれはあるかもしれない。天皇陛下の御前で演じたという彼の「御神酒徳利」は三木助に比べて鯔背さが不足する。彼の「らくだ」は可楽に比べて省略美に欠けて、彼の「五人廻し」は正藏に比べ素早さが無いと思うが、圓生の落語の雰囲気は独特に深い。
桂歌丸が自分の看板ネタにまでした牡丹灯籠や累ヶ淵の手本は圓生のものだったという。だから、もし下手だったら参考にするだろうか。
落語通たちに不人気でも、彼の芸はあらゆる落語の手本を示す教科書になっているのだと思う。落語の世界が見渡せるような中心にたっていたから、十八番が無いように見えたのである。何故なら十八番とはその芸人の個性を存分に発揮できるものだからだ。しかし、彼が立っていた場所は芸人の個性を寄せ付けない所で、そこに至る努力はやはり凡人には不可能なことなのであったのかというと、それは違う気がする。圓生は個性的な芸をしていた。
実は圓生の個性とは教科書的な「雰囲気」なのではないか。そもそも芸において教科書などは存在しないが、人々はなぜか基準を欲しがってしまう。そうした時に彼の話芸が器用すぎるあまり、教科書のような存在となってしまったのである。これを詰まらないとしてしまう人は多い。
なんとなく、アンチ談志の人が志ん朝を「本寸法」と祭り上げて、談志を非常識な異端児に仕立て上げるのに似ている。志ん朝は「本寸法」でもなんでもなく、江戸前の美学という素晴らしい個性を持っていたのである。
「本寸法」という言葉には正統とか、本流とかいう意味があるが、私は「本寸法」という言葉が乱用されるのは心配である。完成形がある文化は死んでしまっているという事ではないか。私が言いたいのは進歩主義的な軽薄な発想ではなくて、落語という世界から、おのおのが何を引き出し、何を継承していくかを真面目に考えれば、名人と呼ばれる人はみんな面白いということなのだ。先人の模倣だけに従事し自分の手で広げようと努力しない人も、自分を過信して先人の模倣を意識せず無から有を創れると妄信する人も文化の担い手として駄目なのだ。
談志も志ん朝も違う面白さがある。やはり、私は落語そのものが好きだから「個人的な好み」と「面白さの発見」とを別にしたい。
圓生をつまらないと感じるのは好みの問題だと思うが、圓生に工夫が無いという風にまで解釈をするのはもったいないと思うのだ。
圓生に十八番が無いと言われるのは、圓生の茫漠とした落語の世界観に呑まれている証拠であると、私は考えている。
それに、私は彼の技芸だけでなく落語界のなかでの政治的な立ち回りや、落語という文化を隠しきれぬ野心でもって発信しつづけた人生に惹かれてしまうのである。圓生の野心や泥臭い努力を無粋と言いきるのはもったいないと思う。
圓生は当時、埋もれていた「真景累ヶ淵」を発掘した。その仕事は結果的に世間に手本を示すことになった。これは明治の空気を知っている彼の使命であったのだろうか。
圓生百席のインタビューによると、真景累ヶ淵を演じるときに、圓生が頼りにしたのは速記本と二代目の圓朝と言われた三遊亭圓右の記憶ということらしい。この僅かなヒントだけで圓生の「真景累ヶ淵」を構築したのである。
では、圓生が再構築したということになれば「圓朝もの」の歴史というのは、幕末のころに圓朝が夢想した怪談の世界を圓生が発掘したことによって、再出発をしたということにもなるのか。明治と昭和の間には決定的な断絶があり、圓朝の世界観は誰にも味わえないということになるのだろうか。
私はそう思わない。圓朝が演じた怪談そのものには出会えないが、圓生の力量によってその世界は継承されている。パラダイムなどという物に関係なく、幕末に生まれた文化は三遊派の系譜によって受け継がれているはずだ。素人並みの鑑賞眼だが、芸とはそういうものだと思っている。
本居宣長の言葉に「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」というものがある。言葉をまねるのは難しく、意をまねるのは簡単なのだと。これは小林秀雄の「本居宣長」からの受け売りである。普通は逆だろうが、そうではない。
言葉には姿があって、意には姿が無いから、意を人の口まねで理解した気になっている人は何も解っておらず、言葉の姿を無視して大義を学ぶことなどできる訳が無い。言葉があるから意があるのだ、ということらしい。悲しみを理解してから泣く人はおらず、動作としての言葉があってから意があるのだ。
無秩序に秩序をもたらす言葉こそ、真似をし難いものだ。これは、古事記や万葉の言葉を江戸にもたらした彼が至ったことである。つまり、言葉の力から我々は逃れられず、我々の観念や感情を形のあるものに変えられるのは言葉しかないということである。俗世の心で高尚な言葉を理解することが何よりも難しいのだ。
小林秀雄はもっと丁寧に説明してくれているのだが、まとめるとこうなる、はずだ。中学生には小林秀雄は難しいので、私が誤った解釈をしているかもしれないけれど、ともあれ、落語は文学と違い、声を出して演じるものだから、なおさら言葉の一つ一つの力が強くなるだろう。
並の芸人であれば、確かに圓朝の言葉を昭和の世界に持ち込むことは出来なかった。だが、圓生はやってのけた。彼のすごさはつまりそういうことだ。
圓生が真摯に圓朝の言葉に耳を傾けて、その真髄を汲み取ったならば、そこには文化の継承は存在する。圓右のコピーをしていては上手くいかなかったろう。それは言葉を軽んじて何も理解しないことになる。
ここで先ほどの話だが、「本寸法」の志ん朝の落語をコピーしてコアな落語ファンを喜ばせていては、落語は衰退すると。談志流に言うと「能のようなもの」になる。文科省の予算に組み込まれたつまらないものになる。私はこのように、保護するよう風を装って我が国の文化を殺す動きが少なからず存在すると思う。圓朝のコピーをするのが落語では無い。圓朝の生んだ「言葉」やそれ以前の歴代の名人達の残した「言葉」の意味することやその力を理解することが生きた文化なのである。
圓生が落語研究会に膨大な映像を残したのは自分の芸をコピーさせる為ではなかろう。技術の力なしでは会えなかった人が昭和の名人達の「言葉」に接することができるようにとの彼の思いがある。
初代三遊亭圓右は圓朝の弟子の圓馬の弟子の圓橘の弟子である。つまり圓朝のひ孫弟子にあたるが、生きた年代が乖離している訳では無い。真景累ヶ淵の世界を描きだすためには、圓朝が創った「意」と、速記本によって文字に変換された圓朝自身の「言葉」さえあれば、それで十分だったのではないか。
あるいは、文学として残された圓朝の噺と、圓右によって演じられた生の肉声を知ることができれば、圓朝の世界を昭和のころに持ち込めるであろう。
幼少のころ、まだ義太夫語りだった圓生が舞台袖からちらり、と圓右の姿を見ていた。
これだけのものがあれば圓生の努力によって圓朝ものの真髄に至ることは不可能では無い(もちろん、圓生にこそできた事業ではある)。圓生に限って、芸に全く新しい革命を起こそうなどという、伝統を軽視した下らない野心を持っていたはずが無いのだ。彼は真景累ヶ淵を演じることによって歴史の重みのようなものと相対したのだと思う。

「あの人(圓右)のやるってえことは短い時間にやる。宗悦からお長屋の衆までせいぜい十五分くらい、はじめっから(圓生は四十五分)。その短時間にそれだけやって客を満足させるくらい上手かった。それまた言えば、我々には出来ない、大した腕があるから、それだけのことができて、ですから大したもんですね。ですが、荒っぽいのは荒っぽい。圓右師匠の噺ってものはね、上手いけれども、なんていうんですか、三席ぐらいね、三十分ぐらいでぱーっとやっちゃう、楽屋に一朝さんておじいさんがいて聞いてて『しょうがねえなこんなことじゃ』てタバコのみながら文句いってるんでね、ヘヘッヘ」
(圓生百席55収録 芸談より)

2011年12月20日 16時36分46秒 (Tue)

其の拾〜特別企画第二弾〜

第二夜「怪談噺に対する姿勢」

 三遊亭円朝は明治の人である。彼の支持者だった二葉亭四迷とか、志賀直哉あたりの記述を探して、すこしでも明治の雰囲気を感じようと思うのだが、見当たらない。小島政二郎と正岡容の小説にも目を通したがまだ物足りない。森まゆみ女史のエッセイも読んだ。円朝のものを録音した「昭和の名人の」音声データも聞いたが、それだけである。
さて、こんないい加減なもので良いのだろうか。岩波文庫の速記本をもちだして読書感想文にするという手もあるが、しかし手口があざとい。
 圓生師匠の「真景累ヶ淵」を聞いたので、それの感想などを一つ。
 この「真景累ヶ淵」は三遊亭円朝の作。全くのオリジナルである。
 日本人はなにかあると「ああ、因縁なんだ」と言う。自分の産まれる以前から続いたあらゆることが、様々に絡み合って現在を決定しており、もはやどうしようもないなあ、と思う時があるだろう。ナポレオンのお抱え学者にラプラスという人が居たが、彼が言った「未来は全て決定している」という発想から生まれた「ラプラスの悪魔」に近いものがある。もっとも不確定性原理なるものがあってそれが「ラプラスの悪魔」を否定できるのだそうだが、それは本稿の目的から逸脱する。わたくし、こういう蘊蓄が好きなのである。
 さてこの「因縁」というものを色々に考えて創作されたのが「真景累ヶ淵」である。怪談ではあるが、ただおっかない噺という訳では無い。また道徳的なメッセージが込められているものでもない。「因果は巡る」ということが込められた噺である。
 これを圓朝が創ったきっかけについて小島政二郎「圓朝」が詳しい。幕末のころ、芝居噺というものが流行った。道具や鳴りもの、声色などを用いてやる噺のことで、最近では林家正雀師匠が演じている。この芝居噺で当時の圓朝は売れた。
 しかし、この師匠にあたる二代目の圓生が弟子に嫉妬して、圓生がやろうとする噺を寄席で先にやってしまうという嫌がらせをする。もともと怪談や幽霊が好きだった圓朝は完全に新しい噺なら師匠に邪魔されることは無いだろうと思い、この「真景累ヶ淵」を創作したそうな。
 であるから、この怪談噺は始めは鳴りものや道具を使ってやっていて、「かさね」とか「累ヶ淵後日の怪談」というタイトルだった。これが江戸で大流行する。彼が初めて創ったこの怪談は生涯にわたって改良されている、いわば代表作かつ処女作なのだ。
 彼が三十二歳のころ、芝居話に決別をして素話だけを売り物にしようと決意したとき、売り物の「かさね」のタイトルに明治のころに流行った「神経」という言葉をつけ、違う漢字で表記しようと提案したのが圓朝の隣に住んでいた忍信夫恕軒。漢学者だったとか。
 圓生は「大変に怪談噺をするものには都合の悪いことになってきました」と語る。ここで断見の論、というお釈迦様の話をはさむ。「釈迦と言う悪戯ものが世に出でて多くのひとを惑わするかなという、えーひとつ、これは風刺したものでございましょう」と。これは圓生の創作した枕、というよりは圓朝の教養から生まれたものらしい。
 正岡容氏は錦城齋典山という昭和初年の名人が、怪談噺を読む際に「開明の今日は、ちと馬鹿馬鹿しいお話で」と断ってしまうのと、圓朝のそれを比較し、

けだしモガモボ時代の昭和初年も、鹿鳴館花やかなりし明治開化期も、いずれは同じ米英化一色の時代である。その時に当って我が圓朝は敢然と開化人を膝下に集めて時下薬籠中の怪談のスリルを十二分に説きつくし、典山のほうはこの醜態を曝露している。今日、神田伯龍あたりが意味なく時代に迎合してせっかくのお家芸をば放棄している、思えば無理からぬ次第といえよう。

と、「小説 圓朝」の中で述べた。
 六代目圓生は「あたまからこれは絶対無いといって決めてしまうべきものではないんじゃないかと」。怪談を馬鹿馬鹿しいなあ、と切り捨てることはしたくないようで、良かった。さすがは六代目圓生。
 少し話は変わるが、立川談志が沖縄に旅行かなにかで出かけた際、そこの子供に「どうしておじちゃんの頭は青いの?」と聞かれたそうだ(前髪が緑色のころがあったでしょう)。そこで談志は「神様が青くした」と答えた。「うそだよお」「そう考えたら、楽しくない?」
 「オレも変なこといったな」と思ったそうだが、怪談噺に対する姿勢も、そういう感じでいいのではないかな、と思う。

 圓生の「真景累ヶ淵」の感想まで辿り着けそうに無いので、今日はこのあたりで勘弁して下さい。次回はこんな薄っぺらなことは書きませんから。

2011年11月28日 18時10分31秒 (Mon)

其の玖

二十六日、「五代目円楽一門会」に言って参りました。その感想をちょいちょい、と。
まずプログラム。
img_20111128-181113.jpg
演芸場を出るときに壁に貼ってあります。
三日間のうちの二日目ということで、目玉は好楽、王楽の親子がでる、という事でした。好楽さん、なんでもあの五代目圓楽の十八番「浜野矩随」を高座にかけてくれる、という噂があって、私はそれが観たかったのですが、期待はずれというか「胆つぶし」でした。
王楽さんは、人妻に手を付けた間男がその旦那の前で色々と慌てるという「紙入れ」をやってくれましたが、私はテクニックがあるけれども、わざとらしかったと感じてしまいました。二世の噺家というのは技巧に走って面白みのない噺になりやすい傾向が...、と素人の学生がもっともらしいことを言うんじゃない。
昔柳家三三を取り上げたドキュメンタリー番組で、三三が師匠の小三治に「利口がわざと馬鹿になっているのがわかる与太郎なんか最低だ」と叱られた、と話したことを思い出しました。若いうちは力が入りすぎるのかもしれません、と素人の学生がもっともらしいことを言うんじゃない。
色物のナポレオンズ。寄席の手品っぽくて良いですよね。最前列に座っていたので特製シールも頂きました。ああいう開き直った感じの手品が好きです、うまくやってやろうとか思わないでお客と一体でやるのが寄席芸だなあ、と。
私がその日の一番に推したいのは三遊亭圓橘師匠の「蒟蒻問答」。この「蒟蒻問答」自体が噺として面白いし、それを圓橘師匠がやってくれたのでした。以前に紹介した「御神酒徳利」や「文違い」のような「ある事象に対してそれぞれの人の解釈のズレ」が盛り込まれていて良いなあ、と。すれ違い、勘違いは喜劇にも悲劇にもなるもんで、面白い。それを同じところで笑えるというのはつまり観客の我々が江戸で培われた道徳を共有しているからなんでしょうね。昔はお坊さんが説法をするときに笑い話を用いたと言われますが、笑い話というのはなにが「おかしい」と感じるのかが、ある程度同じでないと通用しないわけで、お坊さんがそれを使ったというのはつまり道徳を人に解りやすく説明したかったということでしょう。
能書きが長くなりました。圓橘師匠、この日はトリではなかったのですが、この「蒟蒻問答」は良かった。
「蒟蒻問答」はそこまで重い噺でないけれど、圓橘師匠の手にかかるとぐぐっと噺に厚みが出てきます。特に旅僧と蒟蒻屋の人物の対比が上手です。問答をする時、蒟蒻屋が出す解答にうろたえる旅僧は汗が吹き出して顔が真っ赤、なんでいこのやろうと構える蒟蒻屋は明後日の方を向いて我関せずという顔。これをパッパと入れ替えるのですからもう名人芸です。その人物の違いのだしかたにわざとらしさを感じなくて、どうわざとらしくなかったのだと聞かれると答えられないのですが、とにかく上手いなあ、の一言です。

2011年10月21日 18時49分01秒 (Fri)

其の捌〜特別企画第一弾〜

創雲です。
久しぶりの記事なので、すこし雑談めいた事を書いて腕ならしをしましょうか。
そんな厳しい関係では無いのですが、一応私には弟子が三人いたりします。部員で言うと凌雲、志ん米、雲甫の三名ですが、師匠らしいことはあんまりしてません。志ん米は一人で稽古するので、私は全く必要無いし。とにかく、弟子という事になっているらしい。名前に「雲」が入っていたりしたら私の一門(?)です。
もともと私は創設者の「海原亭創太」の「創」の字を頂いています。大御所創太師匠は来年度で引退ということになっておりまして、この大名跡(二つ目名っぽいけれど、大名跡です)の後継は誰にしようか、なんて一人思い悩んでいるのです。うちの部活では「三遊亭円朝」くらい価値のある名前です。古典芸能部は設立から5年あまりの歴史の浅い部活ですが、部長職の人は「海原亭であること」という条件を満たさねばなりません。そこで私は密かに志ん米に「創太」を継いでもらって来年の部長になってもらえたらな、と画策しています。デビュー当時は新米だった(一年の時から上手くてびっくりしました)のですが、三代目三遊亭金馬を参考にした滑稽話はもはや我が部の看板。その志ん米に「いらねーよ」とつっかえされたら元も子もないけれど。それに、初代創太師匠が名前を誰かに譲ってくれるかどうか解らないし、そもそも部活の芸名なんて一代限りでいいじゃないかと言われそうですね。
個人的には「創太」の名跡が廃れるのは非常に惜しい。こういう仕組みをつくっておけば未来の後輩に「〜代目 海原亭◯◯でございます」と言ってもらえるかもしれないじゃないですか。なんとかごり押しするつもりです。

さて、前のコラムで「実は最近芝居噺とか円朝の怪談といったことに興味を持ち始めて、そういう方でなにか書こうかな、とは思っているのです。」などと予告をしました。明治の落語の中興の祖、落語の神様の異名をとる伝説的な人物について、なにか深く掘り下げてみようじゃないかと、そういう試みであります。
テストが終わってようやく時間に余裕ができたので、しばらく「円朝」というテーマで何回かに分けて書くことに決めました。題して「部長の部屋 第八回記念企画 連載〜円朝の系譜を辿って〜」(じゃーん、とファンファーレが鳴る)。
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まあ、大したものじゃ無いし、打ち切りの可能性大なので、あんまり大げさに宣伝するのはよしましょう。三日坊主の私の宣言です。多分三回くらいで終わるとおもいますが、兎に角はじめちまおうと思います。あと、特別企画の文体は思い切って「です ます」から「だ である」にしておきましたが、同一人物が書いていますので、どうぞよろしくお願いします。



第一夜「桂歌丸と『栗原宿』」

先日のことである。私は中間試験の最中にも関わらず「桂歌丸特撰落語会」に出かるという暴挙にでた。落語ファンを自称する手前、行かぬわけにはゆかぬではないか。後日、公民、数学Aといった科目で恐ろしい結末を迎えたわけだが、そのときの私は皮算用的な思考でテストのことを考えていたのである。人は学習しない。
落語会は桂歌丸の噺家生活60年を記念して、人気番組「笑点」のメンバーが順に登場し、最後に歌丸師匠がトリをとるというもの。番組のネタ「富士子夫人」「独身の昇太」「大月秩父代理戦争」など笑点視聴者向けの落語会、といったところか。木久扇だけ札幌の仕事があって居なかったが、すかさず円楽が「山田もいねえし」と笑いをとっていた。
それにしても、噺家生活60年になるそうである。中学生のときに古今亭今輔に入門し、米坊、歌丸と名前を変えて現在に至るが、単純に計算しても人生の80パーセントも落語に使っているわけだ。驚くべきことだと思った。私は桂歌丸その人のことは、つい最近までは「笑点」の人気で食っているという、無礼なイメージしか無かったが、それは大きな間違いで、彼こそが現在存命の噺家の中でもっとも三遊亭円朝に近い人物である、と改めた。
彼の円朝ものに対する姿勢を知ったきっかけは、夏休みも終わりに差し掛かったころ、知人が持ってきてくれた読売新聞の「時代の証言者」というコーナーを目にしたことだった。
タイトルは「円生の大ネタ 今や十八番」。手元に切り抜きがまだ残っているのだが、内容を簡単に書くと、桂歌丸は1994年「TBS落語研究会」の白井プロデューサーなる人に怪談牡丹灯籠の一節「栗原宿」をやってみてはどうか、と持ちかけられた。無理だと断ったが、最後には折れて、亡き六代目三遊亭円生のビデオを参考にして演じた。いまでは「栗原宿」は歌丸の代表作と呼ばれるようになったが、円生の芸と白井プロデューサーが居なくてはならなかった、という舞台裏が明かされている。
記事によると、歌丸はけっこう円生に気に入られていたそうだ。たまたま地方で同じ仕事をしたとき、円生が差し向かいになった歌丸に「絵本太閤記」を一時間近く聞かせて、あたかも落語「寝床」のようなことになってしまったようだ。それを根気よく聞いたことがきっかけとなって、それ以来会うたびに声を掛けられていたそうな。笑点の特別企画で三波伸介、歌丸、円生で出演したこともあったらしい。しかし、笑点の仲間であり、円生の弟子である円楽に何度も誘われていたのにも関わらず、稽古をつけてもらう機会を逃したまま1979年、円生は他界してしまう。
「座布団一枚 桂歌丸のわが落語人生」(小学館)によれば、歌丸が新作派から古典派に移ったのは1974年のこと。地元横浜の「三吉演芸場」という寄席で独演会を開いたところから、一気に新作から古典落語に移行する。先日の「桂歌丸特撰落語会」では「横浜は住むところ、東京は金儲けをするところと決めているから地元に住み続けている」と語っていたが、地元の横浜でじっくり時間をかけて仕込んだ噺を披露するという時は、やはり「金儲け」を超えた「芸を磨きたい」という真摯な姿勢で演じていたのだろうか。
しかし、不思議なことである。二つ目時代から古典をやりたいと思っていた、と本人は言っているものの、師匠の古今亭今輔、桂米丸は新作寄りの人である。そもそも落語芸術協会は円朝もののような重い古典は専門では無い。何が歌丸の大幅な路線変更となったのだろうか。我が古典芸能部顧問、川崎先生に伺ったところ、非常に興味深い事を教えていただいた。
昭和の落語史に時々登場する「一朝老人」とういう人がいる。かの円朝の弟子である。明治から昭和初期まで生きていたというシーラカンスのような人で、その技術を継承した主な人物といえば当時の扇遊亭金八(林家彦六の初期の名)だという事は有名だ。舞台装置や小道具を用いる芝居噺の稽古をつけられた林家彦六はのちにその芝居噺の第一人者となる。円朝の記憶を昭和の名人に橋渡しした人物、それが一朝翁であった。ここからが面白いのだが、実は円朝の噺を一朝老人から教わったのは、林家彦六だけでは無い。一朝に芝居噺や円朝ものの怪談を仕込まれたもう一人の人物、それが歌丸の師匠、古今亭今輔だったのだ。古今亭今輔は地方出身のため江戸弁を使いこなせず、一朝老人には円朝ものを演じる素質が無いと、早々に諦められてしまったのだとか。だからこそ古典落語ではなく、標準語で一般受けの良い新作へシフトしたのだそうだ。
いやはや、まったく川崎先生の知識には驚いた。
歌丸が師匠からそのようなことを聞いたかどうかは解らないが、あえて古典を封印している師匠の姿から、なにかを感じ取ったことは確かだろう。今輔も米丸も新作専門だったので、当時の芸術協会の大御所、六代目春風亭柳橋から稽古をつけてもらったりしながら古典へと切り替えていった。昭和49(1974)年のことである。
だが、歌丸が円朝の長編に本格的に挑むのはそこから20年後のこと。先ほども紹介したように円朝ものを数多く手がけた三遊亭円生のビデオをもとに、見事な「栗原宿」を作り上げた。
歌丸の「栗原宿」はいつか生で聴きたいと思っているが、なかなか叶わない。仕方が無いので「怪談牡丹灯籠」を通し公演で録音したCDを聴いてみた。
「怪談牡丹灯籠」はとても長い長い噺で、そのあらすじを紹介するだけで疲れてしまうから、今回はそれを省くが、兎に角長くて難しくて複雑な因果話なのである。
聴いてまず思ったことは「桂歌丸は平成の三遊亭円生じゃないか」ということだ。口調、間、言葉使いがよく似ている。円生の「牡丹灯籠」のエッセンスを吸収、再構成していたというのが良く解る。難解な江戸弁を東京の言葉に直した、多くの層にわかる「牡丹灯籠」だった。
その中で秀逸だったのはやはり「栗原宿」。江戸で主人の萩原新三郎を殺し、栗原宿まで逃亡した伴蔵お峰の夫婦、悪事を働いて得た金で開いた店が繁盛するが、大金を持つようになってから旦那の伴蔵は少しずつ罪悪感が無くなっていき、欲深く腹黒い男になる。商売女との浮気がばれた伴蔵は外出先の森の中で音も無くお峰を殺害する。という下りだ。前話の「お札はがし」では気弱な小悪党だった伴蔵「栗原宿」になるとどす黒い欲を持った男へと変貌する。「牡丹灯籠」の中でも最もサスペンスな幕で、特にお峰殺害の場面には思わず背筋がぞわっとした。
円朝の創った壮大な因果話の中でも人の欲や負の感情が吹き出してくるところを、扇子と手ぬぐいのみで再現するのは並大抵の技量の者ではできない。多くの場合は演者がストーリーの重みに耐えきれなくなってしまうのではないか。女房に背後から音も無く忍び寄り斬りつける残忍な男の欲望を絶妙な間で表現した桂歌丸のそれを聴いたとき「この人こそ現役の中で円朝ものの真髄にもっとも近い噺家だ」と思ったのだった。
現在、桂歌丸は「牡丹灯籠」に並ぶ長編怪談「真景累ヶ淵」の全てを録音に挑戦中だそうだ。すべての因果が明らかにされるまでを録音する完璧な音源化は、六代目三遊亭円生ですら到達していない域であり、これをもし成功させれば、落語史にとって大きな足跡となることだろう。桂歌丸の円朝ものへの取り組みはまだまだ終わらない。
そして平成にまでその名を轟かす落語の神様、三遊亭円朝に私は更なる興味を持ってしまった。
特別企画第一夜はここまで。次回もお楽しみに。


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