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顧問と部員の部屋

2012年5月12日 21時23分32秒 (Sat)

巨星逝く

巨星逝く画像 昨年11月、昭和21年11月2日のムーランルージュ新宿座海城公演での
ご出演以来、実に65年ぶりに海城学園に御来校を頂き、
当部ムーラン研究班に当時の様子や、戦後の「小議会」と名乗っていたころのムーラン新宿座の様子をお話いただき、そして日本芸能史上のスクープとも言える
「加藤と名乗る少女(後の美空ひばり)のムーラン出演」(これは近刊の「平成23年度版・海城学園研究収録」の「海城学園120周年外伝・戦後初の文化祭」に詳細を記しました。本記事の最後に再録しておきます)
を舞台の袖でご覧になっていた、おそらくは最後の生き証人でもあった作家の柴田悦男先生がご逝去されました。
享年八十八でした。

先生は大正13年、群馬県館林のお生まれ。
昭和15年、横須賀海軍工廠教習所をご卒業。
昭和19年、横須賀武山海兵団へ機関兵として現役徴兵。
横須賀田浦水雷基地・機関科にて特攻兵器回天魚雷用第二空気掌機関兵として勤務。
昭和21年から22年、ムーランルージュ新宿座の「小議会」時代に在籍。
昭和23年から59年、民間企業・にてバルブ設計・広報・海外販売にてドイツ・ソ連・アジア各国にて御活躍。
この間、昭和56年には「軍艦を造った少年たち」を上梓。
昭和58年には読売新聞社ぴーぷるイラストマンガ年間優秀賞受賞。
昭和61年、「彩雲の港」を上梓。
平成元年には、講談社・ショートショート・コンテンストにて「拾った犬」が入選。
本格的な作家生活に入られました。
以降の代表作に平成20年「戦争と小さな平和(回天魚雷基地とムーラン・ルージュ)」、平成22年「笑説 幽女ヶ淵 小粋、洒落、人情25短篇集」(いずれも文芸社)がおありです。

ご来校いただいた際、小議会在籍時代の芝居の挿入歌をご記憶であることが
判明。
その一端を御披露頂きました。
これは大変貴重なことゆえ、今春、本格的にその歌の数々を、来歴つきで
VTR撮りすることを懇願。ご許可頂き、さてそろそろ再度の御来校を、
と思っていた矢先のことでした。
まさに、貴重な図書館を失った思いでいっぱいです。
私と先生とはお会いしたのは一度だけでしたが、電話や手紙でのやりとりは
十回以上を超えて、その間、海軍工廠のエリート時代のお話、
はたまた小議会解散後に技術者としてご成功されたお話など、数々の貴重なお話には非常に魅了されました。
なにより、その気さくなお人柄に尊敬させられました。
晩年は、近隣の保育園児にハモニカ演奏を披露することを楽しみにされ、
なにより、園児たちに慕われてやまなかった柴田先生。
そして、旺盛な執筆欲は衰えることを知らず、
今年1月に刊行された、自伝的小説「空っ風とニュートリノ」が図らずも御遺作となりました。
病床で、その御著書の刊行を大変に喜ばれたとのことでした。
顧問が11日、大田区上池台のご自宅へ弔問に伺いました。
ムーラン取材でお世話になった4人と顧問の寄せ書きを、奥様と、お嬢様へ
お渡ししたところ、大変に喜んでくださいました。
先生は、海城への訪問を大変に喜ばれたそうで、折に触れて、ご家族に
その話をされたそうです。
先生の滑稽話短編集から「幽女ヶ淵」と「爪」を演じさせていただいた部員(先生のご生前に所演のご許可を頂き、先生はそれをご覧になるのを楽しみにしておられた)のVTRをご家族に、ご覧頂いたところ、「泉下の父もとても喜んでいると思います」とのお言葉を頂きました。
先生は生前、海城来校時に撮影したご自身の写真を
ことのほか喜ばれていたそうで、遺影に使う案もおありだったそうです。

柴田先生、貴重なお話を本当にありがとうございました。
部員の島貫君が先生にお供えした詞
「文化の伝承はこのように行われるのですね」
を今まさに実感しております。
たった一度の出会いが十年の知己にも優るものであったと思ってやみません。
拝見することは叶いませんでしたが、先生と園児の皆さんとのやりとりは、
佳品の一篇の詩の如きものであったことでしょう。

ご家族の皆様におかれましては、数々のご親切をありがとうございました。

柴田悦男先生、安らかにおやすみください。

なお、柴田先生をご紹介くださった映画「ムーランルージュの青春」の
田中重幸監督に、先生ご逝去の報をお知らせしたところ、ご自身のtwitter
(//twitter.com/#!/akaifusha)で次のように発表されました:

自伝「ムーランルージュと回天魚雷」を書かれた柴田悦男さんが亡くなりました。海城の川崎先生から一報あり。戦後ムーランの佐々木千里の小議会に在籍してその貴重な体験を小説にして美空ひばりがムーランで歌ったことを再現してくれました。冥福を祈ります。

              
              (顧問  川崎真澄)

(追記)

昨年11月4日の海城来訪時の柴田先生へのインタビュー中の、美空ひばりムーラン出演のくだり:

「最後に海城公演に限らず、在籍時の新宿座の秘話をお聞きしたいですと?そうですなぁ・・・。あっ、これはどうですかな。海城公演の頃にですな、“加藤”と名乗る少女が母親と一緒に新宿座に来ましてね。母親が、ちょっとでいいからこの子に舞台で歌わせてやってくれと言いましてね。舞台がはねた後に、しばらくお待ちくださいと場内にアナウンスをして観客を足止めさせた上で、改めて幕を開けて彼女に歌わせたんです。それを私は、舞台の袖から見ていたんです。その時は、そう関心はなかったんですがね。それが翌年、あれは横浜国際劇場でしたか、天才少女歌手現る、という感じで一躍、名が売れたときに、あっ、あの晩のあの娘だ!となりましてね。そう、これが後に国民的な大歌手となる美空ひばりの幼女時代のひとこまというわけです。彼女のムーランへの登場はこれっきりです。ムーランの関係者といってもあの晩、あの現場にいた人はそんなにはいないですしね。ムーラン関係者の多くが鬼籍に入っている今、私くらいなもんじゃないですか、(あの場面を見た)生き残りはね。これは秘話になりませんかなぁ」




コメント

柴田先生のご冥福を祈ります。

川崎真澄先生

水沢有美です。
私のブログの方へ、貴重なメッセージをありがとうございました。
ムーランルージュについて、ご研究大変な事と思います。
一番全盛期の戦前のムーランについては、なかなか残っているものがなくその辺が多分消えてしまうのでしょう…
先日の話しにも出ていたように、文化人が沢山押し寄せていたムーランなんですね…戦後はストリップも入ったりと…戦後は下ねたを使わない品のあるムーランから一変してしまったムーランが、とても悲しいと言っていたっことを母から聞いています。
本当に父からも母からも 、もっと聞いておけばよかったと思います。

柴田悦男先生のご冥福を
心よりお祈り申し上げます…

このお話を知っていたら、柴田先生のお名前も一言ご紹介できたかも知れませんが…申訳ありません…

生徒さんの前向きな姿がとても嬉しく、川崎先生のご指導の賜物と存じます…せっかくのご縁でございます。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

先日のラジオ公開当日私が歌いましたが…
父の詩なので…放送でも切ってほしくなかったです…

チャンスがありましたらぜひ聞いてやってくださいませ…
何かお力になれる時があれば、お気軽にご連絡下さいませ。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

水沢有美



【2012年5月15日 14時31分 (Tue)】 |url|水沢有美

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