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2012年05月 アーカイブ

2012年5月28日 22時30分39秒 (Mon)

他校交流 芝高校の皆さんと

他校交流 芝高校の皆さんと画像 こんにちは 育成部長の圓創です

去る5月27日、恵比寿にて芝高校の落研の部員の方4名と、我が海城古典芸能部としては初の他校交流会を行ってきました。

概要としては、互いの普段の活動紹介、部員紹介、今後どのような風に活動していくかの相談、落研ネットワーク(仮)を作りませんかという提案、次回の交流について
を2時間に渡り、話し合いました。

・・・いや〜美馬渉外部長、仕事しましたね!!
同じ男子校の落研(古典芸能)同士が、話が合わないわけが無く、だいぶ盛り上がった首脳会談でした! 

前々から他校交流を望んでいた当部部員としては、今後の活動の幅も広がりそうですし、今年も良い部の運営が出来そうです。

芝高校の皆様、先日はありがとうございました! 今後ともよろしくお願いします!


2012年5月26日 22時56分31秒 (Sat)

ムーラン研究余話(その2)  「ムーラン海城公演は年齢制限あり?!?」

K氏への電話取材の後,週明けの4月9日にはT氏へ電話取材を敢行しました。
Tさんもムーラン海城公演をご覧になっています。但し、ご自身は「硬派学生」(ご自身・談)だったとのこと。微に入り細を穿って観たわけではないので、なにかを切っ掛けに思い出すことはあるかも知れないが、なにぶん六十余年の昔のことゆえなかお話するのも難しいです、とのことでした。
 そんな中、これまでの取材では耳にしなかった事柄をお話頂きました。曰く、ムーラン海城公演は、「私の記憶では、中学3年生以上を対象としたもので、2年生以下は入場まかりならぬ」といったもののはず、との由。しかし、当事2年生だった方の観劇記も何件か伺っているのですが、その辺りは如何ですか、とお聞きしたところ、「そこなのです。Kさんも、(中学2年以下はまかりならぬ、という)そんなことあったかな、と言うのです。なので、私の思い違いか、あるいは、私の記憶が正しければ、モグリで入場した(中2以下の)生徒が少なくなかったんじゃないですかね」と呵呵大笑されました。続けて、編集子と以下のやり取りがありました。
「これは直接はムーランとは関係ない話ですがね、私は演劇部ではなかったんですが、叔父が映画のカメラマンだったんです」
「どちらの映画会社なのですか」
「東宝です」
「いつごろのお生まれですか」
「私の父の弟でしてね。明治三十年辺りでしたかね。カメラマンはPCLの頃からですよ」
「それはまた、お古いお話ですね。だいぶ映画を撮られたのですか?」
「えぇ,120本余りのはずですよ」
「それは大変なものですね。名カメラマンでいらっしゃった」
「叔父はね,動きのある撮影を得意としておりましてね。とりわけ喜劇映画の撮影で重用されました」
「古川緑波とかあの当時の喜劇ですね」
「そうです、そうです。緑波、エノケンね。齋藤寅次郎監督の作品をだいぶ撮っているんです」
「金語楼などは」
「そう、金語楼。それに喜劇以外だと李香蘭の映画も撮っているんです」
「えっ、李香蘭を?私事にて恐縮ですが、私自身は41歳になったばかりでして。当時、京橋霊岸島に住んでいた私の父が李香蘭ショーを小学生の頃(昭和16年とのこと)、日劇へ母親に連れて行かれたそうなのですが、押し寄せた観客の数は十重二十重どころの騒ぎではなかったようで、断念して帰ってきた思い出があると言っておりました」
「そうでしたか。お父様はご健在で」
「おかげさまで健在でございます。父が言いますには、母子で帰ったあと、あまりの観客の多さに二進も三進もいかなくなった日劇が、階上から観客に水を撒いたらしいですね。それはともかく、その映画は満州での製作ですか」
「そうです。「『白蘭の歌』といいましてね」
「久米正雄でしたね」
「よくご存知ですね」
「あれは満映でしたか」
「そう。東宝との合作じゃないかな」
「李香蘭の相手は誰でしたっけ」
「長谷川一夫じゃなかったですかね。まぁ,叔父は私を撮影所によく連れていってくれましてね」
「砧ですか?」
「えぇ,祖師ヶ谷で降りましてね。まぁ、そういったわけで、映画に顔が利いたものですからね、演劇部がかつらやらなにやらを借りてくれないか、と頼み込んできましてね」
「そうですか。借りてあげたのですか」
「えぇ、借りてきましたよ。喜ばれましてね」
「ずいぶん戦後の芸能界をにぎわした方々が卒業しているのですね」
「そうなんですよね。我々の世代だと、二見忠男ね(編集子注:クレージーキャッツ主演映画のひとつ「日本一のショック男」(東宝)や、「男はつらいよ」第三作「新・男はつらいよ」(松竹)をはじめ、映画、TVに活躍された。故人)。あ、それとね、早川雪舟」
「えっ?早川雪舟ですか!あの、ハリウッドで成功した」
「えぇ。あの方は海城の卒業生ですよ」
「以前に耳にしたことはあったんですが…」
「えぇ、卒業生なんですよ。あの方がね、我々の在学中に海城に来てくれたことがありましたよ」
「それはまた…」
「今思うと大変なもんですよね。しかしまぁ、こう思い出してみると、ムーランが海城に来た頃というのは、まさに時代の転換期でしたね」
「取材を続けてきまして、まさにそう思います」
「海城百年史にね、我々と同級の前田さんがムーランのことを少しばかり書いていますよ(編集子注。最後に転載しておく)。読まれましたか?」
「いいえ。初耳です」
「そうですか。百年史は千ページ以上ありますからね。見落としたかな。では前田さんのを読まれるといい」
「浜田先生の寄稿は読みました」
「浜田先生!社会科の。そうですか、浜田先生もムーランが来たときのことを書かれているのですか。それは知らなかった。読んでみよう。まぁ,ともかくも、同級生で今も元気な人はいますから(ムーランのことを)聞いてみたらいいですよ。紹介しますから言ってください」
「有難うございます」
「ではごめん下さい」
それにつけてもKさんのおかげで、浜田寄稿における「招聘した生徒の父兄がムーラン関係者」とは誰を指すのか?がほぼ解決したとみてよいことは大収穫でした。
それにつけても、ムーラン海城公演が、どれだけ当時の在学生の皆さんに強い印象を残しているかを再認識させられたKさん、Tさんへの取材となりました。
ご両所、まことにありがとうございました。
最後に、Tさんよりご指摘を頂いた、海城「百年史」における前田氏寄稿のうち、ムーラン海城公演について触れている箇所(同885頁)を転載します。

自治会・文化祭の回想  昭和二十五年卒  前田賢二

 (前略)
 私は島・川崎・清水の三校長先生に師事したのだが、確か清水校長が就任されたのは私が三年生の時だった(編集子注:二年生のときであったと思われる)。
 折もよく十一月の記念祭の時だったと思う。催し物はその当時隆盛をきわめたムーラン・ルージュが現れ、その上フラダンスまでやると云う盛況さ、我々悪童連は「今度の校長は話せるぞ」と小躍りして就任を祝った。運動会には仮装行列、選択自由の応援歌を許し全く今までの海城には見られない教育方針で行くのではないかと期待がかけられた。だが、時が進むにつれて旧態依然たるものになってきたようだ。(後略)


2012年5月24日 16時41分50秒 (Thu)

ムーラン研究余話(その1)「ムーラン海城公演の招聘者と出演料」

ムーラン研究余話(その1)「ムーラン海城公演の招聘者と出演料」画像 幻野プロダクション田中重幸監督より、「ムーラン通信」
を当部へお送りいただきました。
ムーランルージュ新宿座のいろいろを不定期でお知らせくださるとのことで
まことに楽しみです。

さて、古典芸能部有志によるムーラン研究録もようやく先週、最終稿となり、
本校研究集録としての刊行が待たれます。

今回から二回にわたりまして、初稿以降に判明したこれまでこのHPにて
お伝えしていない「余話」をお伝えします(最終稿には間に合いました)。

今回は、「ムーラン海城公演の招聘者は複数いた?」と題して、
編集子によるインタビューを文字におこしておきます。

平成24年4月3日、本校卒業生で、同窓会新聞「海原」の某記者様より、ムーラン海城公演についての情報をお寄せ頂きました。
曰く、「一昨日、OBのK氏とT氏(共に昭和25年卒)と会食。
席上、ムーラン海城公演の話しになる。
両氏は在学中にムーラン海城公演を観劇しており、それについてのあれこれに話が咲いた。曰く、本校演劇部員が舞台道具を(角筈の)新宿座からリヤカーで運んだ、等々・・・」

そこで、4月7日の夕刻、編集氏がK氏に電話取材を敢行。
なかで、これまで我々一同が気にかかっている点にお答いただいたのです。
それは、ムーランルージュ新宿座を海城に招いたのは、調査のとおり、
八尾俊道、有賀榮一両氏ですが、
一方で、昭和42年刊行の「海原」への浜田裕先生のご寄稿によれば、
招聘者は、「父兄がムーランに関係している生徒」とあります。
が、八尾氏のご係累にムーラン関係者ではなく、有賀氏(故人)も同様のはず、
とのこと(八尾氏談)。
これが我々には引っ掛かってはおりました。この両証言の整合性やいかに。
 
以下、K氏と編集子のやりとりを再現いたします。なお、集録原稿には本名でご登場いただいています。

「先生(編集子のこと)ね。ムーラン海城公演は昭和21年ですって?」
「はい。11月2日と判明しています」
「随分調べられたんですね。で、この公演の更なる詳細を知りたいのですね」
「はい。OBの方々を中心に数十人の方々に取材させていただきました」
「それはそれは。で、O氏には話を聞かれたのですか?」
「海城新聞編集人としてお名前を拝見しましたのでお電話いたしました。ところが・・・」
「どうしました?」
「留守が続いておられて、人伝に現在、氏は病気療養中らしいと分かりました」
「そうですか。いやはや残念ですね。Oさんの大学卒業後の就職先はご存じですか?」
「毎日新聞社とお聞きしています」
「そうです。これまたよく調べていらっしゃる。で、先生ね、ずばり申し上げると、ムーラン招聘者はOさんだ、とわたくしは思うんです」
「Kさん、それはまたどういうわけのもので?」
「といいますのはね、Oさんの父上ね。この方も毎日新聞の記者だったんです。そう、親子二代、毎日の記者さんというわけです。そして、このO(父)記者という方は、当事、芸能記者だったんですよ」
「なんですって?毎日新聞の芸能記者ですって?」
「ええ。でね、進駐軍にも顔が利いたらしいんです。ところがね、あれはムーランが海城に来た後ですかね。有楽町のガード下で殉職された」
「はぁはぁ」
「当時ね、戦後まもなくですよ。進駐軍がうろうろしていた頃にね、ムーランに顔が利く父兄なんて、並大抵にいるもんじゃないですよ」
「それはそうでございましょう」
「それで、このO(ご子息)さん。我々の一級上の先輩でしてね。本籍は美術部なんです。なんですが、色々あって演劇に凝ってしまった」
「はぁはぁ。ということはOさんは演劇部に出入りしていたんでしょうか」
「そうなんです。あの方が、チルチルミチルだったでしょうかね。やっていた記憶がありますよ」
「ははぁ・・・。Kさん、お話のちゅうではございますが、八尾俊道さんという方をご存じですか?」
「八尾さん?八尾さん、八尾さんねぇ・・・あっ!思い出した。あぁ、懐かしいなぁ。八尾さんはね、わたくしはご縁があるんですよ」
「と、いいますと?」
「その戦後初の文化祭が昭和21年11月でしたっけ?」
「はい、1日が運動会で、翌日が芸能祭です。ムーランが来たのは芸能祭の日です」
「(笑)じゃあ、1日の運動会ですよ。このとき仮装行列がありましてね。私と一緒にやったのが八尾先輩だったはずです」
「これまたなんというご縁(絶句)」
「でね、我々二人の仮装行列が余りに破天荒ということで、確か、以後、仮装行列まかりならんとなったとか聞きました(笑)でもなぜ、八尾さんのことを?」
「八尾さんは演劇部員でした」
「そうでしたね」
「我々の調査では、ムーラン招聘者は、八尾さんとそのご友人の有賀さんという方なんです。裏付けもあります」
「なるほど」
「ところが、昭和40年にムーラン海城公演を記した文があるのです」
「そこに八尾さんの名前が?」
「いえ、そこには、生徒の名前は書かれていないのですが、父兄がムーランに関係している生徒、とあるのです」
「なるほど」
「ただ、八尾さん曰く、自分の係累にムーラン関係者はいない、と」
「ほほぉ」
「有賀榮一さん(故人)にもそういう方はいないだろう、と。加えて、八尾さんは、ムーランを海城に呼んだのは我々なんだけれども、なにぶん昔のことだから詳細はお忘れになった、ということなのです。しかし、有難いことに、ムーラン招聘のことを同期会作成の文集に残されているのです。それが裏付けのひとつです」
「と、いうことは・・・」
「はい。我々もそこが気になっていたのです。裏づけがあるだけに、この昭和40年に書かれた文章の筆者が思い違いをされているのかな、あるいは他に招聘者がいるのではないか、と思わないでもなかったのです」
「それを書かれたのはどなたですか?」
「浜田先生です」
「浜田先生!社会の」
「はい。しかし、今日のKさんのお話で合点が行きました。つまり、ムーランをしばしば観劇していた演劇部の八尾さんと有賀さんがムーランを海城に呼ぶことを画策した。それを、演劇部に出入りしていた後輩のO氏に打診した、ということではないか、というわけです。もちろん、父君が毎日新聞芸能記者であることを八尾氏らは知っていて、のことでありましょう。で、それが図にあたった、と」
「なるほど、なるほど」
「そう考えれば、八尾証言と浜田寄稿の整合性がつくというわけです」
「なるほど。これは面白いですな。少なくも、Oさんが関っていることは確かでしょうね」
「仰るとおりだと思います。いやはや、Kさんには大変貴重な情報をお寄せいただきまして、感謝の言葉もございません」
「いやいや。それにしてもね、あのムーラン海城公演をはじめとする一連の活動というのは、今日の海城学園の基礎になっているとわたくしは思うんです」
「一連の活動といいますと?」
「例えばですね、わたくしは美術部員でした」
「はい」
「その美術部員の立場でお話しますとね、こんなことがありました。日展をご存知ですね?」
「はい」
「日展は海城の創立記念日の時期に開かれるんです。戦後初の日展は昭和21年でした。で、あれはムーラン公演の翌年ですかね。つまり22年から2〜3年続いたかなぁ。利根山光人先生の肝入りで、生徒みんなを日展に連れて行ったんですよ、上野にね」
「美術見学というわけですね」
「そうです。美術見学なんて近頃では珍しくもないですよね。でもね、その頃はですね、そりゃもう斬新な試みだったんですよ」
「そうでしたか」
「もっとも、絵心がない生徒たちは上野は上野でも動物園に行っちゃった、なんて言ってましたがね」
「象のインディラさんの方に惹かれちゃった生徒もいるかも分かりませんね」
「ははは。そうかもしれない。でね、先生。つい先日も、その話になりましてね。よくまぁ、あの利根山先生が、ご自分の主義とは異なるであろうと思われる日展に我々生徒を連れて行ったな、とね」
「非常に進歩的な先生であった、と伺っておりますけれども・・・」
「そりゃもう。それはそれは進歩的でした。だからこそ、後の作風を見るにつけ、日展によく連れて行ったな、と」
「なるほど、そういうことですか」
「あれは、利根山先生がご自分の主義を曲げてでも、変革した戦後の新生海城学園のアッピール役を買ってでられたのではないか、と仲間内で話しましてね」
「これまた興味深いお話です」
「あっ!(校章が)NSからKSに変わったのがやはり22年でしたよ(実際、校史によればそう記述されている)。ご存知の通り、KSマークをデザインしたのが利根山光人先生です」
「そうだそうですね」
「日展に集うKSマークの生徒たち。ん?どこの生徒だ?えっ?海城だって?あそこは海軍の学校で、錨にNSではなかったのかね。なるほど、校章も(KSに)変わって、生徒は日展に来る。海城も進歩的になったな。時代も変わった、ということをアッピールには十分な効果があったと思うんですよ」
「なるほど。今、わたくしはぞくぞくしながらKさんのお話をお伺いしていたんです。と、申しますのは、実はこんなお話を、OBの藤代さんにお聞き致しました。それは、海城ムーラン公演は、海城の、戦後の進歩性を時のGHQへアッピールする意図の下で学校当局が許可したのではないか、と」
「ほぅほぅ」
「ご案内の通り、海城はその沿革から、戦後、廃校の憂き目に遭う可能性もなくはなかった、と」
「そうでした、そうでした」
「で、かつて武張っていたこの学園も戦後、ムーランを呼ぶほどに進歩的になった、と」
「なるほど、そのアッピールというわけですな。それは十分に、十分に考えられることでしょうな」
「後年の海城新聞には、ムーランを海城で公演した佐々木千里氏が当時、海城は進歩的だ、と評されたとのコラムも見受けられます」
「なるほどなるほど。そういえば、こんなことも思い出されますよ。清水岬校長ね」
「ムーラン公演当時の校長先生ですね」
「そうです。確か、清水先生が赴任されてすぐですよ、ムーラン海城公演は」
「そのようですね」
「でね、私がムーラン公演を見ていた近くで、清水校長もご覧になっていましてね」
「えっ?これまた初耳です」
「えぇ、ご覧になっていましたよ。わたくしの近くでしたもの」
「日高先生をご存知ですか?」
「日高先生!知っておりますとも」
「日高先生が腕組をされて苦虫を噛みつぶした如き表情でムーラン公演をご覧になっていたという石川達也さんの御証言がございます」
「十分に頷ける話ですな」
「Kさんから、清水校長の表情は窺えましたか」
「特に(喜怒哀楽は)出されていなかった感じですがね。なにぶん、あの世代の方ですからね。初めてああいうムーランの踊りみたいなものをご覧になったんじゃないですかね。わたくしが想像するに、内心穏やかでなかったのではないかな、とね」
「校史に寄れば、清水校長は学校運営において,開放的な政策を打ち出されたようですが」
「そうでした、そうでした。でもね、その先生を以ってしても穏やかではなかったのではないですかね。ムーランの公演、それはそれは斬新でしたもの・・・」
「なるほど。お話を伺いますと想像に難くありませんね。それにしても、急な取材を致しまして、しかも長時間に渡りまして、貴重な、本当に貴重なお話を有難うございます」
「お役に立ちましたかね」
「もう、感謝感激でございます」
「他に聞いておかれたいことはありますか?」
「よろしゅうございますか?では恐縮ながら最後にひとつだけ」
「どうぞどうぞ」
「ムーラン海城公演のギャラはどうなっていたのでしょうか」
「いやぁ、それは分かりませんね」
「当時、学園が農場を所有しておりましたね」
「そうでした、そうでした」
「21年11月といえば、まだまだ食料事情がよくなかったと伺っております」
「それはもう・・・」
「そこで、農場でとれた作物をギャラとして渡したのではないか、と私どもは推測しておりまいて・・・」
「なるほど。それは面白いですね。でも、返礼としては考えられますが、私はね、佐々木千里氏はノーギャラで引き受けたのではないか、と思いますね」
「器量人だったようですね、佐々木氏は・・・。あっ!Oさんの線で(の招聘で)あれば、新聞でムーランを宣伝して貰えば、“行って来い”であるという推測も考えられますね」
「なるほど。それは面白い。まぁ、返す返すもOさんに取材ができないのが残念ですね」
「はい。しかし、今日はもやが晴れた思いでございます。大変に有難うございました」
「完成原稿を読むのを楽しみにしています。またお聞きになりたいことが出てきましたら、お役に立てるかどうか分かりませんがいつでもどうぞ」
「そうおっしゃっていただけますと心丈夫でございます。では失礼致します」
「さようなら」

 K氏へのこの取材を終え、ことここに至って、気がかりであったムーラン招聘者に関する浜田寄稿(招聘者は八尾俊道氏で間違いないが、浜田寄稿には、「父兄がムーラン関係者」とあり。八尾氏父兄は関係者に非ず。つまりは、八尾氏と共に招聘に尽力した生徒がいる可能性がある)と、公演の出演料について、同時に解決する可能性が出てきました。
 すなわち、ムーランに出入していた八尾俊道氏がムーラン招聘を提案。父君がムーランに顔の利くであろうO氏に相談。同氏が毎日新聞芸能記者である父君に依頼して、父君の依頼を佐々木千里支配人が快諾。その際、無論、佐々木支配人の器量によって無償で海城中学生たちに夢を与えた可能性は大ですが、毎日新聞紙面で、ムーランにまつわる記事あるいは宣伝を掲載することで返礼としたのではないか、ということです。これは、食糧難ゆえに昭和21年6月に臨時休校をした(校史による)時点からそう遠くないこの時期に、いくら収穫の秋とは言えど、農場での収穫物を返礼にはできなかったのではないか、と仮定してのことです。
 早速、5月13日に埼玉県立浦和図書館で昭和21年11月の毎日新聞のマイクロフィルムを閲覧したところ、海城公演が11月2日ゆえ、新聞記事になっているとすれば、3日か4日と考えられますが、なにぶん、3日は新憲法公布の日ですので、ムーラン海城公演の記事が掲載される余地はないようで、残念ながらありませんでした。
 しかし、折角の機会ゆえ、11月の紙面は全て調べてみようと続けたところ、月末の紙上に、実に興味深いものをみつけたのです。それは11月28日の紙面なのですが、なんと、星野土地会社の広告が唐突に、それこそ唐突に出現したのです(挿入写真)。
 この星野土地会社は、この時期のムーラン経営に携わっていた鈴木一男氏の経営されていた会社なのです。
 無論、軽々に推測することは戒めねばならないことは承知しつつ、しかし、この広告掲載は返礼の一助であったのでは、と思わずにはおれません。

 軍国教育の牙城と目され、GHQに睨まれて廃校の危機にあったという本学。
 本校の進歩性をGHQに示したい、と考えていたであろう際、折りしも生徒は生徒で、戦後初の文化祭を新趣向で成功させたい、と考えていた、その両者の思惑を仲立ちしたのが進駐軍に顔の利く新聞記者の父兄であった、果たして真相やいかに。。。

 とはいうもののこれ以上の真相を求めるのは野暮かもしれません。
ファンタジーとして66年前の出来事に思いを馳せることといたしましょう。

 ともあれ、実質的にはわずか4か月という短い期間であったムーランの小議会時代ではありますが、まさに「疾風怒濤」(田中重幸氏・談)の時期であったことは論を待たないようです。

次回はT氏への取材を文字におこしてお伝えいたします。

                   (古典芸能部ムーラン班)


2012年5月24日 16時32分44秒 (Thu)

古典芸能部近況

定期考査真っ最中の本学。
そのため、先週と今週は部活動はお休み中です。
そんななか、考査終了後の日曜日、ついに他校落語研究会様との
記念すべき交流会第一弾が企画されました。
「まずはご挨拶から」(渉外部長M君)とのこと。
必ずや後世に残る大きな足跡の第一歩となることでしょう。
交流のお相手ですか?
いえ、それはもったいぶるようですが、今はまだ、
いわぬが花の吉野山、というところでありましょう。
交流会終了後、当日の模様のリポートを添えて、
部員の皆さんから報告いたします。
また、合宿先の近隣の学園より古典芸能部設立に力を貸してほしい、
との嬉しいお申し出がありました。
俄かに対外交流の急を告げ始めた古典芸能部にご期待ください。

(次回の部会)
5月31日(木)昼12時40分〜13時 交流会報告
放課後15時20分〜16時50分 新入生歓迎会+稽古

そのつもりで皆さん準備しておいてください。

                 (落語担当顧問)

2012年5月12日 21時23分32秒 (Sat)

巨星逝く

巨星逝く画像 昨年11月、昭和21年11月2日のムーランルージュ新宿座海城公演での
ご出演以来、実に65年ぶりに海城学園に御来校を頂き、
当部ムーラン研究班に当時の様子や、戦後の「小議会」と名乗っていたころのムーラン新宿座の様子をお話いただき、そして日本芸能史上のスクープとも言える
「加藤と名乗る少女(後の美空ひばり)のムーラン出演」(これは近刊の「平成23年度版・海城学園研究収録」の「海城学園120周年外伝・戦後初の文化祭」に詳細を記しました。本記事の最後に再録しておきます)
を舞台の袖でご覧になっていた、おそらくは最後の生き証人でもあった作家の柴田悦男先生がご逝去されました。
享年八十八でした。

先生は大正13年、群馬県館林のお生まれ。
昭和15年、横須賀海軍工廠教習所をご卒業。
昭和19年、横須賀武山海兵団へ機関兵として現役徴兵。
横須賀田浦水雷基地・機関科にて特攻兵器回天魚雷用第二空気掌機関兵として勤務。
昭和21年から22年、ムーランルージュ新宿座の「小議会」時代に在籍。
昭和23年から59年、民間企業・にてバルブ設計・広報・海外販売にてドイツ・ソ連・アジア各国にて御活躍。
この間、昭和56年には「軍艦を造った少年たち」を上梓。
昭和58年には読売新聞社ぴーぷるイラストマンガ年間優秀賞受賞。
昭和61年、「彩雲の港」を上梓。
平成元年には、講談社・ショートショート・コンテンストにて「拾った犬」が入選。
本格的な作家生活に入られました。
以降の代表作に平成20年「戦争と小さな平和(回天魚雷基地とムーラン・ルージュ)」、平成22年「笑説 幽女ヶ淵 小粋、洒落、人情25短篇集」(いずれも文芸社)がおありです。

ご来校いただいた際、小議会在籍時代の芝居の挿入歌をご記憶であることが
判明。
その一端を御披露頂きました。
これは大変貴重なことゆえ、今春、本格的にその歌の数々を、来歴つきで
VTR撮りすることを懇願。ご許可頂き、さてそろそろ再度の御来校を、
と思っていた矢先のことでした。
まさに、貴重な図書館を失った思いでいっぱいです。
私と先生とはお会いしたのは一度だけでしたが、電話や手紙でのやりとりは
十回以上を超えて、その間、海軍工廠のエリート時代のお話、
はたまた小議会解散後に技術者としてご成功されたお話など、数々の貴重なお話には非常に魅了されました。
なにより、その気さくなお人柄に尊敬させられました。
晩年は、近隣の保育園児にハモニカ演奏を披露することを楽しみにされ、
なにより、園児たちに慕われてやまなかった柴田先生。
そして、旺盛な執筆欲は衰えることを知らず、
今年1月に刊行された、自伝的小説「空っ風とニュートリノ」が図らずも御遺作となりました。
病床で、その御著書の刊行を大変に喜ばれたとのことでした。
顧問が11日、大田区上池台のご自宅へ弔問に伺いました。
ムーラン取材でお世話になった4人と顧問の寄せ書きを、奥様と、お嬢様へ
お渡ししたところ、大変に喜んでくださいました。
先生は、海城への訪問を大変に喜ばれたそうで、折に触れて、ご家族に
その話をされたそうです。
先生の滑稽話短編集から「幽女ヶ淵」と「爪」を演じさせていただいた部員(先生のご生前に所演のご許可を頂き、先生はそれをご覧になるのを楽しみにしておられた)のVTRをご家族に、ご覧頂いたところ、「泉下の父もとても喜んでいると思います」とのお言葉を頂きました。
先生は生前、海城来校時に撮影したご自身の写真を
ことのほか喜ばれていたそうで、遺影に使う案もおありだったそうです。

柴田先生、貴重なお話を本当にありがとうございました。
部員の島貫君が先生にお供えした詞
「文化の伝承はこのように行われるのですね」
を今まさに実感しております。
たった一度の出会いが十年の知己にも優るものであったと思ってやみません。
拝見することは叶いませんでしたが、先生と園児の皆さんとのやりとりは、
佳品の一篇の詩の如きものであったことでしょう。

ご家族の皆様におかれましては、数々のご親切をありがとうございました。

柴田悦男先生、安らかにおやすみください。

なお、柴田先生をご紹介くださった映画「ムーランルージュの青春」の
田中重幸監督に、先生ご逝去の報をお知らせしたところ、ご自身のtwitter
(http://twitter.com/#!/akaifusha)で次のように発表されました:

自伝「ムーランルージュと回天魚雷」を書かれた柴田悦男さんが亡くなりました。海城の川崎先生から一報あり。戦後ムーランの佐々木千里の小議会に在籍してその貴重な体験を小説にして美空ひばりがムーランで歌ったことを再現してくれました。冥福を祈ります。

              
              (顧問  川崎真澄)

(追記)

昨年11月4日の海城来訪時の柴田先生へのインタビュー中の、美空ひばりムーラン出演のくだり:

「最後に海城公演に限らず、在籍時の新宿座の秘話をお聞きしたいですと?そうですなぁ・・・。あっ、これはどうですかな。海城公演の頃にですな、“加藤”と名乗る少女が母親と一緒に新宿座に来ましてね。母親が、ちょっとでいいからこの子に舞台で歌わせてやってくれと言いましてね。舞台がはねた後に、しばらくお待ちくださいと場内にアナウンスをして観客を足止めさせた上で、改めて幕を開けて彼女に歌わせたんです。それを私は、舞台の袖から見ていたんです。その時は、そう関心はなかったんですがね。それが翌年、あれは横浜国際劇場でしたか、天才少女歌手現る、という感じで一躍、名が売れたときに、あっ、あの晩のあの娘だ!となりましてね。そう、これが後に国民的な大歌手となる美空ひばりの幼女時代のひとこまというわけです。彼女のムーランへの登場はこれっきりです。ムーランの関係者といってもあの晩、あの現場にいた人はそんなにはいないですしね。ムーラン関係者の多くが鬼籍に入っている今、私くらいなもんじゃないですか、(あの場面を見た)生き残りはね。これは秘話になりませんかなぁ」





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