地域密着型エリア広告配信リクルートの地域密着型広告ドコイク?アドネットワーク Ads by ドコイク?[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]
[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]

2012年03月 アーカイブ

2012年3月30日 23時08分13秒 (Fri)

平成噺し座に行きまして

 
 こんにちは。
 毎度おなじみ家を7つ書いて,家家家家家家家でございます。
 
 もうすぐ4月ですか、早いですね。まだまだ寒いながらも、少しづづ春の兆しを感じられる季節となって来ました皆さん如何お過ごしでしょうか。

 さて、先日、平成噺し座に行って参りました。はい。今回はそのことについて書きたいと思います。

 と、思ったら、もう壮生さんが先に書いてましたね。早いですねぇ...

 まぁ、基本的に壮生さんの書いてることを見てくれれば分かると思うんですがね。......じゃぁ、私は何を書けばいいのか、と。うむうむ。うむうむ。もう自由に書きますわ。

 まず、最初に。司会(?)の野末先生が若い!!えーと、もう80歳にもなるのに、トークも軽妙で、まぁまず、80には見えません、まだ青年のような若々しさがありました。はい。スゴイですよね。私も将来こういう若々しい大人になりたいと思いましたよ。ホントに。ウラヤマシイ.....

 次に、今回の落語に関してなんですが、えー、演目は壮生さんの仰る通りです。
本当はすべて紹介したかったのですが......すべて紹介していると結構な時間がかかりそうだったので、今回は一つに絞ります。いや、もちろんみなさんとても面白かったんですよ。

 では、今回選ばれたのは.....きつつきさんの寄合酒です!!

正直どれにしようか迷いました。だってどれも面白かったんですから....  ですが、今回は一つしか紹介できないというルール上、選ばぬ訳には....

 ハイ。きつつきさんの寄合酒です。きつつきさんは、私ははじめて見たのですが、もう、見た目で気に入ってしまいました。初め見ただけで、「うをっ!」という感じで、でもそこに優しさが感じられました。それと愉快な感じも。ホントに。多分殆どの部員がこの印象を持ったはずです!!!いやぁ、噺家さんってすごいですね。

 で、落語の方ですが、これがまぁオモシロイ!なんというか、テンポが軽快でトントンと進み「また乾物屋か!」「またか(笑)」「乾物屋アハハハハ(爆)」という風に畳み掛けるような笑いを誘われるのですが、サクサク行きすぎず、どっぷり話の中にのめり込めて、最後はズドーンと落とされ、もうずっと笑いっぱなしでした。ホントに上手かったです。
 えーこんな感じです。

 .....と、ここで思ったんですが、さすがに一つだけの紹介じゃ物寂しいと....

 すみません、私、優柔不断なんです......

 そうですね、では、あとの御三方の分も軽く紹介しておきましょう。

 まずは、志の春さんのナンシーですが、新作ならではの面白さで、(壮生と同じですが)役職ごまかすところなんかは爆笑でした。あと、ニューハーフとわかったところも(笑)。ですが、少し風刺めいたものも感じられ、バランスもとれたとても良い話でした!
 
 三木男さんの大工調べは、全体的には、流れるような軽妙な語り口でしたが、細かく見れば与太郎のいかにも!という口調や、喧嘩のシーンの迫力ある声があったりと、抑揚のある話し方で、スッと話に入っていけました。

 そして、たけ平さんの清書無筆。こりゃもう爆笑でした!まず、枕の時点で僕達観客をぐぃぃと引き寄せ(←これがまた上手かったんだ)た後、役柄のイメージとぴったり合った口調で話して僕達をたけ平ワールドへと誘うものですから、もう笑いが止まりません!!!知ったかぶった親父が特にうまくて、もう、笑いを止める余地をくれませんでした!そして、最後をこれまたズドーンと落とされ、まるで笑いのジェットコースターに乗っているような感じでした!!! ...ちょっと言いすぎたか...? いや、でも、そのくらい面白かったんですってば!
 そういえば、たけ平さんとお会いすることが多いですね。我が部(我が校?)とのご縁を感じます。

 いやぁ今回の落語はすべて面白かった!はい、時間があっという間に過ぎて行きましたよ。

 ふぅ
 
 えー、長くなってしまいましたね。

 それでは、このくらいにしておこうと思います。

 みなさん 体調にはくれぐれもお気をつけて

 
                     では また逢う日まで

                       家家家家家家家






2012年3月30日 16時19分26秒 (Fri)

平成噺し座

お久しぶりの大空亭壮生です


ちゃんと生きてますよ('-^*)


基本スタンスはできるだけ更新ですから


おまえはどうせアメブロからのコピペだから書かなくてもいいみたいなことは言わないで下さいよ


先日、内幸町に平成噺し座其の二十三に行ってきました


演者は立川志の春さん、桂三木男さん、林家たけ平さん、三遊亭きつつきさんでした(出演順)


演目はナンシー(新作)、大工調べ、清書無筆、寄合酒でした


いやぁ〜、立川志の春さんのナンシーは現代版ヒエラルキーという感で, とても面白くすごい印象に残りましたね


詳しくは生で見てもらいたいんですが、役職をごまかす上司のくだりは最高でした


次に桂三木男さんの大工調べ


あの難しい口上をすらりと言い切り啖呵を切る感じは実に爽快でした


母方の祖父は三代目桂三木助師匠だそうです


三番手は林家たけ平さん


前回行かせてもらった平成噺し座にも出演なさってましたが凄く面白い


何が面白いいてお客いじりから小話、口調すべてが面白い


また見たいものです


最後は三遊亭きつつきさん


独特の雰囲気が漂い、口調もどこかくすぐったいような感じがし笑わずにはいられないひと時でした


ふーA=´、`=)


久々に記事を書くと疲れるもんですな


大したことも書いてない(そもそもかけないんですがf^_^;)のですがこれからもこんな感じで行きたいと思います



2012年3月18日 21時54分53秒 (Sun)

伝統と様式美・職業としての行司考(藤田隆太郎氏寄稿)

伝統と様式美・職業としての行司考(藤田隆太郎氏寄稿)画像 大相撲についてのあれこれが喧しい昨今ですが、
要因のひとつとして「大相撲」(相撲に非ず)をスポーツと解釈すること
にあるのではないでしょうか(八百長はいけませんが・・・)。
編集子(落語担当顧問)の私見では、「大相撲」はその成り立ちを考えれば、
スポーツではなく、司祭事であり芸能であると思われてなりません。
その象徴として、行司があげられます。
アマチュア「相撲」には司祭色が少ないわけですから、行司とはいうものの、
むしろそれは「レフェリー」でありましょう。
対して「大相撲」での行司があのような衣装を着用している理由を考えれば、
スポーツでないことは明らかでありましょう(スポーツ的一面はありましょうが)。
「古典芸能」としての大相撲を研究せんとすれば、力士についての研究とともに、
行司についての研究は欠かせないものでありましょう。
しかしながら、行司についてのあれこれを考究する機会は多くはないのではないでしょうか。
今回、海城中学の藤田隆太郎氏は、三役格行司である「式守錦太夫」氏に取材を敢行し、職業としての行司について以下に掲載するリポートを作成されました。
現在、同氏は部員ではありませんが、編集子の求めに快諾され、特別に当HPへ寄稿してくださいました。

是非、ご一読ください。

                          (落語担当顧問)


       覚悟と誇り 
―行司への取材から将来について考える―
   (海城中学校・藤田隆太郎)

はじめに

 僕は大相撲を見ることが好きである。いろいろいざこざがあり、残念ではあったが、今後見続けていくことに影響はなかった。三役格行事の式守錦太夫さんも、かつてはただの相撲が好きな中学生であった。
 今回未来の職業について考えていくときに、取材する相手として、まず弁護士や公務員が浮かんだ。僕は、まだ将来の自分の像が描けていない。どういう仕事をしたいのか、何が目標なのか、はっきりとしていない。そのため、弁護士のような、「人の役に立つ」花型というイメージのある職業、そして堅実に、無難に働いていけそうなイメージのある公務員が浮かんだのである。しかし、僕は将来絶対に就くことはないであろう職業の人にお話を伺いたいと思った。そうすることで、自分がまだ知らない世界で生きてきた方の、自分が経験することはないであろうお話が聞けて、自分を見つめなおすきっかけになるのではないか、と考えたからだ。そこで、僕は自分が就くことはないであろう職業の中でも、興味のある相撲界での仕事、とりわけ行司の方のお話を伺いたいと思った。これが、行司への取材を実施することとなった動機である。
 本レポートを書くにあたり、僕は、中学を卒業してから相撲部屋に入門して30年以上行司を続けられて、2011年11月場所より三役格行事に昇進された、式守錦太夫さんにお話を聞くことができた。装束や軍配など、行司の道具を見せていただいた。また、取材のアポイントメントをとる際、相撲協会広報部の林剛史氏にお世話になった。場所前の国技館の様子や、支度部屋を見学させていただくことができた。
 次に、本レポートの構成だが、第一章で行司という仕事について文献などで調べたことについてまとめ、第二章では式守錦太夫さんへの取材を通してわかったことをまとめる。最後に、結びとして、取材を通して考えたこと、そして自分の未来について考える。

第一章 行司の仕事

第一節 行司になるためには

 まず、行司になる方法を紹介しようと思う。行司として採用されるための資格は、義務教育を修了した19歳以下の男児となっている。昔から行司の仕事は早い段階から身につ
けることが肝要だとされていて、現在入門するものはもっぱら中学を卒業して入門すると
いう。入門のためには、相撲部屋に打診し許可を得ること、そして相撲協会にさまざまな書類を提出して受理されることが必要である。採用されれば、相撲部屋に所属しながら、
見習いとして協会にも所属し、協会の下に組織された行司会で先輩行司の指導を受けることになる。また、行司には定員があり、現在45名となっている。(1)

第二節 行司の仕事の概要

 行司の仕事は、取組の際、「はっけよい、のこった」のような掛け声を出し、勝敗を判定しているだけだと思いがちだ。しかし、仕事は多岐にわたり、見えないところでも動きまわっているという。勝負の判定のほかに仕事を挙げると、土俵入りの先導、場内放送、相撲字(2)で番付を書く、番付や取組を編成する際の書記、そして、土俵祭りを行うことなどが挙げられる。土俵祭りとは、土俵を神聖な場所にするための儀式であり、場所が始まる前日に行われ、行司が神道にのっとって司祭を務める。(3)つまり、行司は主に「相撲」という競技における審判の役割、そして「相撲」という儀式における祭主の二つの面を持っているといえるだろう。
 相撲の起源は奈良時代にあり、宮廷で行われる儀式であった。そして、現在のような行司が登場したのは室町時代だといわれている。(4)その長い歴史の中で、行司名が襲名されたり、軍配が「譲り団扇」として次の代に譲られたりしてきた。
 行司にも力士と同じように番付があり、上位から立行事、三役格行事、幕内格行司、十枚目行司、幕下格行司…とあり、徐々に昇進していく。また、装束も地位によって差がある。十枚目になると、袴の裾が長くなり、くるぶしまで隠れる。(5)三役以上は草履を履き、十枚目以上は足袋、それ以下は裸足で土俵に上がる。また、立行事は腰に脇差を差している。(6)

第二章 行司への取材

第一節 今までの経緯

 前述したが、今回三役行事の式守錦太夫さんにお話を伺うことができた。そこで、まず学生時代のころどんな人だったかを聞いた。もちろん中学を卒業して行司となったので、中学時代の話をしていただいた。中学では、勉強が嫌いで全然できない生徒だったという。一方、相撲は当時から好きで、当時85kgの体重を活かし、力士になることが夢だったという。そして、周りは高校へ進学する中、15歳で宮城野部屋に入門する。力士になることを目標に入門したが、親方にはすぐ力士としての素質がないことを見抜かれたという。部屋に行司がいなかったことも相まって、行司としてデビューした後でも力士になれると親
方に説得され、入門一ヶ月後の3月場所で初土俵を踏んだという。初土俵の時のことは、
緊張していて何も覚えていないという。何も行司の仕事がわからないまま、結局力士になることもなく、行司として歩んでいくことになった。
 その後、順調に地位を上げていく。第一章でも述べたように、十枚目まで上がると袴の裾が長く、また足袋も履く。46歳の時に11代目式守錦太夫を襲名した。51歳の2011年11月には、ついに三役格に昇進して、草履も履かなくてはいけなくなった。相撲の取組自体は速くなり、見極めづらくなるのに、動きにくくなる大変さがあるという。位が上がるにつれて変わるのは動きづらさだけではない。責任は重くなり、常に緊張しているのだという。
 次に、師匠に教わったことを聞いた。錦太夫さんには、師が2人いるという。一人目は、宮城野部屋の親方である。数々の力士を見てきて、錦太夫さんの行司としての才能を見出し、行司の道へ導いてくれた人である。もう一人が、27代目木村庄之助だという。27代目庄之助は、行司の先輩であるが、行司の仕事のことよりもどういう人間であるべきかを強く教わったという。挨拶をすること。金銭面では堅実に、厳しくあること。嘘はつかず、正直であること。このようなことだという。これらのことは、相撲界でだけでなく、広く社会で通用する教えだと感じた。現在では、錦太夫さんにも弟子がいらっしゃり、指導していく身になった。また、下の人たちには、師匠に教わったことを伝えていきたいと語った。

第二節 仕事への誇り

 力士は、勝てば白星、負ければ黒星が残る。勝ち続ければ優勝という名誉も得られる。しかし、行司はそうではない。「行司黒星」という言葉がある。これは、行司が勝負の判定を間違えて、審判委員から物言いがつき、「行司差し違え」になることである。これは記録に残る。しかし、白星、つまり正しく判定したことは残らない。(7)錦太夫さんは、行司の仕事を「罰があって賞がない」と表した。ミスがないことが当たり前で、失敗することは許されないという。もちろん、新米のころは、間違えがたくさんあることは当然だとも言った。あまり気にしすぎて次に差し支えることはよくないが、それを反省して、いかにミスを少なくしていくか考え、実現していけることがプロの行司になることだと語った。
 行司は神事も行う。第一章で述べた土俵祭りなどである。その時、伝統の重みを感じるという。また、代々錦太夫に伝えられる譲り団扇を見せていただいた。先代から受け継いだ軍配は、やはり重みが違うそうである。
 今回の取材を通して、錦太夫さんは「責任」や「自覚」といった言葉を繰り返した。これらの言葉が錦太夫さんの仕事への考えを表しているのではないかと思う。今回の取材を通して、錦太夫さんは謙遜されてご自分ではおっしゃらなかったが、行司という仕事が大好きで、誇りを持って仕事に臨んでいる、そんな気持ちがにじみ出ていたように感じた。

終わりに

 まず、今回の取材で得られたことをまとめたい。行司でも、社会で生きていくことは同じであった。錦太夫さんが親方に教わったこと、これが行司をやっていくうえでも最も大切なことだ。錦太夫さんは、僕と同じ15歳で相撲界に入ると決断し、知らない世界に飛び込んだ。これは相当な覚悟が必要で、なかなかできないことだろう。その覚悟があって現在も続けられていることは、彼自身の誇りにもつながっているのではないか。そして、失敗しながらも、反省して次につなげていくことがプロの行司になることにつながったという。そこからも、行司としての誇りが感じられた。彼は、僕たちに「何事もやり続けること」が大切だと教えてくれた。僕は、この話が一番印象に残った。僕は、いつも途中で飽きたり諦めたりして、長く続かない。そのため、何か一つ最後までやり遂げたいと思った。これが、今後生きていく中で、とても重要なことのような気がした。
 今回のレポートを通して、長く社会で生きてこられた方の、その上、知らない世界で生きてきた人の体験や考えを聞くことができた。たぶん、今回が僕にとって初めて真剣に将来について考えた機会だったのではないか。まだまだ先だという意識があったが、同じ年で人生を決める決断をした人もいる。決断する時は逃げることなく、自分の仕事に誇りを持てるような人になりたいと思う。取材をしなければわからないことを発見できた。



【注】

(1)根間弘海『大相撲行司の世界』吉川弘文館 2011年 p.p.20-27
(2)相撲字は客席が埋まるよう願いを込め、隙間を少なく詰めて書く。
(3)前掲書 根間 p.p.44-59
(4)同前 p.p.8-11
(5)見せていただいた袴は刺繍で絵が描かれていた。
(6)前掲書 根間 p.p.31-33
(7)同前 p.p.40-42
【取材先】
・式守錦太夫(本名堀内五雄・行司)2012年1月6日 国技館内行司支度部屋にて
 写真は相撲字で書いていただいた色紙。

・林剛史(日本相撲協会広報部)2012年1月6日 取材の取次ぎなどでお世話になる





2012年3月13日 0時10分28秒 (Tue)

古典芸能部創設者卒業記念第二弾「報恩送別寄席」(三木君からのコメントを追加しました)

古典芸能部創設者卒業記念第二弾「報恩送別寄席」(三木君からのコメントを追加しました)画像 既報の通り、古典芸能部創設者卒業記念第一弾は、11日に行われました桂小金治師匠講演会でした。
翌12日は第二弾として、創設者である平山創君(海原亭創太)、三木駿鷹君(近視家三本助)への「報恩送別寄席」が、元参議院議員で大正大学教授である野末陳平先生をゲストにお招きして行われました。
この日は三部構成で、出演者は、なんとおよそ30人。
当部の活動史上、最大規模で行われました。
企画段階で、このままでは余りに出演者が多いので、縮小する案も出されました。が、部員一同、創設者の先輩方に是非ともお楽しみ願いたいとの念絶ちがたく、盛り沢山なプログラムでの実施となりました。
とりわけ、第二部では、卒業する創設者たちの「隠居名披露」が行われました。
二人の隠居名は、創太改め創翁、三本助改め森助です。
そして、創太を継ぐ在学生は現在の志ん米さん、三本助を継ぐのは空巣さんとなり、二人の「襲名披露」も同時に行われ(写真)、新旧の共演が祝祭に、なお花を添えました。
また、創設時から今日までを中学部長製作の映画で振り返る「思い出アルバム」の公開は大いに盛り上がりました。
第三部では、「ケーキカットによる送別アトラクション」に加えて、「報恩大喜利」および顧問と創設初級メンバーによる「座談会」も行われました。
創草期、まだあどけなかった平山創君、三木駿鷹君の二人が右往左往しながらも奮闘努力して形あるものにしていた頃を思いだし、編集子には万感に迫るものがありました。
最後に、参加者一同で記念撮影が行われ、一本締めにて散会しました。
ゲストの野末陳平先生は、「海城寄席に寄せてもらうのは年末以来、二度目です。いやはや、毎回、達者にやるものですね。勉強をやりながらでしょうから、よく時間があるものだなぁ、と感心します。セリフを覚えればいいってものではないですものね。間合いだとかクスグリだとか考えるわけですものね。第一、皆さん、「いっぱし」を気取っての高座ぶりだから、いやはや楽しいものです。古典落語あり新作落語あり、謎かけあり沢山の色物あり、でね。休憩のとき、落語家も将来の志望の一つです、という生徒さんから相談を受けましたよ。並大抵の世界じゃないよ、と話したけれども、頂く拍手の快感は魔力らしいからね。では、またお目にかかります」とコメントをお寄せくださいました。
この日の主役である三木駿鷹君は次の感想を寄せてくれました:

「3/12 10:30に集合」
これしか伝えられぬまま,どんなものかな〜と期待しながらも参加させていただきました。
古典芸能同好会をここまで大きな部に盛り上げてくれた後輩くん達です。文化祭と同じように,かなり楽しみな気持ちで参加させていただきました。
はたして・・・
やはり,さすがの彼らでした。
僕の想像を超える楽しい・面白い・あたたかい会を開いてくれました。
僕は毎年の文化祭で彼らの演目を見せてもらうのが楽しみでした。
年々上達していく様子は目を見張るものがあり,とっくの昔に彼らに僕は抜かれていました(笑)
今回、なんと半日にわたる盛大な会の中で,見せていただいた後輩くん達の上演(しかもあの、プロの噺家さんも緊張する野末さんの前で、です!さぞ緊張したことでしょう)はまたも「進化」していました。
彼らの中からプロの落語家さんが出るに違いありません。
その彼らは,落語やコントの腕はさることながら,僕ら先輩を親身になって送別してくれる優しい心を持っています。
僕ら高3生のために送別会を企画してくれたところ,サプライズで初代部長平山君と僕とのケーキ入刀?(笑)企画を立案してくれたところ,
そしてなんと,僕らのそれぞれに向けて書いてくれた寄せ書き…
他にもたくさんの、とてもここには書ききれない優しい心。
なんて先輩思いの優しい後輩たちなんでしょう。
顧問の先生も,僕ら卒業生を涙ながらに送別してくださいました。
優しい生徒達・優しい顧問の先生。
そんなすばらしい人たちがつくる最高の部,それが古典芸能部です。
この部が永遠に存続することを願ってお礼の挨拶とします。
とても楽しかったよ。本当に,本当に,ありがとう。
ぜひこれからも活動に励んでくださいね。
                 (近視家森助こと三木駿鷹)


創設者のお二人、そして急遽駆けつけてくれた往年の名コメディアン斉藤「教授」、本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

隠居名を引っ提げて、これからも是非、在学生部員への指導に力を貸してください。

たいまつは見事、時代へ引き継がれました。落語万歳!

                      (古典芸能部顧問)

2012年3月11日 22時21分20秒 (Sun)

古典芸能部創設者卒業記念企画第一弾「桂小金治師匠ご講演」

古典芸能部創設者卒業記念企画第一弾「桂小金治師匠ご講演」画像 創設5年目の古典芸能部。その創設者は二人の現高3で、このたび卒業となります。彼らへの報恩記念が企画されました。今日はその第一弾をご報告いたします。
かつて,あるときは“怒りの小金治”,またあるときは“泣きの小金治”の異名で,映画・テレビと大活躍をされた落語家の桂小金治師匠が11日(日)に来校され,本校古典芸能部員へご講演くださいました。
 大正15年のお生まれの師匠は現在86歳。昭和22年に日本芸術協会(桂歌丸師匠を会長とする現在の落語芸術協会の前身)の桂小文治師匠に入門。持ち前の素質とご努力により,将来を大いに嘱望されました。この頃のご活躍ぶりは,劇作家の大西信行氏の書かれた「落語無頼語録」などに見ることができます。
 昭和27年、松竹映画の川島雄三監督に請われて映画界入り。以降,日本映画史上に燦然と輝く名作である野村芳太郎監督の「拝啓天皇陛下様」をはじめとして,実に120作余の映画出演を数える小金治師匠。映画出演を通じて育まれた名優との友情,とりわけ石原裕次郎氏とは朋友の間柄でした。
 その後は、テレビ界でもご活躍。NHKでの「ポンポン大将」でのご好演を懐かしまれる方も少なくないでしょう。また、NET(現テレビ朝日)の「アフタヌーンショー」ならびにNTVの「それは秘密です」での名司会ではお茶の間からの圧倒的な支持と人気を得られました。殊に、後者での名セリフ「雨やんで人傘を忘る。とかく人間は時の流れに過ぎし日のことを忘れがちなものです」は今なお、視聴者の耳に新しいことと思われます。このセリフは師匠ご自作とのことです。
 その小金治師匠のご来校がこの日、実現いたしました。これは、昨夏、当部が「ムーランルージュ新宿座」の調査、研究をした際、知遇を得ることの出来た作家の本庄慧一郎先生のご紹介によるものです。
 本庄先生に開会のご挨拶をいただいた後、小金治師匠の溌剌たるご挨拶により、会はスタート。途中、師匠の往年の高座を鑑賞。ハッカ飴の如きさわやかな口跡による本格的な江戸落語に接した部員達。なるほど、当時、大いに嘱望されたこうなずけると同時に、嗚呼、このような素晴らしい噺家さんを奪った映画界が恨めしい…という気にさせられました。
 また、部員の披露した「寿限無」をほめてくださり、また、なんと、絶品と評判の「大工調べ」の棟梁の啖呵もご披露くださり、まさに耳福とはこのこと、と感じ入りました。
 そして洒落だくさんの中にも時にしんみりとお話される数々の含蓄あるお話。
 とりわけ、多くの部員の心の琴線に触れたのは次のお話でした。
 小学生の小金治少年。ハモニカが欲しくて父上にねだるも、「音の出るものが好きならこれを鳴らしな」と一枚の葉を取り出して、それは見事な草笛の音色を聞かせてくれた。自分も見よう見まねにやってみるも、全くできず、三日であきらめてしまった。
 何日か経った後、「草笛の稽古はしないのか」の父上に、「あぁ、あれなら三日でやめたよ」。そのせつな、「そういうのを三日坊主ってんだ。俺ができておまえができないはずがないだろう。えっ、そうだろう。悔しくないのか。俺は吹ける。でも、おまえは吹けない。おまえは俺に負けたんだ。一念発起は誰でもするよ。実行、努力もみんなする。でもな、そこでやめちゃあだめなんだぞ。一歩抜きん出るためにはな、努力の上に辛抱という棒を立てるんだよ。その棒に花が咲くんだぞ」と喝を入れました。負けじ魂に火がついた小金治少年。努力鍛錬の末、ようやく、メロディーとなったとき、「父ちゃん、できるようになったよ」と喜び勇んで報告すると、「努力の上の立てた辛抱に花が咲いたてぇわけだな」と言ってくれたそうです。「ああ、よかった」と喜びとともに寝た翌日、枕元に小さい箱が置いてある。何かと思って開けてみると、なんと、あの欲しかったハモニカが出てきた。びっくりした少年は母上に、「これを見てよ。父ちゃん、きっと俺が草笛を吹けたから昨日、ご褒美に買ってきてくれたんだね」と伝えるも、母上曰く、「そのハモニカはね、3日も前に買ってあったんだよ。お父ちゃんが言っていたよ。あいつはきっと草笛が吹けるようになるから買ってきたんだってね」 それを聞いた小金治少年の目から大粒の涙が流れ落ちた・・・というものです。
 このお話に、古典芸能部の創設者の一人である高校3年生の平山創君は、「親子の情。子に対する親の信頼。感銘を受けました。気の早い話ですが、自分が親になった際の、父親としての在り方を学んだ気がします。師匠が体験をもって語られたように、自らが決断したことは未来を信じ、たゆまぬ努力をもってやり遂げたいと思います」との感想を寄せてくれました。
 数々の泣き笑いのお話の最後に、師匠自らの草笛での「蛍の光」で講演は終了いたしました。
 終了後、部員たちとご歓談を頂き、記念撮影(写真。小金治師匠の隣が作家の本庄慧一郎先生)にも応じてくださいました。
 帰途をご一緒した顧問は、余話をこれまた沢山お伺いすることができ、さながら講演第二部といった趣となり、役得とはまさにこのこと、と一人ごちて帰途につきました。
 小金治師匠、ならびに本庄先生ご夫妻、そしてNTVの青木様、本日は誠にありがとうございました。
                    (落語担当顧問)